『明日8時に来いよ。オレ用事あって遅れるかもしれねぇから鍵使って先に入ってろ』

 「用事って何?」と聞けば、「オレにだって親は居る」と遠回りでも判りやすい返事を返された。

 ○○は、せめて会った時は笑顔で居ようと夕方過ぎまで風呂場で泣き尽くしていた。グズグズ泣きながら自宅を出発すれば、丁度帰ってきた弟が気味悪そうに自分を見ていた。

 駅構内のトイレでアイプチをして腫れた目蓋を持ち上げれば、引っ張られる感じに瞬きが難しくなる。

 会ったら、何て伝えよう。頑張って? 応援してる? 貴方なら出来る? ――そんな誰にでも言える事しか届けられない自分のボキャブラリーの無さに、電車に揺られた○○は溜め息を付くのだった。

 合鍵で開けた無人の部屋は心なしか寒く、ベッドやテレビ、テーブル等の大型家具しか残っていない。電気を付け、ベッドに敷かれたマットレスの上に腰掛ければ、何時ものように身体がゆっくりと沈んだ。

 帰宅を待つ間に大好きな匂いを吸い込み、横になる。ここで何度もセックスしたし、何度もキスをした。嫌味を言われたし、褒められたし、泣かされもした。脳裏に浮かぶその全てが昨日の事のようだ。

 ……でもそれは全て過去の思い出であり、明日からは未来の予定が全て無くなってしまった。

 ○○は、枕に顔を埋めて泣きそうになるのを我慢した。今日は1日中ずっと、彼の腰に抱き着いて離れないようにしよう。トイレにだって付いていく。「離れろよ」と訝しがられたとしても、知るものか。

 ふと、目に付いた銀行の卓上カレンダー。憎々しい明日に大きな丸が付いている。……と、その下に一通の封筒が置いてあるのに気付いた。

 白い洋式のソレは、宛名も何も書いていない。手に取り透かせば手紙が入っている。……誰かが青峰君に宛てたモノかもしれない。一瞬躊躇した彼女だったが、やはり何となく自分に宛てられたモノな気がして、少女は中身を取り出した。

 見たくない、怖い……。二つに折られた白い手紙は、○○を不安な気持ちにさせる。そして、パンドラの箱にも似たその紙を彼女は開いた。

 白い無地に灰色で罫線が引かれている質素な紙の上には、下手くそな字が記されていた。普段から字を書かないのだろう。文字のサイズがバラバラで、太ましく男の字だった。句読点の付ける位置も雑だし、文章も何処と無くおかしい。学が無さそうな書き方に少しだけ笑えた。

 でも、それは紛れもない"青峰の言葉"だ。頭を悩ませ必死に書いたのかもしれない。所々で字を塗り潰した後が見える。少女は、必死に書いてある内容を理解しようとした。


 ごめん ありがとう
 頑張る 負けない

 幸せになってくれ

 合鍵は閉めたらポストに入れて欲しい

 新しく踏み出してくれ


 ○○は、紙に雫が落ちたのを見たが、それ以上は視界がぼやけて何も見えなくなった。目を拭いもせず、声も漏らさずただ涙を手紙に落とし続ける。

 彼はもう、この部屋へは戻って来ない。ある筈の大きな荷物が無いからだ。とっくの昔にソレを持って、部屋から新しい世界へと旅立って行った。見送りに行くにも、旅立つ場所すら分からない。どの便かも知らない。何も教えられていない――……。

 スマホを鞄から出し、青峰を呼び出す。発信直後に流れた『お掛けになった番号は現在使われておりません』と云うアナウンスが、彼女に悲惨な現実を突き付けた。


 ―――――――――


 どの位泣いたのか……○○は気付いたら少しだけ寝ていたようだ。頭が痛い、何も考えたくはない。……動きたくもない。青峰が今朝まで使用していた枕は、自分の涙で濡れ尽くしていた。彼女のスマホが、誰からも連絡が無い事をお知らせしていた。

 ――死んでしまいたい。

 そう考えてしまう位に彼女は悲壮感に包まれていた。もう自分は二度と笑えないんじゃあないか? きっと他の誰も好きになれないし、一生一人でこの気持ちを抱えて泣き尽くすのだろう……。それならば、いっそ死んでしまった方が楽かもしれない。そしたら彼は『オレは何て事をしたんだ』と、自分の決断を後悔するのだろうか……?

「……ホント、馬鹿みたい」

 掠れた声がやたら耳に響いた。

 ――突如カチャリ、と音がして飛び起きた○○は、それが隣の住人が帰宅した音だと知り、その場に崩れた。惨めになった少女は、呻いた後にベッドから出た。他に彼が残したモノは無いかと、周囲を確認する。悪戯好きな青峰の事だ。きっと何かは残している。

 すると、空になっていなくてはおかしいゴミ箱にひとつだけ紙屑が捨ててあるようだ。グシャグシャに丸められたソレは、涙で一部がベコベコになった便箋と同じモノだった。拾ってソレを開くと、やはり青峰の書き損じた手紙だった。相も変わらず下手くそな字と文章だったが、一部分だけが、自分が貰ったモノと違っている。

 それは最後の一文が黒く塗り潰され、その後は白紙のままだった。

 葛藤があったのだろう。

 ボールペンで雑に潰されたその広い範囲に何が書いてあるか判った○○は、いい加減枯れそうな体液でまた視界が歪んだ。


『迎えに行く』


 文字と紙をクシャクシャにして"その気持ち"を捨てた青峰は、頭を抱え二枚目を書き出したに違いない。ボールペンを指で回し、自発的に書いた事のない手紙を懸命に書いたのだ。短気な彼は字を間違える度に苛立ち、上から黒に塗る。

 皮肉や毒舌は得意な癖に、感謝や恋愛の感情を言葉に出すのが苦手な青峰は、手紙でもやはり駄目だったようだ。コンビニで買ったレターセットが、彼からの最後の贈り物だった。

 塞ぎ込んでいた青峰は、書き換えられた宝の地図をようやく開いたのだ。隠されてしまった宝物を探しにステージを変えた。

 祝福し、祈らなくては……。彼の挑戦を。今度は遠く離れた場所から、遠く離れた存在として。

 彼女は書き損じの手紙を胸に抱えてまた泣いた。今度は大声で。届く事はもう無いこの愛情を、涙に乗せて全て出し切りたかった。愛してるじゃ伝えられない位に熱いこの気持ちは、どれだけ排出したくても消えはしないだろう。


 二度目の失恋は、彼との未来全てを拐っていった。


 ―――――――――


五月八日 11:48am――。

 人々は忙しそうに国際線のロビーを歩く。ビジネスの電話をしながらキャリーを引く者。家族との別れに涙する者、笑顔で旅立ちを告げる者。カメラで記念を残す外国人や、旅行雑誌に首を捻る者……。人の数だけドラマがある。だが、多くの人々はそんな当たり前の事に気付かないで、自分だけの今を過ごす。

 ここにもまた、人生と云う長いドラマを演じている二人が居た。忙しない周りを余所に、喧騒の中で向かい合い立ち尽くしている。

「呼ばないんですね、彼女」

「……お前の為だ、テツ」

 ロビーに姿を見せない○○について黒子が聞けば、青峰は申し訳無さそうにそう答えた。でも、本当の理由がそうじゃない事位、黒子テツヤは分かっていた。相変わらず恩着せがましい男のようだ。

「……アイツ、お前に返すよ。慰めてやってくれ」

 黒子は何も言わない。今度は『彼女は物じゃない』と怒鳴る事もしない。それはきっと、彼の目が真っ赤に腫れている為だろう。だから黒子は青峰に宣戦布告をした。

「……本気出しますよ? ボク」

 喫茶店での黄瀬の行動を思い出す。空になり氷だけになったグラスに、コーヒーミルクを注いだ。……そういう事だ。赤も青も無く寂しくなった自分の中に、白を迎える。だから青峰に伝えたかった。

 『キミは安心して旅立つと良い』

 ソレを汲み取ったのか、青峰は鼻で笑った。

「オレが知ってる中で、お前は一番イイ男だ。……テツ」

 空にして来たゴミ箱に、ひとつだけ未練のカタチを残して来た青峰は、ボールペンで消してしまった"五文字"を捨てた。

 傍に居てやれないなら、愛してやる意義など無い。自分はそこまで"愛"に執念深くは無い。目に見えるモノを欲しがる青峰は、きっと遠距離恋愛には向いていない。

「――……成功します、キミは。必ず」

 拳を差し出した黒子は、眉を凛々しくしたままに微笑んだ。

「でないと、困ります。火神君だって、人生を掛けてるんですから。キミに」

 青峰は気まずそうに笑うと、拳を合わせると云う青臭い行動を、何年振りかにし、恥ずかしさにすぐ手を引っ込めた。


 ―――――――――


「火神っち、海外行っちゃうのかぁ……」

 棒付き飴を口内で転がす黄瀬は、寂しさを全く感じさせない調子で呟いた。ロビーの椅子に腰掛ける事が出来た二人は、人混みの中でも目立っていた。最近バラエティー番組にも出たモデルは、黒いキャップにサングラスと云う如何にもな格好をしていたが、それでも纏うオーラは消えない。

「……やっぱ黒子っち、一緒に行かないでしょ?」

「――うるせぇよ」

 ムスッとした火神は、膝で頬杖を付き背中を丸めてしまった。だから黄瀬は、慰めのつもりで口から飴を取り出すと、火神の口元へ押し付けた。唇にベタつくイチゴの香りが付いた火神は、目線だけでジロリと睨むと口を開け、口内へソレを招待した。

「――オレなら一緒に行くっスよ? だって、火神っち好きだし」

 彼の唾液が付着した飴をカロッと転がせば、火神はその冗談を笑い飛ばそうと鼻で笑った。

 突如、黄瀬が目前の土産屋を指差し、肩を震わせ笑いを堪え出した。火神がそちらを注視すれば、緑色した髪の巨人がスーツを着込み、手土産の物色をしていた。彼も何故かサングラスを掛けており、ピンク色のネクタイをしている。どうやら今日の必需品は、ソレのどちらからしい。火神は腹を抱え笑った後、スマホを操作し目の前の男に電話を掛けた。

 右ポケットに電話を捩じ込んでいたその男は、画面に表示された文字を読み、着信へと出た。

「――何なのだよ、火神」

「よぉ? 緑間、お前今何してんの?」

「忙しいのだよ、オレは。火神、お前まだ日本に居るのか? 暇な奴だ」

 まるで自分はその場に居ないかのように話す緑間へ、聞き耳を立てていた黄瀬が「ククク……」と堪えた笑いを漏らした。

「……土産なら、その右手前にある東京ばな奈にしてくれよ。アレックスが好きなんだ。……そう、ソレだ」

 そのナビゲートで東京ばな奈を手にした緑間は、台詞の内容がおかしい事に気付き、携帯持った手を下げ周囲を見渡し始めた。そして、少し離れた場所でスマホを耳に当てながら腰掛けている火神を見付けると、罰が悪そうに口元を手で覆ったのだった。

「忙しそうだな、こんなトコで」

「……探す手間が省けたのだよ」

 火神の皮肉にも臆しない彼は、素直に購入していた餞別の土産を火神に付き出した。その隣で、依然腹を抱え笑っている芸能人を見てフンと鼻を鳴らす。

「青峰なら黒子とボーイズトーク中だ」

「メールの返事も寄越さん奴の事など、知るか」

 火神が「会いたがってたぜ?アッチは」といい加減な事を告げれば、緑間は「……なら会ってやるのだよ」と、咳払いの後にソワソワし始めた。

 緑間真太郎はこういう所で素直じゃない。きっと誰かさんから連絡があったのだろう。だから、彼は"何となく"で来てしまった。旧友を見送る為に、嫌味を言うために、不器用ながらも励ます為に――。

 やはり青峰大輝は、誰もを虜にする。

「――火神、お前も頑張るのだよ。……応援してやる」

 緑間はサングラスを外し、整った顔を見せた。目があった火神は、思わずポカンとしてしまった。

 まさかこの下睫毛野郎に自分まで励まされるとは。プライドの高い彼らしい、その上から目線の激励に、火神は目を細め口角を上げた。

 黒子が彼らの元に戻ってくると、スーツ姿の緑間が居る事に驚く。しかし、火神は黒子がひとりじゃない事に驚いた。GW分の休暇を今日から貰える事になったその人物は、黒子から連絡を貰うと、嫁と友人を連れ遥々青森からやって来てくれた。

「……出国の日位、教えろ。ダァホ」

「火神君、お土産。アッチ行って食べなさい?」

 日向の隣に寄り添っていたリコがプレゼントを差し出す。ソレは、真っ暗な野球ボール程の炭の塊だった。

「……なんスカ? コレ」

 手渡された火神がそう聞けば、リコはクッキーを焼いたのだと言う。きっとコレは焼いたのではなく、燃やしたのだろう。

「サンキューっス」

 引き吊った顔でお礼を言った火神は、税関で引っ掛かり持ち出し禁止になる事を願った。

「アメリカかぁ……。絵葉書頂戴な?」

 伊月が、その別れの言葉に続き「こりゃえぇ葉書」と呟けば、日向が大袈裟な溜め息を付いた。懐かしい気持ちに火神は、胸が一杯になる。

 目を瞑れば、ほんの少しだけ当時が甦った。何年も前の事だ。断片的にしか思い出せないし、補正もされているだろう。

 だからかは知らないが、眼下に浮かんだ思い出は輝いて見えた。

「……青峰は?」

「御家族と会っていますよ、もう少ししたら来ます」

 噂をすれば、親との面会を終わらせ、青峰がやって来た。『駄目だったら、何時でも戻って来なさい』と云う父親の台詞に目頭が痛んだ。知らない間に小さく見えるようになった父親は、やはり青峰にとって大きな存在には変わりがなかった。だが、結局両親に"違約金"に関して伝える事は出来なかったようだ。

「……緑間、元気だったか?」

「馬鹿め、こっちの台詞なのだよ……」

 プイと横を向き、サングラスを上げた緑間は、「……英語話せるのか?貴様は」と心配を"してあげた"。

「サプライズっスよ、オレも」

 そう言っていつの間に姿を眩ましていた黄瀬が、桃色の髪をした綺麗な彼女を連れてきた。

「……大ちゃん」

 感極まって青峰に抱き着いた桃井は、彼の胸の前で泣いてしまった。二つの膨らみが押し付けられた青峰は狼狽えたが、すぐに幼馴染みの頭を撫でてやる。

「なんでぇ〜? 行っちゃやぁ―!」

「ごめんな? さつき」

 まるで恋人のような幼馴染みは、綺麗な丸い瞳から涙を絶えず流した。そんな幼い頃から自分を理解してくれた少女に、青峰は皮肉を言ってやった。

「……お前、世界で三番目に泣き顔似合わねぇな。不細工だ」

 デリカシーも無い相手に鼻で笑われた桃井は、怒りながらも聞く。

「何でそんな半端なの?」

「世界で二番目に似合わないのは、オレだ」

「酷いモンだったぜ?」

 昨夜泣き腫らした青峰を見た火神は、その冗談に乗っかった。

「世界で一番は? かがみん?」

「泣き顔似合いますよ? 彼は、意外と」

 黒子の言葉に日向と伊月が笑った。似合うと言われた彼は、口を尖らせ黒子の頭を掴んで揺すった。……本当はその言葉が嬉しかった。また黒子が自分を視界に入れてくれる。舐め終わった飴の棒は、捨てられる事なく火神の歯でガシガシと噛まれていた。

「人と会うのに、服のタグ付けてくるような奴だ」

 世界で一番泣き顔が似合わないと思う人物のヒントを告げた青峰は、肩をすかした。世界で一番泣かせたく無い、でも沢山泣かせてしまった彼女……。今も泣いているのだろうか、どこで泣いているのだろうか。

 ――まだ、こんな残酷な自分を愛しているのだろうか。

 勘の良い桃井だけが、彼の台詞を理解出来た。イブのあの日、間違えて名前を呼ばれた彼女は青峰の中できっと重要な人物になったのだろう……。鼻を啜った桃井は、また青峰の厚い胸板に顔を埋めた。彼は振り切って来たに違いない。そんな愛しい人をこの場に呼ばないのは、彼女を大切にしたいからだ。

 青峰は、大事にしたければしたい程、こういう感情溢れる場所に相手を呼ばない。何故なら、青峰自身が感情に揺られ流されてしまうからだ。

 だから桃井は、今だけ彼女の代わりになれた。物心付く頃から互いの家を往き来した。休日は一緒に遊んだ。バスケだって苦悩を抱えて来たのを一番間近で見て来た……――。

「行くぞ、青峰」

 桃井の頭を数回叩いた青峰は、手を振り先にゲートへ向かう赤髪の男に続き、手も振らず振り向く事もせずに出国ゲートへ向かってしまった。冷たい奴だと思われそうだが、振り返れない理由は彼の顔を見た火神だけが知っていた。

 ――さぁ、新しいステージだ、踊ろう。

 次の舞台でも様々な人間を魅了してくれ。今度は人種を超え、言葉の壁すら乗り越えてその独創的なステップで催眠を掛けてくれ。


 先程貰った"炭の塊"を手荷物検査に差し出した火神は、眉を潜め「危険性はありますか?」と聞いた警備員の言葉に笑ったのだった。


 ―――――――――


 見送った黒子は、各々が解散し始めた頃に「ボク、ちょっと」と声を掛け、黄瀬に泣いている桃井を託すとその場を離れた。リュックから携帯を取り出せば、お目当ての人物が出てくれる事を祈り、電話を掛けた。

「…………はい」

 祈りは通じ覇気無く電話にと出た相手へ、黒子は簡潔に告げてやる。

「出発しました、青峰君達」

 数秒の沈黙後、電話の向こうで○○は泣き出してしまった。その大きな声に、スピーカーは対応出来ずに音が割れる。感情全てを吐き出すような泣き声は、黒子の胸を揺さぶった。

 だから彼も、目が潤んだ。自分の頭を揺すって笑っていた火神大我が、もう会う事すら困難な位遠くへ行ってしまった。親友と相棒を失った黒子は、喪失感に胸元へ"大きな穴"が空いた気分になる。その穴は、きっと電話の向こうで泣きじゃくる愛しい人でも埋まらないだろう……。

 溢れた感情は涙を引き連れ、彼の頬を濡らした。目の前のガラス張り越しには、気持ちが良い位の青空が広がっている。

 そんな綺麗な世界で、一機の飛行機が優雅に飛び立って行った。