火神は出会って早々、ベンチに座っていた青峰の頂点へ拳を振り下ろした。拳骨を喰らった青峰は、彼の暴力に小さく呻く。

「あんま心配掛けさせんな、アホ」

 そう呟いた火神は、青峰の隣に腰掛けた。すっかり自信も元気も無くした青峰の様子に、怒る気力も奪われたようだ。

「……買い物も出来ねぇ」

「勉強しなかったんだろ? どうせ」

 背凭れに腕を投げ出した火神は、まるで小さい子のお守りをしている気分になっていた。彼は、お守りの為に渡米した訳じゃない。

「教えてやるから少しは自分から勉強しろよ」

 隣のベンチに腰掛けていた老婆が立ち上がり、荷物を纏め彼等に頭を下げ公園から出ていった。火神は、俯いた青峰の代わりに手を振り感謝の気持ちを伝える。

「バスケしようぜ? 青峰」

「ボール触っちゃ駄目なんだろ?」

「そりゃトレーニング中の話だ。今は違ェだろ」

 火神の提案に少しだけ元気を取り戻した青峰の頬は、微量ではあるが赤みを差していた。


 ―――――――――


 その公園の奥にはストバス用のコートがあった。周りが緑に囲まれ、ポツリとワンコートだけ。その近くには若い男女が十人程たむろしていた。男はどれも高身長で、ガタイが良い。日本では外人体型だと恐れられた火神と青峰だって彼等に紛れた途端、弱そうに見えるだろう。

 常に挑戦者を求めている彼等は、戦いたいと云う二人を歓迎した。まるで信号機のような髪の組み合わせのアジア人を指差し「sig.」とからかう。

 青峰は、半年振りにバスケットボールに触れた。使い古されたソレは表面がツルツルしていて、チームの練習や試合で使っていた表面の凹凸がしっかりしているモノとは、全然違う。コートの上で一度ドリブルを付けば、手に跳ね返ってくる。

 ……気持ち良いな、やっぱ。

 彼は片手でフォームを構えると、遠く離れたゴールへホイッと投げた。放物線を描いたソレは、リングに吸い込まれネットを揺らす。どうやらブランクなんてモノ、青峰大輝には関係無いらしい。

 その乱雑に放った一球だけで、肌の黒いアジア人がそこそこのプレイヤーだと見切った外人達は、内輪の中で最も強い二人を前に出す事にした。身長、体格は向こうの方が恵まれている。黒い肌に、厳つい顔を隠すよう頭にタオルを巻いた男が《チョロそうだ》と喋って周りを笑わせた。

 火神は彼等の様子を睨む。青峰なんか、さっきからホイホイ片手でシュートを打っているだけで、赤毛の男は「相変わらずマイペースな男だ」と彼を野次り小さく溜め息を吐く。

 だが、火神を含め彼を見ていない全員が知らないで居る。半年と云うブランクを抱えた日本人のシュートが"百発百中"である事に。

 ――違う。オレが求めているのは"コイツらじゃない"。居る筈だ、彼等の上にお山のボスが……。セミプロか、もしくはそれに準ずる程に強い、この場を治めるモノだ。

 だから火神は待った。ソレが現れるのを。そしてアウェイなこの場で野次を飛ばされる中、ゲームは幕を開けた。


 ―――――――――


「せっかくオレがチョイスしたんだから、飲んで下さいよ?」

 オープンテラスに通された三人は、端から見れば"モデルの黄瀬と愉快な仲間達"になっていた。居心地が悪く身を小さくした○○は、隣に黒子が居る事に安心する。風が殆ど無い今日は、日差しが高く、気温も夏に近い。

 ○○の前にはアイスコーヒーが置かれていた。

「ミルク、要る?」

 黄瀬がそう訪ね、彼女のグラスにポーションを垂らした。白濁したソレはコーヒーへ粘るように浮き、ストローで掻き回せば液体を茶色くさせる。まるでソレは海外へ行った"彼"の肌色で……胸が強く絞められ、彼女の顔は歪んだ。

「……用件を、黄瀬君」

 自身の前に置かれた透明なグラスに入ったアイスミルクを眺めた黒子は、静かに口を開く。その声は、すぐ横の国道を走るトラックが掻き消した。

「付き合えば良いんスよ。二人、寂しいんでしょ?」

 頬杖付く黄瀬が、綺麗な顔、綺麗な声で結論から告げた。

「馬鹿にしてるんですか?」

 黒子はソレに噛み付いた。○○は何も言えずに俯いたまま、愛しい相手に良く似た色の液体だけを視界に入れ続ける。

「別に? オレはどうだって良いっスよ。ただなぁ、可哀想じゃないっスか? 青峰っち待ってても何にもならないんスよ? ……ドラマじゃないんだから」

 黄瀬の口から飛び出した台詞に、○○はショックを受ける。青峰の書き損じた手紙にあった五文字を信じる彼女は、その黄瀬の言葉に"支えていたモノ"を全否定された。

 ドラマじゃないんだ。知ってる、そんなの。私は女優じゃない。あんなに綺麗じゃない。……だからきっと、"彼"は私を捨てた。

「コレ、行けなくなったからあげるっスよ。勿体無いじゃん、ね?」

 黄瀬は二人にサーカスのチケットを差し出す。立ち見する人でテントが溢れたと言われる、人気のサーカス集団。しかも特等席に近い良席だった。並んだ二つの席、公演の日付は今日の夜19時。

 更にそのチケットの上へ、会場に隣接するグランドホテルのパンフレットと部屋のキーまで置いた黄瀬は、目を三日月形にして微笑み席を立つ。その場を後にする仕草ひとつひとつまでもが綺麗な黄瀬涼太は、大人っぽい爽やかな香りを余韻としてテラスに残した。


 ―――――――――


 ――青峰は僅か60分の間に起きた出来事が、自分のプライドを粉々に打ち崩すのを感じていた。

 順調だった。……最初は。シュートを放てば全て入ったし、ダンクだって楽に決まった。ソレは「本場アメリカも、こんなモンか」と退屈を感じ始めたその時だった。

 突如集団に姿を見せた二人組。……見たら判る。彼等は今まで戦った奴等と、まるでレベルが違う。何か凄いデカイモノに見えた。それは火神も同じようで、顎に伝う汗を拭いったその男は好戦的な眼差しを二人へ向けていた。

《掛けバスケをしよう》

 火神は、セミプロチームに所属している二人にそう提案した。一人は白人、身長も体格も自分達と謙遜無い。ブロンドの髪をヘアバンドで纏めている。コイツはスピードタイプだ。速すぎるのだ、ドリブルもシュートも。モーション全てに、隙も無駄も無い。

 もう一人は黒人で、ガッシリした体格通りにパワーが桁違いだった。ディフェンスに入った火神ですら何度も弾かれ、地面に尻を付いていた。飛距離も、高い。ゴリラダンクを何度も決められ、打つ手が無かった。

 青峰は拳が震えた。……これが"本場"なのか。しかもコイツらは"プロになれなかった奴等"だ。青峰はフラフラとその場に腰掛けた。ショックで顔面を両手で覆いながら。

 今まで強い奴等と散々戦って来た。人の技を簡単に盗む、コート全てがシュートレンジで、どこからでも決める。存在を消しパスを回す……。ソレさえも超越したセンスを持った青峰は、自分は最強だと思っていた。"今日と云うこの日"まで。

 高校時代、アメリカに勝てたのだって……信頼出来る仲間が他に五人も居たからだ。そうやって彼は、個人プレーの限界を知った。

 火神は、座り込んだ青峰へ何も言えずに居た。自分も歯が立たないからだ。昔からそうだ、上には上が居る事を思い知らされる。もし彼等に勝ったとしても、更に上が居る……。ソレがスポーツの世界だ。

 やはり、ここでのプロの道は険しかった。日本と全然違う……。

「帰るぞ、青峰。出直しだ」

 そう声を掛けられ、青峰は低く呻いた。そうだ、帰って鬼のようなトレーニングで磨けば良い。

 でも、ソレはいつ始まるんだ? 明日も明後日も……四ヶ月後も短距離走だけをしていそうでゾッとした。


 何をしているんだ……お前は。


 ふと、青峰は自分の内側から声を聞いた。それは今まで自分を散々罵倒してきた"昔の自分"では無い。もっと低く、地を這うようにダークな声だ……。

 ソイツは何度も何度も広がった重油のようなあの感情から、油のような汚い何かを身に纏い、濡れた髪の下から睨むような視線をコチラへ投げる。


 ――アレは、オレだ……。


「火神、財布出せ」

「……は?」

「良いから出せよ!! 何度も言わせんな!!」

 立ち上がった青峰は、火神へ腕を突き出したまま怒鳴る。相手が渋々と財布を出せば、青毛の男はソレを引ったくり紙幣全てを取り出した。

「何してんだよ!」

 そう叫んだ持ち主へ空になった財布を放り返し、自分の財布からも紙幣を全て取り出す。総額で600ドル。これだけありゃ十分だ。相手も本気で勝負に出てくれる。

「リベンジマッチだ、コレで」

 青峰は、ゲラゲラと下品に笑いハイタッチを交わしていたお山のボス達へ日本語で話し掛け、手にした札束を突き出す。口笛を吹いてコチラを見たセミプロは快く了承した。

『懲りない馬鹿だ』

 彼等はきっとこう思っているだろう。……だって、火神だってそう思っているのだから。

「何考えてんだ、青峰」

「大丈夫だ。安心しろ」

「大丈夫って……。金の問題じゃねぇけどよォ」

 火神が怖いのは、掛けバスケにより金が無くなる事じゃない。青峰がこれ以上落ち込み、やる気を失う事だった。ホームシックに精神をやられた"今の彼"なら、十分に有り得る気がしたのだ。

「問題ねぇよ。……勝つから」

 そう言った傍若無人な青峰は、目を見開いたまま口角だけを不気味に上げる。そうして彼は、内に居る"黒い感情に濡れた自分"と会話を始めた。


 そうだ、勝てば良いんだ。

 何だ、簡単じゃねぇか。

 勝つには何をすれば良い?

 聞くんじゃねぇよ。

 分かってんのか?

 あぁ。簡単だ。

 支配すりゃ良いんだろ?

 ……このコートを。



 ブツブツ呟き出した青峰の一人言に、火神は震えた。何故だかは分からない。でも、何かが違うのだ。

 背中しか見せない青峰は、振り向いたら何か大きな化け物になりそうだ。……そんな不安が火神を襲う。

 そうやって彼を恐れさせた原因は、青峰を纏う"オーラ"だ。そして遂に、青峰は内に潜む自分と一体化する。

 青峰は今日まで抑えて続けて来たモノを、静かに解いた。ソレは重油に汚れた黒い両手を広げ、自分の全てを飲み込んだ。火神が"裏の顔"を持つように、青峰もまた"裏の顔"を持っていた。自己を傷付けたくないと云う保身から来る火神とはまるで違う。彼のソレは、勝利に対する貪欲なまでの執念だった。

 ソレは何度も彼をゾーンの世界へと導いた。五感全てを勝利へ向け、勝つ為の方法しか頭に残さない。

 ――しかし、それは過去の話だ。青峰を包んだ"黒い何か"は、ゾーンを次のフェーズへと移行させる。今までは己の身体能力を極限まで高めてきた。


 でも、それだけじゃあ勝てないんだろ?


 火神のモヤモヤが晴れないまま2on2が始まる。先制はアチラさんで、やはり余裕そうに笑みを大きな顔に張り付けていた。青峰は、一度だけ大きく伸びをすると、直ぐにディフェンスのフォームを取った。

 開始早々に左側から白人がアジア人を抜き去る。一歩も動かずにソレを許す青峰に、火神は何も言わずフォローの為に走った。それも僅か一瞬の出来事で、火神の判断だってコンマの世界だ。

 青峰は白人に抜かれた瞬間、半円を画くように左足を後ろに引いた。その素早い動きはまるでフィギュアスケートのように綺麗だった。彼が左足を蹴り、低い体勢から身をほんの数歩動かせば、気付いた頃には白人の手からボールは消えている。

 ドリブル中の選手は相手を抜いた瞬間、つい油断をしてしまうモノだ。その心理を突き、背後からのスティールを狙った青峰は、こんなにも簡単にボールを手にしていた。

 別に相手が手を抜いた訳ではない。彼自身が、相手を超える存在になっただけだ。ファールを取られる事もなくドリブル中に奪えたのは、蹴り出すと同時に上体を恐ろしく低く構えた為だろう。

 火神大我は驚くと同時に、次の展開に背筋が寒くなった。欲しい場所にボールが来たのだ。

 ……違う。これは、ボールに彼が誘導されているのだ。誘導しているのは、勿論同じチームの青峰大輝だ。それなら正直、黒子テツヤにだって出来る。彼はパスの天才だった。

 でも、アイツ……青峰大輝は一度もオレを見ていない。

 そう気付いた火神は混乱した。視界に入れないのに、何で判る? 何で見える? ……何で導ける? あの低い体勢からどうやってココにパス出すんだよ?

 青峰はいつの間にか火神へ付いていた黒人のディフェンスをブロックし、味方にダンクを決めさせた。今度は巨体に弾かれる事もなく、しっかり両足を地に着けたまま青峰はフォローすらパーフェクトに行う。

 気持ちが悪くなった火神は草むらに吐いてしまった。完璧過ぎる誘導、ブロック、そしてその前のスティール……。理解の範囲を超えた頭は、目の前の日本人を"化け物"と認識するしか無かった。

 覚醒した瞬間から、青峰はコートの全てを把握していた。……そんなのは、見なくても判る。全て感覚だ、考える前に身体が動く。オフェンスが自分を抜き去るコースもナビゲート"してやった"。動きさえ知っていれば、背後から奪うのもぐんと楽になるから。

 ……やっぱりな。火神、お前ソコに居ると思った。アイツは足音と息遣いが特徴的だ。こんな狭く人数も居ないコートの中なんて、聴こえてくる音ひとつひとつが簡単に視覚に繋がる。

 コートの全てを理解すると云う事は、ボールの動きが判る。だから彼はそれを取り巻くプレイヤーの動きも相対的に把握出来る。味方である火神へ完璧にパスを出せるし、黒人がシュートを打つであろうタイミングに身を翻す事だって容易い。

 ホラ、思った通りだ。テメェはソコでフォームを構えるだろうなぁ?

 青峰は地面を蹴り、相手が完璧にフォームを構える前に腕を伸ばしボールだけを叩き落とす。ファールスレスレのディフェンスにコートを観ていた全員が驚愕した。少しでも接触すれば瞬時にファールを取られるだろう。しかし、彼は"そんな事"に臆しない。綺麗にボールだけを叩けば、器用に半身を翻す。その動きはまるで曲芸を観ているようだ。驚かないのは火神だけだった。だって彼は、"あんなの"高校生の時から見ているから。

 赤司征十郎を彷彿させるその読みは、青峰の経験、知識、努力、感情……そして才能全てを勝利に向かせた副産物にしか過ぎなかった。

 青毛のアジア人へシュートブロックに付いても、彼はいつの間にかボールを手放している。そして宙に放たれたソレはネットを揺らし、得点となった。

 元々シュートフォームに型なんか持ち合わせては居ない。ならばパスだってフォームは要らない。必要なのは、相手の欲しがるコースへ"どう乗せるか"だ。

 肘から上は武器なんだ。相手を直接攻撃したり、ボールを強く殴りさえしなければどう使用しても良い。だから青峰は自在にパスを出せる。

 そうだ、彼は元々パスを出さないんじゃないし、出せない訳でもない。出したい相手が居ないだけだった。

 ……これはまるでチェスだ。

 火神は、自分がクイーンになったような気分になった。巨大な青峰の手がどうにも動ける自分を自在に操る。相手の次の手を読み、チェックメイトの為に火神を動かす。ルールと云う"与えられた自由"の中で……。

 恐ろしい事に、青峰大輝は敵の駒をも自在に動かせた。ドリブルのコースを読まれる、シュートを構えれば前後に立たれる。赤毛の男へディフェンスに付こうとすれば、その前にブロックまでされる。セミプロの二人は、青い髪の男にただ翻弄されていた。

 そうやって彼は、相手に強いプレッシャーを掛け続けるのだ。

 ココはもう支配された。日本からやって来た一人の天才的なプレイヤーにより。

 このコート周辺で笑っていられるのは、不気味に口角を上げた青峰ただ一人だ。スコアは途中から意味を無くし、誰も捲らなくなったソレは、試合終了のホイッスルを聞く前に役目を終えた。


 ―――――――――


「……身体、動かねぇ」

 ストバスコートの真ん中、センターサークル内。ソコに青峰は肢体を投げ出し、横たわっていた。彼は先のたったワンゲームで、動けなくなるギリギリまで体力を消耗してしまった。財布は紙幣と小銭でパンパンになった。これじゃ襲われないか不安になる。

「火神、起こしてくれ」

 青峰はだらしなくそう言ってヒラヒラと右手を上げ頼むが、火神はゴールを支えるポールを背凭れにしたまま動かない。

「ゲロ神。お前、吐いてたけど大丈夫か?」

「……誰のせいだよ」

 頭を抱えた火神は、処理落ちした頭をぶん回すが……結局最後に出てくるのは"トンでもない化け物を覚醒させてしまった"と云う後悔に似た何かだった。

 もう自分の手の届かないレベルにまでライバルが進んでしまったような気がした火神は、『勝てるかもしれない』と考えた己を恥じた。同じコートに立つ人間を恐怖と緊張で嘔吐させるようなプレイ、火神には一生出来ないだろう。

「腹へった。なぁ、飯食いに行こうぜ?」

 青峰は何時ものダルそうな調子で火神へ声を掛ける。だから火神は考えるのも馬鹿馬鹿しくなり、立ち上がって青峰へと手を差し伸べた。

「お前、スゲェな」

 嫉妬を内に隠した火神は雑に、そして素直に青峰を褒め讃えた。青峰は鼻で笑うと、完封した勝利に自信を取り戻したのだろう。こう言い放った。

「当たり前だろ? オレは天才だ」

 肩に動けなくなった天才を担いだ火神は、願わくは『コイツとはもう同じチームになりませんように』と、神に祈った。正直、もうあんな風に操られるのは御免だ……。


 ―――――――――


 次の日。何時ものようにスタートに立った青峰は、真っ直ぐにゴールだけを見据えた。前傾姿勢のまま、後ろ足をググッと後ろに引き、"最も速くスタート出来る位置"を探る。そして彼は合図と共に両手と足で大地を蹴り、空気抵抗を減らす為にギリギリまで上体を低くした。

 青峰のその姿は、まるでチーターだ。お世辞にも綺麗とは言えないフォームでも、そんなの彼には関係が無い。速く走る事が出来れば、青峰は四つん這いででも走るだろう。

 トラックに居た殆どのスプリンターが足を止め、アジア人の走りを見守った。盗めるものなら、盗みたいとも思った。そのハイスピードと、身体から滲み出るタイムへの飽くなき姿勢を……。

 アレックスは、ゴールと共に叫ぶ。火神は大きくガッツポーズをした。青峰はスピードを殺せずに、その場に転んだ。

 彼のその本気の走りは、最初のタイムから"4秒"も、時間を縮めていた。

「陸上選手になれよ! テメェ!!」

 火神は駆け寄りながら、顔を綻ばせ叫びに近い声で青峰を讃えた。

「……テストが駄目だったらソッチ行くかな」

 トラック上に寝そべり膝を擦りむいた青峰は、塗り潰したように青い空とユラユラ漂う白い雲を眺めた。

 この国の空も、良いモンだ……。彼は初めてそう思った。

 すると、陸上用ユニフォームを着た面識無い選手が青峰に何かを話し掛ける。

「……病院行くか? だってよ。この国じゃ破傷風は怖ェからな」

 擦りむいた膝を指差し、火神が通訳をしてくれる。息も絶え絶えで苦しい青峰は、下手くそに微笑んでその選手に「ノーサンキュー」とだけ告げた。