おおよそ十三時間のフライトを終えて異国の地に立った青峰は、出迎えてくれた甘ったるい匂いに顔をしかめた。キャンディーを煮詰めて、芳香剤を振ったような香りだ。これがアメリカの空気か……。全然馴染めそうにもない青峰は、日本のあの爽やかな香りを懐かしんだ。――それでさえ外人からしたら"醤油のような匂い"と言うのだから、慣れとは恐ろしい。

「今の時刻は5月8日、午後3時だ」

「……はぁ?」

 ゲートを通った火神の台詞に、青峰は仰天した。出発した時間から二時間しか経過していないのだから、時間旅行した気分だ。頭を抱えた青峰は、痛む下半身と時差ぼけが相まって、瞬く間に身体の不調を感じる。

「……大丈夫か?」

 火神は、ダルそうにフラフラ歩く青峰を心配した。

 青峰の耳に入る言葉はまるで宇宙語で、目に入る文字はアルファベットの並びにしか見えなくて……彼は五感全てで言葉の意味が見出だせなかった。他の旅行客と肩がぶつかり、足をキャリーに轢かれた青峰は低く呻く。ぶつかった外人は何かを言って去っていったが、何を言っていたのかさえ判らない……。言葉が通じない彼は、急に心細くなった。

 まるでいきなり動物しかいない檻の中に放り込まれたようだ。――いや、動物であるのは自分なのかもしれない。言葉が通じないのが、これ程まで恐ろしいなんて……。口数少なかった時代の自分でも恐れ怯えたに違いない。青峰はそう考えて溜め息を吐く。

「帰りてぇ……」

 アメリカの地に足を踏み入れて五分、彼は早速ホームシックになった。その後【金属探知】に引っ掛かった青毛の日本人は、怒る外人職員が何を言っているか理解出来ず、追い剥ぎに会ったようにベルトを取られ半泣きになったのだった。

 火神は、その様子をゲラゲラと笑い馬鹿にした。そしてカントクから貰ったクッキーを検査官へ出した瞬間、テロリスト扱いされ危うくFBIを呼ばれる所であった。旧姓・相田のクッキー恐るべし、だ。


  ――――――――


「……お前と同じ部屋かよ」

 青峰は、届いていた段ボール箱を視界に入れ、火神と過ごすアメリカでのステイ先を眺める。ソコは広いワンルームだった。部屋の奥に大きなベッド、入り口入ってすぐにシステムキッチン。大きなダイニングテーブルもある。トイレと浴室はこの部屋から扉ひとつでダイレクトに行ける。典型的なアパルトメントである。

「しかも、同じベッドな?」

「オナニーどこですんだよ」

「してる暇なんか、無ェよ」

 その台詞にわざとらしく尻を隠した青峰だったが、火神は身体を揺すりそんなリアクションを笑う。

「オイ、青峰。ソコの水道水飲んだら、腹下すからな?」

 蛇口を捻りコップに水を注いだ青峰は、その言葉に固まった。そして、日本の潔癖なまでの衛生管理具合が羨ましく思えた。

 ドサッと着の身着のままベッドに横たわった火神は、バチンと強制終了したかのように寝始める。しばらくして始まったイビキに、青峰は嫌味を告げる。

「どこに行っても幸せな奴だ」

 青峰はベッドの横にある少し汚れて年期の入ったソファーに座り、テレビを付けるが……何を言っているのか判らない。パチパチとザッピングを繰り返した彼だが、結局そのまま言葉が不要なサッカー中継を眺める事にした。

 日が沈み、部屋が暗くなっていく。テレビの明かりだけが、室内と男の顔を照らしていた。――青峰はいつの間にかソファーに横たえ、眠りの世界に旅立つ。夢の中で自分は、何故か宇宙人とサッカーをしていた。


 ………………………


 翌日から早速トレーニングが始まった。近場の設備された運動場に呼び出された二人は、半袖ハーフパンツにスパイクを履いている。陸上のトラック競技に使用されるソコには勿論、バスケットコートなど無い。周りを見れば、茶色入ったオレンジ色のフィールド上でスプリンターがトレーニングに励んでいた。

「お前の知り合いは、オレを陸上選手に転向させる気か?」

「そんな筈はねぇんだけどなァ?」

 ボリボリと腹を掻き欠伸をした火神は、見慣れた金髪美女が競技場に姿を見せてすぐ、英語で声を掛けていた。高校時代に何度か見た事がある火神の師匠は、依然としてセクシーで綺麗だった。"こんな事"で来ていなかったらお手合わせを願いたい位だ、勿論ベッドで。

 アレックスはストップウォッチを取り出すと、早速にも通訳の火神に指示を出した。

「青峰、100Mのタイムを計りたいんだってよ」

 火神の言葉を聞き面倒臭そうに眉間の皺を寄せた青峰は、言われた通りスタートラインに着いた。上体を下げてぐいっと左足を後ろに引き"クラウチングスタート"の体勢になると、火神が合図を出す。

 青毛の男は足の裏で大地を蹴り、僅か100Mの距離を走り出した。瞬時にトップスピードに乗った青峰の走りを、周りに居た人々は眺める。

 青峰大輝は、日本人にしては瞬発力が高い人物だ。……だが、殆どの人間が50M程で彼から目を外し始める。ゴールまで彼を眺めたアスリートは居なかった。

「……速ェな、相変わらず」

 火神は腕を組んで青峰へ称賛を贈りつつ、悔しさからウゥ……と唸る。しかしアレックスは難しい顔をしてデジタルの数字を眺めていた。そして彼女が何かを火神に言えば、彼は仰天して師匠に何かを訴える。

「速過ぎてビビってんのか?」

 スタート地点に戻って来た青峰は、満足気にニヤリとした。元々脚の速さには自信がある選手だ。高校時代は、スプリンターとして陸上部の助っ人に出された位である。見せられたタイムも、一般人の平均をグッと超えたモノだったのだが、火神は険しい顔をしていた。

「……お前、このタイムを2秒以上縮めないと、ボールにも触らせてやんねぇってよ?」

「はぁ!?」

 火神は更に眉を潜めた。それはライバルへ過酷なチャレンジを告げたからでは無い。全力疾走した筈の青峰が"息を乱していない事"を訝しく思っているからだ。走る前と様子が何も変わっていない。

「本気出したぞ! オレ!」

 そう訴え出す彼に、火神は深いショックを受けた。

 これが本気……?
 "この様子"で!?

 ――青峰大輝は、本気の出し方を忘れたようだ。

 それは彼のポテンシャルが高い為に、今まで本気を出せる場面が無かったからだろう。実力を周りに合わせていた青峰大輝は、無自覚に力をセーブするようになっていた。そう考えるのが一番自然だ。

 だが、このままではテストでも中途半端なプレーを見せ、"中途半端な選手"として選考を蹴られるに違いない。もしそうなったら、青峰大輝の選手生命は終わる……。

 極端にレベルの低い日本だったら、こんな半端でも"天才エース"としてチヤホヤされた。

 だが、ここは海外の……しかも全世界から強力なプレイヤーが集まる場所だ。最後に見た試合。あれが彼の全てだと言うのなら、"あんなレベル"ゴロゴロしている。……火神だって、今の青峰には勝てる気がした。

 披露宴で言われた小金井の言葉が浮かぶ。それを潰すように拳を握った火神は、踵を返した。

「……もう一回だ。スタンバイしろ、青峰」

「もしかして、今日ずっとコレか?」

「今日だけじゃねぇよ。ずっとだ、青峰。タイム縮めなきゃ永遠にコレだけだ」

「馬鹿にしてんのか!?」

 地面を蹴り抗議する青峰へ冷たい視線を送るアレックスは《嫌なら帰れ》と言い放つ。火神がソレを悪意10倍にして「嫌ならベソかいて日本に帰れ、粗チン野郎」と通訳すれば、青峰は顔を真っ赤にしてまたスタートラインに立った。

 意味も分からず走らされても、タイムが縮む訳がない。青峰は、初日をひたすら短距離走だけで終わらせていた。ちなみに火神は、途中観客席に横たわり寝てしまった為、帰る頃には日に焼けて顔が真っ赤になっていた。

《明日も同じ時間にココへ来い》

アレックスはそう告げると、ペットボトルを二人に投げる。青峰はくすんだオレンジ色のトラックに座り込み、やるせなさそうに首垂れ頭を掻いた。


 ………………………


 二日、三日と同じ練習が続く。タイムもモチベーションも落ちている青峰に、火神は苛立っていた。口に手を当て、本日十本目の短距離走を始めた青峰を眺めている。

 勿論、青峰もイライラがピークにまで来ていた。慣れない国で言葉は通じない。テレビも雑誌も観れない。食事も油っぽくて胃に負担を掛ける。

 楽しくない。
 こんな国、嫌いだ。

 アレックスは溜め息を付くと、火神へ《青峰の隣へ行け》と指示を出した。

 負けず嫌いな青峰大輝なら、一人で走らせるよりは効果がある筈だ。そう思った彼女は、賭けに出る。

 青峰の隣に立ち手足首を回し始めた火神へ、青峰は声を掛ける。

「お前、走れたっけ?」

「んな訳ねぇだろ。オレは【パワータイプ】だ」

 そう言いながら火神はクラウチングの体勢を取った。

 同じ体格をしたライバルが横に居る。それだけで少しだけやる気が出た青峰は、火神の横でスタートの前傾姿勢を取った。アレックスの合図で二人は地面を強く蹴り、腕を前後に振り出しす。


 ――数秒後。青峰大輝はその結果に愕然とした。

 何故だ……? 何故火神が、オレより前に出る……?

 秒差は、あっても一秒程だ。だが、それは青峰に強い衝撃を与えた。

 先にゴールした火神は膝に手を付き、肩が上がる程に乱れた息を整えるのに必死でいた。ただゴール付近で"立ち竦んでいるだけ"の青峰は、そんな火神と自分の違いも判らないでいる。彼の頭にあるのは、結果に対する深い嫌悪感だけだった。

 ――気付いてくれ。青峰、頼むから……。まだトレーニングは、始まってもいないんだ。

 火神は血生臭くなった口内で必死に息を付きながらそう祈った。――だが、結果は無情だ。青峰は無表情になると、トラックから歩き出してしまう。火神は慌ててその後を追った。

「青峰……っ、どこ行くんだよ……テメッ……!!」

「何処だっていいだろ。その辺だよ」

「逃げんなよ!! そうやって!!」

「逃げてねぇよ!!!」

 怒鳴った青峰は、抑え付けていた不満が、器から溢れるのを感じた。そうなったらもう止める事は不可能だ。だって彼は……そんなに大人じゃない。

「いい加減にしろ!! 何なんだこの練習は!! オレは走る為にアメリカまで来たんじゃねぇんだよ!!」

 青峰は感情を振り絞るように大声を出し、喉が痛くなる程に怒鳴った。耳がキンとして、唾だって飛ばす。そして、彼はとうとう"言ってはいけない台詞"を口に出してしまった。

 何度も頭の中で考えては打ち消してきたその言葉は、越えてはいけないラインを過ぎ、遂には外へ飛び出してしまうのだ。

「お前がアメリカなんかに誘わなきゃ! オレはこんなに苦しまずに済んだんだよ!!」

 それを聞いた火神は目を大きく開くと、頭で考えるより先に溢れ出た感情を行動に移してしまった。

 右手の拳を振りかぶると、青峰の頬に真っ直ぐ叩き込もうとし――……直前に青峰がソレを自分の掌で受け止め、下方へ乱雑に振り払う。

「なぁ? 本気で、そう思ってんのか? 青峰」

 火神が依然目を大きく見開きながら、青峰へ視線を合わせた。赤い瞳が揺れ、口が震えている。青峰は言い過ぎた事を今更後悔した。そんなつもり無いのに、悪戯に火神を傷付けてしまったのだ。

 ――火神君だって、人生を掛けてるんですから。キミに……。

 黒子テツヤの言葉が浮かんで消えるその前に、青峰はその場で火神に背を向け離れた。彼は何も言わず、目的地も告げずにトラック上から姿を消した。


 ――取り残された火神は、涙を浮かべ座り込む。アレックスが近寄り、優しく言葉を投げた。

《まるで昔のタイガだ》

《……もっと、マシだった》

 力なく呟いた彼の赤毛を二、三回叩いたアレックスは、自らの夢を犠牲にしてまでも下した辛い決断を『迷惑だ』と言われた愛弟子の髪をクシャクシャに撫でてやった。彼が泣いているのを、気にしないかのように……乱暴に。


 ―――――――――


 陸上競技場から逃げ出した青峰は、喉の渇きを覚えテキトウな店に入った。コンビニのような狭いスペースには見た事無いような飲食物が並んでいる。その中から日本でもよく見た赤いペットボトルを手に取った彼は、安心から頬が緩んでいた。

「コーラは、どこにでもあるんだな」

 そう呟き、感慨深くソレだけを手にレジに向かった彼は、よく分からないままに紙幣をレジの老婆に出した。

 新聞から目を話した老婆は、嫌そうな顔して何かを喋る。しかし言葉の通じない青峰は、再度襲う不安から周囲を見渡すが……日本人なんか傍に居ない。PHSで火神を呼び出すにも、申し訳なさとプライドが邪魔をし、彼はその場で呻くしか無かった。

 嫌だ、帰りたい。ココじゃ買い物も出来ない。

 後ろに並んでいた男性が突き飛ばすかのように自分の荷物をレジに置いた。老婆は愛想もなくサッサと会計を済ます。恥ずかしくなった青峰は、コーラをレジに置きお金だけを残してその場から立ち去った。そうするしか無かったから、そうした。店を出ても、不安は彼に付きまとうのだった。


 老婆は20ドル札をポケットにしまい、意地悪くニンマリした。『細かいお金を出してくれ』……そう言っただけなのに、彼はバツが悪そうにこの場から逃げてしまったのだ。


 青峰は、飲み干したペットボトルをゴミ箱に投げ付けた。日本だったら、長身が目立ち注目の的だったのに、コチラじゃこんな体型幾らでも居る。誰も見ないのだ。今まで嫌になる程突き刺さっていた視線が、今は懐かしい。長い手足だって、こんなのアメリカじゃ当たり前だ。特別じゃなくなった自分は、果たしてテストに合格出来るのだろうか……。そんなネガティブな発想は、青峰の背筋に冷たいモノを走らせた。

 不安が涙に変わる前に、青峰は公園のベンチに腰掛ける。緑は綺麗だ……。木が枝を揺する音は日本と変わらない。噴水が水を落とすバシャバシャした音も、遠くから聞こえる子供の笑い声も、祖国と変わらない気がした。

 目を閉じてそれらの音を聞けば、心が落ち着く。後ろを見たら意味の分からない標識があるし、何て書いてあるか判らない商品を露店売りが何かを叫びながら売り込んでいる。

 もうオレが逃げられる場所なんか、何処にも無いんだ……。

 ――そう考えたら、甘えたくなった。こんな情けなく、子供以下になってしまった自分を慰めて欲しかった。"彼女"の膝に頭を乗せ、ゆるゆると撫でられた感触が懐かしく、自分で頭を何度も撫でる。ゆっくり、髪の流れを確かめるように……。

 でも全然違う。今あの感触が手に入るなら全財産を投げ出しても構わなかった。青峰は、両目を手のひらで覆い背中を丸める。

「……会いてぇよ」

 いつも自分から捨てる癖に、都合が悪くなるとすぐに甘え始める。彼はずっとそうだった。でも"彼女"はそれに答えてくれる……。だからまた甘える、堂々巡りだ。凸が凹にはまるように、男のこの面倒な性格が、"彼女"の何でも受け入れてくれる性格に合うのだろう。

 今更ながらに激しく後悔をした。彼女を連れてくれば良かった……。今ここに居てくれたら、さっきの買い物だって笑いながら出来たのかもしれない。シミュレーションした自分があまりにも幸せそうで、目頭が熱くなった。

 日本で変わらぬ生活を送る"彼女"は何をしているのだろう? きっと黒子テツヤが上手く励ましているのだ。

 その優しさを受け入れるのか? アイツは……。

 それが何故だがイラッとした。出来れば自分を想って泣いていて欲しい。

 余裕が無い青峰は、またエゴイズムが感情を支配し始めていた。……本当は、こんな自分が嫌いだった。火神だって傷付けてしまった。全て自分の為にしてくれた事なのに、邪険に扱ってしまった。

 後悔と絶望がその身を飲み込もうとした時、PHSが彼を呼び出す。慌ててジャージから取り出し通話ボタンを押して耳に当てれば、聞き慣れた声が安堵させてくれた。

『青峰!! テメェどこ居んだよ!!!』

 日本語で怒号が聞こえる。あちらさんは大分キレているようだったが、その意味が通じる言語に青峰は心から安らいだ。

『心配掛けんな!! 送り返すぞ!! 今どこだよ!!!』

「……公園」

 正直送り返して欲しい青峰は、力なく答える。その声を聞いた火神は、トーンを普段のモノに変えた。

『どこの公園だ?』

「……判んねぇよ。道路に面した公園」

『誰か近くに居ねぇか? 居たら代わって貰え』

 周囲を見渡せば、隣のベンチに穏やかそうに編み物をしている老婆が居た。「エクスキューズミー」とイントネーションも糞もなく話し掛けると、老婆は手を止めコチラを見た。

 青峰は彼女へPHSを差し出し、顔の横で親指と小指だけを立て電話のジェスチャーをすれば、老婆は機器を手に取り会話を始めた。穏やかな女性が丁寧に電話を返し、下手くそな日本語で「ガンバッテ」とだけ声を掛けてくれた。だから青峰は、その異国の地での親切に顔を歪め泣くのを堪える事となる。彼は最後に「サンキュウ」と下手くそな英語を返したのだった。

 そして先程のベンチに戻ると、酷い事を言ってしまったのにも関わらず、こうやって心配してくれる火神との電話を再スタートさせた。


 ―――――――――


「そこに居ろよ! 動くなよ! 居なかったらオレ、もう知らねぇからな!!」

 そう強く言い付けて通話を終えた火神へ、アレックスは《お駄賃だ》と10ドル紙幣を何枚か渡して来る。

《二人で三倍にして帰って来な》

 怒り顔のままに火神は、アレックスへ《手段は?》と聞く。しかし、彼女はその質問へ答えずに手を振り運動場を後にした。

 《明日もまた、ココだから》とだけ言い残し……。

 仲直りの意味も含んでいるのだろうが、また"アレ"をしなきゃいけないのか。

 火神は溜め息を付き、ここからそう遠くない公園へ向かって走り出した。


 ―――――――――


 日本。G.W.も終わり、今度は就職活動の為に忙しい日が始まる。ぼんやりと進路指導の日程を眺めた○○に、友人が「一緒帰ろ?」と声を掛けた。今日はバイトも無く、予定が空いていた彼女は口元だけを笑わせて頷いた。

 思っていたよりも、青峰の居ない日常に順応出来ている。あの手紙はマフラーと共にまたクローゼットの奥にしまった。きっと何時か、懐かしく思える日が来るだろう……。

 講義室を出た二人は、エントランスに人だかりが出来ているのを見た。キャアキャア言う女の子達の中央に、やたらに背が高く顔が小さい男が立っている。

「え? アレモデルの黄瀬涼太じゃん」

 隣の友人がそう驚きの声を漏らす。背の高い彼は最近バラエティー番組やら雑誌やら、頻繁に出るようになったらしい。二回程顔を合わせた相手がテレビに出ているのに最初は驚いた○○だったが、今は何て事ない。黄瀬涼太だって、人間だ。彼女からしたら、青峰に会う方がよっぽど緊張する。

 求められた分だけサインを書きながら周囲を見渡した黄瀬は、お目当ての人物を見付けると微笑んだ。

「……久しぶりっスね。○○さん」

 女性を掻き分け黄瀬がこちらへやって来る。仰天した彼女は、友人の後ろへ隠れた。女の子の視線が全部自分に注ぐ。

 ……消えてしまいたい、ここから。目の前までやってきたモデルに、友人は固まっていた。間近で見れば、恐ろしく肌が綺麗で瞳が輝いて見えた。一般人であるその少女からしたら、芸能人は眩し過ぎたのだ。

「青峰っちと、どう別れたの?」

 ポケットに手を入れた黄瀬は笑みを顔から消すと、○○へ質問した。いきなりにもぶつけられたそのストレートな内容に、友人の影で怯えていた少女の心が揺れる。

「話があるんスけど。彼女借りて良いかな?」

 友人は、黄瀬から話し掛けられた事にポカンとしながら首を縦に振る。

「黒子っちも呼んで、三人でコーヒーでも飲みましょ?」

 そう言って微笑んだ黄瀬の顔は、整っていて凄く綺麗だったが……どこかが歪んで"不気味"でもあった。