行きましょう、せっかくだから。


 ボクは、青峰君から頼まれているんです……キミを。


 空港にキミを呼ばなかったのだって、ボクの為だって。……そう教えてくれました。


 だから、ボクは彼の気持ちを無駄にはしたくない。勿論、黄瀬君の気持ちもです。


 ……コレはキミが持っていて下さい。ボクと行くのが嫌だと思うなら、ご友人と使っても構いません。


 ――待ってます。この前と同じ場所に、今夜18時……。



 そうだけ言い残し、黒子はカフェを後にしていた。○○は、自分が何て返したのかも覚えていない。頭にあったのは上記の黒子の台詞だけで、一人残された少女は暑さで汗をかいたコーヒーを掴み、口に含んだ。ミルクだけのソレはビターで、子供の自分には酷く合わない気がした。だから彼女は、黒子が手を付けなかったミルクを飲み干す事にする。

 自分と付き合い始めた青峰は、こんな気持ちだったのだろうか? 彼はあの時『好きな人に振られ、連絡も来ない』と言っていた。そこに自身へ好意を寄せる相手が現れる。あの時と今の状況が酷似している事に気付いた○○は、それ以上先を考えてしまうより前に、離席した。

 もし今、彼女が黒子の好意を受け入れるとしたら、その理由の大半が"穴埋めの為"となるだろう。青峰に対する喪失感を紛らわしたくて、黒子からの告白を受けるのだ。

 甘んじたこの行為は、表向きでは黒子を幸せにするだろう。……自分がそうだったように。

 でも、黒子もいつか気付くかもしれない。自分を透してまた別の誰かに、○○の気持ちがあると云う事を……。

「ズルいんだよ。青峰君は……」

 去って行く方は楽に違いない。だって、自分で気持ちを切り離せるから。

『そんなんじゃねぇよ』

 ……そう、聞こえた気がした。未練がましく手帳に挟んでいる、彼の書き損じた手紙から。


 ―――――――――


サーカスを、『どんなんだった?』と聞かれれば、殆どの人間が第一声に「凄かった」と答えるだろう。凝縮されたエンターテイメントは、全て観客の為に存在する。巧みな演出、驚愕のパフォーマンス、愉快な話術。笑って驚いて感心して泣いて――これ程までに感情を揺さぶる練られた構成に、何百人と云う観客は『凄い』と云う感想だけを残す。ソレは、語弊が乏しい訳ではない。中には話術や文才に長けた人間も居るだろう。でも、圧倒的なその娯楽に言葉が出てこないのだ。

 そんな興奮を残した二人は、黄瀬の用意したホテルの一室に居た。窓からはサーカスの巨大なテントの一部と、向こう側に広がる夜景が煌めいていた。このワンルームを押さえるのに、いくら掛かるんだろうか。……そして、彼は何故この部屋を自分達へと、用意したのだろうか。

 電気を薄暗くしセミダブルの大きなベッドに腰掛けた二人は、ただひたすらに夜景を眺めていた。黒子は膝に手を置き、緊張している。こんな表情と性格だから、いつも余裕があるように見られるが、今は好きな女性とベッドの上に居るのだ。しかも、相手は逃げずにこうやって来てくれた。


 ――……アイツ、お前に返すよ。慰めてやってくれ――


 空港で青峰に言われた言葉を伝えれば、○○は堪えきれずに泣き出してしまった。自分のせいじゃないのに、申し訳無さに黒子は狼狽える。

「……あの、泣くならコレ」

 変な所で女子力が高い黒子テツヤは、ポケットからハンカチを取り出そうとして引っ張った。それと同時に、何かが一緒に飛び出し足元に落ちる。

 黒子はソレを思わず足で踏んづけ、今更ながらに隠した。大分前、火神に貰った避妊具をポケットにしまっていたのを忘れていたようだ。漫画のような展開に、表情乏しい少年の頬が赤らむ。意外な落とし物に、○○は数回大きく瞬きをした。

「……コレは、そういうつもりでは……火神君が、持って行けと無理矢理……仕方が無い方です。彼は」

 もう居ない存在に罪を擦り付け始めた少年の慌てように、○○は吹き出した。そうやって泣きながら笑う少女はやはり気丈で、黒子は可愛いと思う。

「……でも、余りにも無防備だと……ボクだってそういうつもりにもなりますよ?」

 黒子はそう呟き、俯く相手の耳を触る。複雑な構造をしているなぁ……。そんな事を意識の隅に置きながら、固い軟骨部分を優しく撫で頬へ指を滑らせる。

 黒子は無言の彼女をベッドに押した。そして近過ぎる距離に口から心臓が飛び出るんじゃないかと不安になった。キスをしようとしても、横を向いてしまった相手の顔をどうすれば良いんだろうか。


 ――ここから先、どう進むのが"正解"なのか分からない。経験も知識も無い黒子は、固まってしまった。こういう行為を本でなら何回かは見たし、火神達に付き合わされAVを観賞した事だってある。でも、アレはいきなり裸だったし女優だって手慣れている……。黒子は今、自分の下で横を向いて顔が真っ赤な女性をどう扱うべきか、予想も付かないでいる。

 火神と青峰は、この先をどうやって進めたのだろう。強引な二人は、無理矢理にでもキスをしたのか? 顎を掴み正面を向かせ、舌を差し入れる。生々しい妄想が頭を過る。

 じゃあその次は……? 服も、こちらが脱がせるのか?

 ……駄目だ、出来ない。


 黒子は彼女の上から身体を離すと、元の位置に座り額に手を置いた。それに、緊張からか下半身が全く反応しない。こんなにも好きなのに……。

 男性と云うのは複雑な生き物で、対象が憧れに近い程、身体は反応しなくなる。理想が傍に居るだけで満足出来る生き物なのだ。――恐らく青峰だって、自身が憧れる"堀北マイ"と身体を重ねたら、下半身は上手く反応しないだろう。

「あの、黒子君。やっぱり、私……」

「……ボク、帰ります」

 表情乏しい黒子は、やはり無表情のまま○○を見た。でもその瞳は、微妙に潤んでいた。女性もろくにエスコート出来ない少年は、情けなさにその場から消えたくなった。皮肉にも、消えたように見せ掛けるのが得意な彼は、本当にその場からこの身をデリートする事は出来ない。

 黒子は急に火神を頼りたくなった。きっと彼がまだ日本に居たら、黒子は真っ先に電話を掛けていただろう。気持ち良い位に笑い飛ばされ、八つ当たりのように怒る事が出来た。そうして、自分の中で消化出来た筈だ。

「……すみません。ボク、勃たないみたいです」

「……そっか、だって私だもんね」

「そうじゃない。キミだから……キミを大切にしたいから、駄目なんです」

 黒子は、いつの間にか歯を食い縛っていた。鈍い顎の痛みで、ソレに気付いたのだ。

「私も、黒子君とは出来ないよ。誰も幸せには、なれないもん」

 ベッドから上体を起こした彼女は、黒子の隣でまた泣き始める。きっと彼女を本当に慰める事が出来るのはこの地球上で、たった一人しか居ない。しかも、それは目の前に居る黒子テツヤでは無い……。

「…………私、まだ諦められないよ……、だって……まだ、好き」

「青峰君、個性が強いですから。それと…………火神君も」

 火神の名前を口に出した瞬間、黒子の視界がぼやけた。会いたい、会いたい、会いたい――。受け入れれば良かった、彼を。何も恋人にならなくったって、突き放さずに友人として一緒に付いていくと言えば、こんなに寂しくはならなかった筈だ。

「――……ボクも、会いたいです」



 ――黒子が去った大きなベッドと一組のサイドテーブルしか無いこの部屋で、○○は微睡んだ。意識の全てを手放す前に、彼女の頭は勝手に物語をスタートさせている。人はそれを"夢"と言う。

 彼は夢の中で、似合わないタキシードを纏い、自分に手を差し伸べた。だからそれに応えるように手を取ると、流暢に腰へ手を回される。リアルな感触は、まるで誰かが本当に自分の腰に手を置いているかのようだった。

 社交ダンスなんかした事が無い。ステップの知識だって無い。でも不安は感じない。……だって私は、彼に身を委ねれば何でも出来るから。その長い腕を繋ぎ、彼がニヤニヤした下手な笑顔で顔を覗き込んで来る。続いて出て来た妄想の中の憎まれ口は、酷くリアルで懐かしく思えた。

『お嬢サマなら、日課だろ? こんなん』

 微睡みの中で見た自分は笑顔で、ソコに彼が居るのが当たり前だった。


 相手のリードで足を踏み出した瞬間、深い睡眠により夢は終わった。


 ―――――――――


 豪華なロビーを一人でトボトボ歩けば、黒子は自分だけが浮いているようで惨めだった。

 その途中に腕を組み、柱に凭れ掛かった黄瀬の姿があった。

「やっぱり、出て来ると思ったっスよ」

 そして彼は、驚いた黒子に何時もより切なそうな顔をしてそう声を掛けてきたのだった。

「……青峰君には、勝てません」

「○○さんだって、火神っちには勝てないっスよ」

 その台詞にピクリと身体を反応させた黒子は、黄瀬が何を言っているのか理解出来ずに居る。

「別にオレは彼女が黒子っちと付き合おうが、青峰っちを想っていようがそんなのは何でも良いんスよ。どうせ誰かは不幸になるし」

 黄瀬は踵を返すと、相手をソファーが並んだラウンジへ黒子を誘導した。黄色髪の男に誘われそっと座ったソレは、革張りで固そうに見えたが予想以上に身体が沈む。

「ソレが答えだって言うなら、そう言う事っスよ」

 深く腰を掛け投げ出した足を組んだ黄瀬は、偉そうな風貌がやたらに似合っていた。小顔を大きな手のひらに載せ、黄瀬は笑う。

「まぁ……どう転ぼうが、あの二人をからかうネタが出来たから、オレは満足っスよ」

「会いに行くんですか?」

 そう聞いてきた親友へ黄瀬は「一緒、どっスか?」と米国旅行を提案する。しかし、就職に向けた様々なカリキュラムがある黒子は、簡単に海外へは行けない。

「…………会いたい、とだけ伝えて下さい。二人に」

「オレは本心しか伝えないっスよ?」

 意地悪にも似た黄瀬の返しにフフッと小さく笑みを漏らした黒子は、遠回りにも全てが判る言葉を彼に告げた。察しの良い黄瀬なら、正確に理解するだろう。……この言葉の意味を。

「青峰君に会いたがってるのは、ボクじゃない」

「了解っス」

黄瀬は微笑んで「よく出来ました」と言いながら腰を上げ手をのばし、火神の代わりに黒子の頭を乱暴に撫でた。そんなモノまでコピーしなくても良いのに……と、黒子は今更懐かしい感触に眉を下げた。


 ―――――――――


 色褪せた夢を見た。いつもそうだ……夢に色は無い。白と黒の世界は無気力にさせる。だけど夢と分かっているから救いがある。

 今自分が寝ているベッドで一組のカップルが愛し合っている。髪の色は判らないが、あの髪型は火神だろう。顔から彼だと断定出来ないのは、口元意外が全て影になっているから。半開きの口からは情熱が漏れている。逞しい腕の中に女を囲い、背中の筋肉が盛り上がる程に身を丸め腰を押し付けた。そんなエロチックな光景を、夢の持ち主はただ立ち竦み眺めている。

 下に居る人間が誰だかは、見なくても判る。……だからイライラした。欲を貪れる火神を羨ましく思う。女の白い腕が、火神のほんのり焼けて健康的な肌を滑り、背中へと廻った。身体を密着させた二人は、映画のようなキスを始める。

 違う……。ソコに居たいのは、オレなんだ。火神を退かしてまでも行為を中断させたいのに、足は床に埋もれたように動かない。何故かと言えばそれは"彼女"に対する執着の深さに、彼自身が格好悪さを感じていたからだ。

 だから、叫んだ。この言葉にならない咆哮で"目の前の淫らな行為"が終わればいい。そして、こんなにも"情けない執着"が全て消えてしまえばいい。


 ………………………


「――青峰、お前大丈夫か?」

 目を開けると、至極近い位置に火神の顔があった。目を見開き四白眼になった青峰は、火神が顔を避ける前に起き上がってしまう。ソレは頭突きとなり、二人はぶつけた額を抑え悶絶した。

「寝込み襲うな! 殺すぞ!!」

「通訳殺して生活出来んのか? テメェ」

 胡座をかき口をへの字に曲げた火神が、額を擦りながら最もな事を言う。青峰は俯せになると、痛む部分を枕に押し付け呻いた。夢とは言え、勝手に友人のセックスを見てしまった青峰は罪悪感を覚える。

「変な夢見てねぇだろ…………な」

 言葉も途中に、枕が顔面に直撃した火神は、その勢いに上半身が後ろに下がった。どうやら図星のようだ。

「まぁた宇宙人とサッカーしたのか? バスケしろ、バスケ」

 青峰の後頭部に枕を投げ返した火神は、先日聞いた夢の内容を馬鹿にした。

「……それも、そうだな」

 寝起きでやるせないのか、それとも何か考え事をしているのか……とにかくしおらしい青峰へ、火神は本当の事を教えてやろうと決めた。何だか、昨日の"あのスーパープレイ"を目の当たりにしてから青峰に勝ちたいと云うプライドが失われつつあるようだ。

「オレさ、お前にひとつだけ嘘付いてんだよ」

「"テストは無い"とか言ったら、ハイウェイに投げ捨てるからな?」

「保険金の受け取り、お前にしといてやる」

「たんまり掛けてるんだよな? 三千五百万円クン?」

「マイバッハ買えそうだ」

 その酷いあだ名にフンッと鼻で笑った火神は、空いたスペースに寝そべる。

「……お前の元彼女、居ただろ」

「現在、テツの彼女だ」

 火神は目を丸くした。そんなの、聞いてない。勿論それは青峰の臆測でしか無いし、結局"事実"にもならなかった。でもそんなの、海を越え遠くに居る二人は知る術も無い。わざわざその日に伝える人間も居ない。

「……まぁ、良いか。ならアイツにも謝らねぇとだな」

 ゴロリと俯せになった火神は、バッタバッタと膝から下をばたつかせた。

「――クリスマスのアレな? …………抱いてねぇ」

 その告白へ、今度は青峰が目を丸くした。あんな光景を見せられて、今更何を言っているのか、コイツは……。自分の右側で俯せに寝転がる火神は、ポツリポツリと呟き出した。子供のように足をバタバタさせるのは止めたみたいだ。

「フェイクだよ、あんなのは。お前からかう為の、お遊びだ……断られたモン、オレ」

 火神は、もう自分が青峰の好敵手では無い気がした。追い付き、追い越し、追い越され、また追い付く。ずっとそうだと思っていた。――あの完璧なまでのスティール、パス、シュート、ブロック……コートを支配し、味方をボールによりナビゲートする"不気味な姿"を見るまでは……。

「だってよォ……悔しいだろ? お前が抱けた相手、オレが抱けないなんて。だから、からかってやったんだよ、それだけだ」

「何でそんな……」

 そう言いかけて、理由を悟った青峰は口を接ぐむ。だから代わりに別の台詞を吐いた。

「今更言われても何の意味もねぇな、ソレ」

「だから言った」

 その返事を鼻で笑い飛ばした青峰は、PHSを振り火神へ嫌味を言う。

「今すぐテツに教えてやろう。ギャラクティカマグナムしに来るかもな」

「勘弁してくれー……」

 枕に顔を埋めた火神が鳩尾を撫でながらウニャウニャ呻いた。

 ――そうか……黒子は恋愛を成就させたのか。"守るべきモノ"が出来た彼は、更に強い人間になるだろう。

 だから火神は二人の未来を祝福をした。だが同時に、上手くいかなくて、黒子は自分に泣きつけば良い……と、そうも願った。やがて、疲れが睡魔を引き連れたのを感じた火神は、目を閉じ眠りの世界へ入る。


 ………………………


 青峰が再度眠りにつくと、夢はリバイバルの如く上演を始めた。全てが色を失い、先程と同じ場所に居る。

 しかし、ベッドに"主演"である筈の火神の姿が無い。でも誰かと誰かは熱い行為に汗ばみ、懸命に快感を貪る。上に乗った女は身体が白く、特記する事が無い位に"平均的な体型"をしていた。

 下で仰向けになっている次の"主演男優"は、自身の最大のコンプレックス……黒子テツヤだった。少年はコチラに一度だけ視線を向け、相も変わらない無表情な眼差しで自分を見据える。そして見掛けによらず逞しいその白い腕を上に伸ばし、彼女の胸を掴んだ。少女は身体を仰け反らせて反応を見せる。

 彼への敗北感から、ソレ以上を見ていられなくなった青峰は、夢の中にも関わらず静かに目を閉じた。


 富、栄光、名声……その全てを手に入た自分が最後に欲すのは、ただ一つの"普遍的で、ちっぽけな存在"である気がした。