「バレエを覚えろだァ!?」

 七月某日。ステイ先の広いワンルームにDVDを持参し来訪したアレックスが、眼鏡の奥でニッコリと笑う。明日から週三でダンスのレッスンが始まる事に、青峰は驚愕していた。他人事な火神は腹を抱えて笑い、ベッド上を転がっている。

「火神! お前の師匠、頭湧いてんだろ!!」

「職の幅が増えて羨ましいぜバハハハハ!!」

《アンタもだよ、タイガ》

 師匠から言われた火神は、口を笑わせたままに固まった。

《欲しいんだろ? 自分だけの魅せ場が。だったら言う事を聞け》

 そんなこんなで始まった九月までの課題は、これから見せられる映像を踊れるようになる事だった。

 青峰は、今まで散々意味の分からない練習をしてきた。例を上げれば、野外で硬式球サイズのスーパーボールを壁に打ち付け、地面でワンバウンドさせ手元に戻す練習。コレは巧く戻らずアチコチ行くボールにイライラした。小さい頃からやっていたと言う火神が隣でスイスイこなすモンだから、青峰は腹が立って仕方無かった。

「バレエなんか、見た事もねぇよ。知ってるか? 青峰」

「アンドゥトロワだろ? ワケ分かんねぇ」

 ソファーに腰掛けた二人は項垂れテレビに流された映像を眺める。それはある公演のステージで、男性のソロだった。予想外にもガタイの良い男が、スポットライトに照らされ立っている。最初は青峰がその姿を指差し馬鹿にして、火神もケケッと歯を見せ笑っていた。

 しかし、映像が終わる頃には二人の顔もすっかり変わっていたのだった。

 曲が始まりダンサーが両手を広げた瞬間、雰囲気が変わる。そのダンスに青峰は仰け反りながら真顔に、火神は目を見開き食い入るように見た。――二人は気付いた時には魅了されていたのだ。その男性の動きはダイナミックだった。

 男性は片足を踏み切り、空中で足を広げ跳ぶ。自分らと謙遜無い程飛距離が高いのに、彼は優雅にその場へ着地しすぐにターンを決め、また跳ぶ。重力なんか画面の男には関係無い。それが信じられなかった。綺麗なのに力強い、美しいのに男らしい。

 優雅そうに見えるが、バスケや普段の生活では使わない内側の筋肉を酷使するその舞踏は、柔軟性と身体……強いては脚を鍛えるのに持ってこいだ。特に"柔軟性"は、今の火神に足りないモノである。

 アレックスはこの課題で、掴んで欲しかった。ダイナミックで驚愕的なプレイをするこの日本人を、更に個性的に仕立てる為に。

 バスケは魅せる競技だ。特にNBAはスーパープレイが多彩に繰り広げられられ、華やかさに観客の目を惹く。技術は勿論、プロは"他者より秀でた魅せるプレイ"が山のようにあるからプロなのだ。

 更に人種差別が厳しいこの地では、アジア人だけと云うだけで相当なビハインドを背負う事になる。その事実を、目の前の彼等は知らない。そんな事に負け、この天才が世界から姿を消すのは大変勿体無いのだ。

 だから、アレックスは考えた。全て観客をこのアジア人が惹き、目が離せない程に魅了させる術を……。ダイナミックで強引なプレイはそのままに、バレエのような優雅で繊細な動きと、彼の持つ手品のように独創的なモーションを複合させる。

 ――良いじゃないか。愛弟子である氷室辰也の、あの"美しい身体の運び"は人の目を惹く。だから今度はソレを青峰大輝へ擦り込む事にした。その為には長年慣れ親しんだバスケの動きを「優雅に」と指導するより、別の角度から教える方が早い。……ああ見えて青峰の応用力は並外れたモノだ。

 そうしてアレックスは、彼を"美しき野獣"へと仕立て上げ、本場の過酷な世界へ送り出す事にした。


 ―――――――――


「友達にアドレス教えるからね? ○○の」

 日本ではジメジメした梅雨の余韻を残し、本格的に夏が始まる。今年も猛暑になるとニュースでやっていた。冬寒くて、夏暑い小さな島国。温暖化のせいか、昔に比べ毎年少しずつ過ごしにくくなっていく気もする。

「誰に?」

「好きなんだってさ、私の男友達が」

「えっ……?」

「一目惚れだって」

 友人は、同じ大学、更にはバイト仲間の男友達に「紹介してくれ」と頼まれていたようだ。ジュース一本で友人を売る事にした彼女は、悪気無しに謝って来た。

 恋の仕方を忘れたかのような○○は、羞恥から来る甘酸っぱい気持ちに顔が赤くなる。

「……最近、色気出たからね」

「もうやめて」

 友人のからかいに、少女は手をバタバタさせた。

 そうやって、新しい恋が始まる気がした。

 このまま一生、もう会えないかもしれない相手を待つのは限界もある。『迎えに来る』と言うなら、それは一体何時になるのだろう。連絡が一切無い、生きているのかも分からないまま二ヶ月が過ぎる。もしかしたら、アチラで彼女を作り幸せにしているのかもしれない……。洋画ドラマのような大きなベッドで、外人女性と裸で朝を迎える相手の姿は、セクシーで似合っていた。だからこそ、彼女は胸を痛めながら逃げ場を求め始めてしまうのだ。

【初めまして。よろしくお願いします。】

 しばらくしてスマホに届いた知らない人物からのメッセージへ、○○は似たような文章を返した。顔も見たこと無い相手とやり取りするのは初めてで、緊張する。頭に浮かんだ人物像は"彼"と真逆で、笑顔がよく似合う好青年だった。


 ………………………


 壁一面が鏡張りになっているその教室に、クスクスと笑い声が漏れる。日本で云う小学生程度の年齢なのか、幼い少女達が似合わない雰囲気を醸し出すガタイ男性二人を潜み笑いで歓迎した。

 彼等はTシャツ、バスケットパンツで構わないと言われたからそのままで来たし、上履きだってバッシュだ。火神はアウェイな雰囲気に唸った。青峰がジロリと睨むと、少女達は意外にも怯まない。二人は溜め息を付き、講師を待つ事にした。

《二ヶ月じゃ、無理だよ》

 やって来た少女は、彼等にそう告げた。「はい、そうですか」と諦める選択肢も無い二人は、頭を抱える。その若い講師は華奢で、透き通るように肌が白かった。首なんか掴んだら、簡単に折れてしまいそうな程に細い。自分達と歳も変わらないと言う。もう十五年もバレエをやっているらしい。火神がそう通訳してくれた。

 青峰は、その少女に見入っていた。彼女と目が合った瞬間、顔を逸らされ俯かれた。外人らしからぬ程オドオドして、いて物静かな佇まいだ。

 ジッと眺めているからと言って『惚れたのか?』と聞かれれば、そうじゃない。――彼は、彼女の向こうに似た人間の影を見ていた。体格も顔も、全然違うのに……雰囲気が似ていた。これでおっちょこちょいな部分があって、面白くなくなると頬でも膨らませる人間だったら完璧だ……。そんな風に彼女を眺め続ける青峰へ、火神は悪戯に声を掛ける。

「……誘えば良いだろ? もう二ヶ月もオナニーだけは辛ェだろ」

「お前もな? 火神」

 そう返された火神は、気まずそうに頭を掻いた。アメリカに来てから、毎日毎日がトレーニングだ。オンナと遊んでいる暇も体力も出会いも無い。お互い隠れて自慰をするのだが、大抵匂いでバレていた。

 講師である少女が手を叩き、初歩から教えてくれると言う。ダンスをした事がない二人は、緊張しながら鏡の前でバーに掴まり、ポジショニングの姿勢から入った。

 ――三分後、ガニ股気味な彼等の絶叫が教室中に響いた。それは"矯正"させる為、股間に下敷きをスコンとはめられ、大事な部分が大変な事になってしまったからだった。

 そして悶絶から何とか復活し、下敷きを股に挟んだ二人が内腿を閉めながら爪先立ちになれば、太股から先に有り得ない程の地獄を見た。


 ―――――――――


 初日のレッスンを終えタフさが自慢だった両名は、翌日"脚の筋肉痛"に起き上がれなくなっていた。悪戯心から青峰が呻いている火神の足に腰下ろせば、彼は肩を思い切り殴ってくる。そうやって二人は朝からゲラゲラ笑う。―――のだが……ピンポン押しても中々部屋から出て来ない二人に、アレックスはぶち切れてその日のランニングメニューを増やしてしまったのだった。

 講師を引き受けてくれた少女の舞いは可憐で、長い腕が華奢な背中を大きく見せる。青峰は休憩時間でも彼女から目を離さなかった。その視線に気付くと、相手は踊りを止め俯いてしまう。

「オトコが居るぜ?」

「……あっ、そ」

 頭から冷水を被ったように汗でびしょ濡れになった火神が、後ろからそう声を掛けた。あの可憐な外人乙女はダンサーの彼氏と長い事交際をしているらしい。

 ――単純に羨ましい。そうやって恋人同士が傍に居られる事が……。飛行機で十三時間のこの距離は、あっという間に男女の会いたい気持ちを無駄にする。

 ピルエットの練習が始まった二人は、綺麗にターンが出来なくて苦戦した。着地する度にドタンドタン足音を鳴らすと、周りの少女達から失笑が漏れる。火神はバツが悪そうにグシャリと頭を掻き、舌打ちした青峰はソッと呟く。

「……お嬢サマなら、日課だろ? こんなん」

 青峰は自分の失態を再度舌打ちしながら、海の向こうに居る相手に向けて"届かない皮肉"を飛ばす。

 偶然にもソレは、いつしか彼女の夢に出てきた台詞と全く同じだった。


 ………………………


 夕方、講義が終わり大学近くのファミレスの前で待っていると、約束をしていた相手が手を振りコチラへ来た。

「遅れて、ゴメン」

 早々に謝ってくれた男性はリュックを片方に掛け、Vネックのサマーセーターにジーンズ。初対面な事を恥ずかしそうにして、頭を掻く。

 店内はどのテーブルも学生で溢れて、賑やかだ。忙しそうにバタバタする店員の姿を見れば職業病なのか、自分までソワソワした。通された席は窓際で、すぐ隣の国道を様々な車が走る。

 友人が紹介してくれた男性は、予想以上に好青年で○○は驚いていた。黒い短髪、犬のように愛嬌がある優しい顔立ち。身長も175cmで、少しだけ細ましいが手はゴツゴツして大きかった。

「こないださ、バイト先に来たじゃん。そん時居たんだよ? オレ」

 低い声の持ち主は、向かいの席に座りながらカラカラと笑う。○○は、『別に? 普通だよ?』と男性の容姿について大雑把に答えた友人を恨んだ。

 ――格好良いよ……。

 声も周りの学生より低く、聞いていてドキドキした。二重のパッチリした目元に細い整った眉。鼻は高く、筋が通っている。見た目だけでも、モテそうだ……。

 更にはフランクな性格なのだろう。彼は話題が尽きない。次々に話を提供してくれる。緊張から俯いてしまうと「……オレの話、つまんない? 喋り過ぎ?」と気遣ってくれる。だから少女が首を横に振り笑顔になれば、相手も微笑んでくれた。


「好きな人とか、居ないの?」

 食事途中にそう聞かれて、○○はドキリとした。今はもう、何て答えていいか迷う程に彼女は青峰を想い続ける自信が無かった。目の前の男性は、タイプから言えば相当に当てはまる。それこそ、青峰よりは好みに分類される筈だった。

 でも、何だろう……。何かが物足りない。失礼な話だが、火神と比べたとしても"物足りなさ"を感じる。確かに向こうは社会人で、学生には無い"余裕"があった。財産だって桁違いにある。でも、そう言う事じゃない……。もっと違う単純な部分に、欲しいモノがある気がした。――結局少女が質問に答えられずに居ると、彼は愉快な教授の話をし出した。

 頼んだメニューを食べ終わった頃にお金を差し出せば、いらないと言われる。でも何か悪い気がした○○が無理矢理にでも渡すと、相手はハニカミながら受け取ってくれた。

「あのさ……好きな人居ないなら……考えといてよ。また連絡するから」

 微妙な距離を開けた二人は退店し、外を歩く。生温い湿気が纏い、熱帯夜らしい暑さに○○は疲弊感すら覚えていた。その帰り道に、告白めいた台詞を言われ優しく頭を撫でられる。その手が余りに大きくて動きがゆるやかだったから、先程比べてしまった事に申し訳無さを感じた。

「じゃ、また今度」

 バス停に着いた彼は、丁度着いたバスへ乗り込む。待つ人が居なくなったバス停に一人取り残された○○は、「また今度」と言う言葉に安心感がある事に気付き、強く心が揺らめいた。

 言ってくれたのに……。「明日会ってやる」って……そう、言ってくれたのに――。

 最後の"あの嘘"は、まるで自分を八つ裂きにするように信心をズタズタにした。○○は、それでも青峰を想い続けてしまう自分が惨めで嫌だった。

「何してるんスか?」

 一人だと思った世界に誰かの声がした。少女は驚き、声のした方向を見る。すると、そこにはTシャツとジャージに身を包んだ黄瀬涼太が居た。そんな格好でも完璧な容姿を魅せキャップを外し、しまっていた前髪をパサパサと戻す。

「……尾行、好きなんで。ファミレスからココまで」

 彼は不思議がる顔をした少女にそう言って、趣味を疑う答えを告げる。別に深い意味はない。"偶然"にもランニング途中に面白い光景を見掛けたから、その後を着いて来ただけだ。

 そう言えば、彼は中学や高校時代もちょこちょこと尾行していた。当時は隣に誰かしらが居る事が多かった。――でもまぁ、一人でやるのも案外楽しいモンだ。

「モテモテっス、オレより」

「……そう言うんじゃ」

 黄瀬は○○へ嫌味をひとつを飛ばし、つばを持ったキャップで口元を隠す。コンクリートブロックが並ぶこの歩道には、未だ二人しか居ない。ここから五分歩けば、バスターミナルを備えた大きな駅があるからだろう。

「あの二人、今何してると思う?」

 背後に大きく丸い満月を背負った黄瀬は、昨日の深夜に時差も考えず電話を寄越した火神から聞いた近状を報告し始めた。愉快そうにクスクスと口元を隠したまま、身体を曲げる。

「バレエっスよ?」

「バレー? 球技の?」

「違う。コッチの、バレエ」

 そう言って黄瀬は両手と片足を緩やかに挙げ、ポーズを決めた。長い手足が美しくソレを見せる。○○は、強面でガタイの良い二人からそんな想像が付かずに少しだけ笑った。同時に、遠い海の向こうから連絡が来る事を羨む。

「駄目だったらバレリーナになるつもりなんスかね?」

 体勢を戻した黄瀬が、愉快そうにハハハ……と笑った。そして火神から聞いた青峰の近状を教えてやるのだ。勿論、蛇足だと知っていて……。

「青峰っちなんかバレエのコーチにデレデレ。相当な美人だってさ」

「……そう、なんだ」

 気にしない振りをしてそう答える彼女は、自身の豊かな想像力に耐えきれずに俯いて黙ってしまった。――やはり、取り立て秀でたモノが無い自分の存在は、もう彼の心の中には居ないのだろう……。美人で華奢なバレエダンサーは、手足が長く逞しい彼と並べば『美女と野獣』だと讃えられそうだ。

 ふいに、鞄に入った○○のスマホが一件のメッセージを受信する。恐らく相手は先のデートをした男子で、送信の速さから好意的な文面だろう。

「帰って来るよ? あの二人、テスト終わったら」

「……会って貰えるか、分かんないよ」

 ――そんな風に、彼女が今にも泣きそうな声で呟くもんだから、黄瀬はひとつアドバイスをしてやる事にした。

「保証が無い連絡待つのが嫌なら、新しい恋に進めば良い」

 まるでバレエのように緩やかに、そして優雅に少女の鞄を指差した黄瀬は、ニコリと笑う。

「でもさ、青峰っち……"裏切り"には冷たいから。本気で」

 黄瀬は整った笑みを崩す事無く少女の目を真っ直ぐに見た。もし青峰が彼女を今も想い続け、迎えに来た時……それが一度でも別の人間の"所有物"となっていたら――彼はどうするのだろうか?

 答えは簡単だ。青峰はその人間に対して完璧な程にまで壁を造り、諦める。

 証拠は去年のクリスマス。あれ程まで長い片想いをしていた桃井を、あんなにも無下にしたように……。青峰は過去・現在・未来の全てで自分だけを愛せる女性が欲しいのだ。誰かと関係を持つなら、それは彼への最も深い裏切りとなる。

「後悔だけはしないで下さいな? ……っス」

 『誰の味方なの?』と聞かれれば、黄瀬はきっと「さぁ?誰の味方でも無いけど?」と答えるに違いない。

「……何度も言うけど、コレはドラマじゃない」

 くいと顎を上げた黄瀬は視線を流し、前髪を掻き上げ、キャップへと纏め入れる。彼が残した"その言葉"は少女の恋心を責める台詞にも似ていた。そうやって彼は、少女の判断を鈍らせる。


 ―――――――――


 深夜。鏡張りの壁に向かい、一心不乱に踊る男性がいた。蛍光灯を一部だけ付けたこの練習場で、遣わない筋肉を酷使し全身を汗に濡らす。未だ慣れない爪先立ちにも苦戦していた。

 一緒に付き合ってくれていた友人は、床にデカイ図体を投げ出しガアガアとイビキを掻いている。時々幸せそうに笑うのが、内に襲う"孤独"を紛らわしてくれた。

 明日は休息日だ。だから彼は夜が更けても踊り続ける。別に赤い靴を履いた訳じゃ無い。きっとこれは願掛けだ、自分への……。

 もしコレを一ヶ月後にある"自分の誕生日"までに踊れるようになったら……。その時は"彼女"に電話でもしてみよう。もしかしたら、万が一にも、まだ未練がましく自分を想っているかもしれない。

 「会いたい」と言われたら「三十分で来れたら、会ってやる」と冗談を言うつもりだ。アイツは泣くだろうか? 笑うだろうか? ――どうにかして、来てはくれないだろうか?

 そう願いながら夜通し踊り続ける未練にまみれた彼は、次の朝に疲弊した身体を友人に引き摺って貰い、自宅へ戻る事が出来たのだった。

「……青峰、お前いつからこんなスポ根野郎になったんだ?」

「出来ない事があるのが、嫌いなだけだ」

 眉と口角を上げ、青峰の顔を見る火神は、憎らしい程愉快そうだ。

「天才の……困った性だ」

 そんな彼に、青峰はいい加減な"嘘の理由"を教えてやった。