「――……良いんだな? コレで。本当に」

 腫れた目元を隠す為、室内でもサングラスを掛けたままにしている火神は、隣に座る男へ声を掛けた。

「……こうするしか、ねぇだろ」

「それでは解約が終了致しました。ご愛顧ありがとうございました、こちらの機種はいかがなさいますか?」

 携帯ショップの派遣社員は、丁寧な口調で丁寧な化粧が施されたその顔を微笑ませる。

「……番号入ってっから」

 青峰はそう言って、もう繋がらなくなった古い携帯を握り、何時ものようにジーンズのポケットへ捩じ込んだ。

 五月七日 ――19:30pm

 青峰は火神と共に、長年愛用していた携帯を解約した。明日から異国の地で新しい生活を始める為だ。

「それなら、iPhoneとかオススメですよ? グローバルで使えます」

「コイツ、明日からPHSユーザーだから大丈夫、だ」

 隣でクスクス笑う火神に、青峰は顔をしかめた。渡米後はアレックスが用意したと云う、今時珍しい"通話しか出来ない機器"を渡される事になっている。該当者の青峰は「何して暇潰しゃ良いんだよ」と口を尖らせた。

「電子辞書貸してやる。ゲームも出来るぜ?」

「単語ゲームだろ? 馬ァ鹿」

 火神の悪意を含んだ親切を突っぱねた青峰は、白いブースに頬杖付きながら物思いに耽る。

 ――解約したこの携帯へ、彼の用意した"残酷なプラン"に打ちのめされるであろう彼女が、救済の電話を掛けて来たら……? そう考えた青峰は胸が痛んだ。

 でも……こうでもしないと、彼女は青峰を諦めないだろう。本当は綺麗なまま別れたかった。突き放す真似はしたくなかった。

 それは、青峰が今も○○を愛している証拠だ。過去形にならないこの感情は、辛かった。痛かった。……惨めだった。


 ―――――――――


 五月五日……いや、もう六日に入っているかもしれない深夜。最後の行為は、深く熱いキスで始まる。つい一時間前にも抱いたのに、また欲情が青峰の身を焦がした。それは相手さんも同じで、せっかく着た浴衣も先の行為でクシャクシャになっていた。

 ――恋人同士って、こうやってキスすんだな……。

 舌が絡んで、○○の口から、飲み込めずに溢れた唾液が垂れ始める。

 少し強引に肩を押す相手の望みを汲み取った青峰は、布団に仰向けに寝そべった。それでも唇が離れる事はない。初めて覆い被さった○○は、必死に知識と経験を総動員して青峰の口内を犯した。

 ○○は、いつもされているように青峰の右乳首を浴衣の上から擦るが、申し訳程度にしか付いていないソレはどこにあるのかさえ判らなかった。仕方ないから浴衣の襟から手を入れ、直接に触る事にする。

「……喘いだ方が良いか? オレも」

 せっかくのムードを鼻で笑われ壊された○○は、頬を膨らませた。だから青峰は、彼女のソレを片手で潰し息を抜いてやる。

 初めて少女を抱いたあの夜から、半年が過ぎていた。ただ身を任せ処女を捨てた流されやすい"オンナ"は、男を押し倒す程に情熱的な"女"へと変化していたのだった。

 同じリズムを繰り返し、彼の身体に騎乗した○○は腰を動かす。そして違うリズムの乱れた呼吸が、互いの口から漏れた。彼女の着崩れた浴衣から、片方の乳房が顔を出しているのがイヤらしく扇情的だ。

 奥へ押し付けられるように突き上げられた○○は、子宮の入り口を押し潰す苦しい感覚に息が止まり、声がまた高くなった。手を置いた青峰の腹部は固く、そして纏った汗で湿っている。その厚い身体は、何度見ても男らしく素晴らしかった。自分の少し肉が段を作っているお腹をへこませ、ウエストを少しでも細くしようとすれば、気持ち良さそうに目を瞑り呻く青峰は彼女の腰を掴んだ。

 交わった部分は、陰毛すら愛液と汗で濡れている。秘部は水を溢したように滑りを持ち、行為が激しいモノだと主張した。

「……出そうだ……。○○……、奥で出して、良いか……?」

 限界近い青峰は、目を閉じ、半開きになった口から熱い吐息を漏らした。ぐちゃぐちゃになった膣内を抉るように腰を揺すってやれば、少女は抑える事も無く喘ぐ。

 ……聞こえてるんだろうなぁ。周りに。青峰は、彼女と初めてセックスした日に壁の向こうから聞こえた艷声を思い出した。

 やがて小さく絶頂を迎えたのか、相手の内部が蠢き始めた。少女の入り口が締まり、自身を刺激する。

 堪らなくなった青峰は歯を食い縛り呻くと、胎内へと欲を全て出した。


 ―――――――――


「……アメリカ行ったら、NBA選手になるの?」

 膝枕に青峰の頭を乗せた○○は、その柔らかく短い髪の毛を撫でた。

「最初は二軍みてぇだけどな。すぐに一軍入りするつもりだ」

 自分の決意を鼻で笑った青峰は、頭を撫でられるのが落ち着くモノだと初めて知った。柔らかい手のひらが髪を擽り、何度も同じラインを通る。――気持ちが良い。まるで子供時代に戻り、親に介抱されている気分だ。

「……最後の記念に寝顔、撮っても良いぜ? 金になるから」

「残念、もう充電無いの。明日コンビニで買わなきゃ」

 息を深く吸えば、自分の精液の生々しい香りが仄かにした。彼女のナカへ多量に出したからだろう。拒絶されたように膣内から溢れる不透明なソレは、きっと彼女の下着を濡らしている。

 ――何でこの女はオレにこんなに尽くしてくれるんだ。

 その答えが○○の深い愛情のカタチである事に、きっと彼は一生気付かない。

「後悔、するな……よ……?」

 青峰の眠気はピークに達していて、少し静寂を作ってあげれば、スヤスヤと眠りの世界に旅立ってしまった。その寝顔は、初めて見た時と同じく○○の心を奪うモノだった。

 少女は叶わぬ願いを祈った。……時間が止まってくれますように。時計が無いこの部屋は、現在時刻も分からない。ならば、ずっと今が続けば良い。起きた青峰が、寝惚けながら『まだ夜か』とムニャムニャ言い、また自分を愛し始めてはくれないだろうか……。そうやって、永遠をこの畳張りの小さな世界で過ごしたい。

「おやすみ。……忘れないからね?」

 聞いてもいないその台詞は、○○成りの別れの言葉で、言った瞬間に堪えていた涙で視界がぼやけた。大好きな相手の横顔に涙を落とした少女は、優しくその頭を外すと、立ち上がり部屋を出る。

 どこでも良かった。思う存分泣ける場所なら本当に、どこでも。

 部屋の襖が閉まった音を聞いた瞬間、目を開けた青峰は、ゆっくり瞬きをすると身を起こした。雑に脱ぎ捨てていた半纏に袖を通し、彼女に続いて部屋を出る。
 
 ………………………


 外は寒く、少女は半纏を着て来なかった事を悔やんだ。履き慣れない下駄は、足の指から力を抜けば簡単に置き去りに出来そうだった。カランカランと軽快な音を立て、車が多数止まっている駐車場の隅に置かれた古ぼけたベンチに座る。寒さを凌ぐために体育座りになった○○は、膝に目を押し当てココでただずっと……涙が枯れるまで泣こうと決めた。

 嫌だ、辛い、痛い、苦しい、惨めだ……――。負の感情ばかりが生まれては消え、また生まれる。ぐずぐずしていると、遠くから下駄のカラカラした音が響いた。その地面を引き摺りながらもダルそうな歩き方は、直ぐに誰のモノか判った。

「――何してんだよ……。夜中だぞ」

 不機嫌そうな声がした。やはり、来てくれたのは彼らしい。

「……泣くんだったら、部屋で泣け。危ないだろ?」

 青峰は着ていた紺色の半纏を脱ぎ、体育座りで泣き続ける彼女に差し出した。だが、受け取りもせず頭を膝に埋めたまま動かない相手に、男は苛立つ。

「いい加減にしろ! 困らせんな!」

 つい口調が荒くなってした青峰は、本当は優しく部屋へ誘導してやるべきなのは分かっている。でも、もう自身も余裕が無い男は、子供ながらに彼女に辛く当たった。

「困らせてんのはソッチじゃん!」

 その突然の批難を含んだ大声に、青峰は何も返せない。皮肉も言えない彼は、ただ泣きそうに眉を下げただけだった。

「……何で? 待ってちゃいけないの? 青峰君の事、諦めなきゃ……駄目?」

「待つって……帰って、来ねぇぞ。オレ」

「じゃあ私もアメリカ行く!! 邪魔にならないようにするから!!」

 ○○は、涙ながらに無茶な要求を言い始めてしまった。それがどんなに相手を苦しめるか、知っている。だからこそ彼女は、想いをそのまま口にした。分かってる……自分だってアメリカに付いていく余裕なんて無い。金銭的にも、心身的にも。

 でも青峰と離れるのだけは嫌だった。例えそこが自分にとって地獄のような場所であったとしても、彼さえ居れば十分だ。……青峰の柔らかい髪が触れられる距離に、自分の身を置きたかった。

 しかし、青峰の答えは無情なモノであった。

「それは、駄目だ。悪ィ、お前は連れてけねぇよ。……駄目だ」

「……何で? 私、邪魔なの? 魅力無いなら、青峰君好みの女になるから! だから……っ!!」

「何も知らねぇ癖に勝手言うんじゃねぇよ!!!」

 青峰は彼女の言葉を振り切るように怒鳴る。こんな夜中に非常識なのに、彼は抑えられなかった。だって、彼女の言葉は甘過ぎて……もうビジョンが見えない自分の未来を、彼女に押し付けたくは無かった。そんなので、○○を不幸の世界へ引き連れたくは無かった。

「……オレが、アッチで失敗したらどうなんのか、知らねぇだろ……? テストに落ちたら、向こうで活躍出来なかったら…………違約金払わなきゃなんだぞ?」

 青峰は顔を伏せた。口元が震える。言いたくない、言いたくない……。こんな残酷な現実を口になんか出したくは無い。

「そんなの……私も……」

「"七千万"だぞ!! 返せねぇだろ!! 簡単に言うな!!」

 再度の大声が静寂を破る。その金額の大きさに、○○は理解するのに時間が掛かった。やがて、想像も付かないその話に目を見開き、涙を落とす。

 青峰大輝は、とてつもないモノをその大きな身体に背負い、潰れそうに挑もうとしていた。

「七千万って、幾らだよ……? 検討も付かねぇよ……。笑えるよなぁ? オレ、まだ二十歳だぜ……?」

 フラフラとセダン車に両手を置き、青峰は項垂れ動かなくなる。あまり磨かれていないのだろう。白く見えたその車は、砂埃が付着していたようで青峰の手の痕が残った。

「……だから、連れてけねぇんだよ……分かってくれよぉ……。頼むから……」

 ズルリと膝を曲げその場に蹲る青峰は、酷く小さな存在に見えた。いつも大きくて、自信家で、強くて……美しい。そんな彼が下手くそな笑顔の裏にこんなモノを背負っていたのか……。前々から決まっていたのだろう。あの時、洗面台の前で嗚咽を漏らしていた時には、きっと……。

 ○○は自分の存在を恥じた。我が儘をぶつけ、困らせようとした自分が情けなく、小さな子供の駄々と変わらない事に気付く。ただ青峰大輝と云う人物にとって、負担にしかなっていなかったんじゃないか……? そう思ったら、目の前から消えてしまいたくなった。

「――ごめんなさい……私、……ワガママで……ごめんな……さい」

 青峰は何も言わない。身動きもせず、ただその場で背中を丸くして蹲ったままだ。

 歩幅を合わせて歩いていた二人の道が、離れていくのを感じた青峰は、奥歯を噛み締める。修正するにも、物理的な距離がソレを邪魔してしまう。もう元には戻れないんだ……。

「――……明日の夜、来いよ……ウチに」

 ユラリと立ち上がった青峰は、汚れた手のひらをパンパン叩いて払う。

「最後の時間、お前にやるよ……○○。ワガママ全部、聞いてやる……。オレは世界一優しいからな?」

 やっと顔を上げた青峰は、泣いてはいなくて下手くそに笑っていた。だが、眉は寂しそうに下がり気味だ。○○は、そんな青峰の元へ歩みを進めると、大きな身体にしがみついた。大木のようなその身体は温かい。すぐに自分の顔を相手の両腕が包み、胸元に抱え込まれた。

「――温かいな、お前。……泣いてたからだな、こんな事にエネルギー使うんじゃねぇよ。馬鹿だな、お前……ほんと、頭悪ィよ……」

 独り言のようにブツブツ言葉を紡ぐその低い声が愛しくて、また涙が出そうになる。耳を当てると、青峰の鼓動が聴こえた。

「マジで寝かせて貰えねぇみたいだな」

 野外にも関わらず、夜も更けたこの時間帯は誰も居ない。それを良い事に、旅館の駐車場で二人はキスを交わした。


 ―――――――――


「――青峰……お前、本当に馬鹿だな……救えねぇよ……。どうすんだよ、馬鹿。本当に馬鹿」

「……何回馬鹿って言うんだよ」

 時刻は進み、五月七日、21:00pm――。

 火神の宿泊しているツインルームに泊まらせて貰う事にした青峰は、入り口前のベッドへと寝そべっていた。

 本当だったら、ソコに居るのは青峰大輝ではなく黒子テツヤの筈だった。一昨日の告白に戸惑った黒子は、その日の終電で帰ってしまったのだ。黒子へ何度連絡しても出なくなってしまった事へ、午前中一杯泣き尽くした火神は、自分の弱さを今更に恥ずかしく思っていた。

「七千万って……何考えたらサイン出来んだよ……馬鹿野郎、マジで」

「いっそ笑えるな。家なら四棟位建てられるぜ?」

 ククク……と笑う青峰へ、火神は溜め息で批難をぶつけた。まるで他人事のような振る舞いは凄く青峰らしかった。彼はこうやって、認めたくない現実から逃げる。

「……んで? 何とかなるようにしてくれんだろ? アッチで」

「……さぁな、お前馬鹿だから無理かもな。今のうちにデトックスでもして、臓器磨いとけよ」

 そんな調子の良い事を言う青峰に、火神は頭を抱え嫌味で返した。

 コイツ、危機感とか無ェのかよ……。

 ニヤニヤして買った雑誌のグラビアを眺める青峰を呆れつつも憎らしく思う火神は、再度溜め息を吐いた。

 ――でも、この超絶馬鹿野郎が居たから、自分は楽しく競技に熱中出来たのかもしれない。まるで見下ろされているかのような巨大な力は、若く意気がっていた自分を打ち砕き再構築してくれた。それは誰もが出来る事じゃあない。強く、技巧に富んでいた青峰大輝だからこそ出来た事なのだ。

 だからこれは恩返しのつもりだ、ソレの。わざとらしく、大きな溜め息の後に火神は青峰に声を掛けた。

「――三千五百万だ。青峰」

 飛んできたその台詞に、青峰は読んでいた漫画も途中に火神を見る。驚きと疑問で目が見開かれた。

「半分、抱えてやるよ。馬鹿なテメェの後悔、オレが」

「――……は?」

「駄目だったら、オレの腎臓位、お前にくれてやるって言ってんだよ。目ン玉でもいいぜ? 二個あるから」

 真っ直ぐに燃える火神の瞳は、それが紛いの言葉である事を否定していた。そもそも火神は、青峰に本気で嘘を付いた事がない。

「……馬鹿だろ、火神……お前」

「お前よりは、賢い」

 その後にフンと鼻を鳴らした火神は、ゴロリとあちら側へ向いた青峰の肩が震えているのを見た。苦痛、悲願、恐怖、動揺、希望――様々な感情が溢れるのを必死に抑えているようだ。そんなギリギリな状態で言葉を発した青峰は、いつもの余裕が見当たらずに震えた声で呟いた。

「……オレより馬鹿だ、救えねぇのは……お前の方だ、馬ァ鹿……――」

「そん位の覚悟でやれって事だよ、甘えんな」

 青峰はぶっきらぼうに「……トイレ」とだけ呟き、ユニットバスへと向かった。

「終わったら飯食いに行こうぜ?」

 火神は片方の口角を上げ、そう提案するのだった。

 見送った火神は、目を伏せて思慮に耽る。恐らくは、自分以外にも、もう二人居る筈だ。失敗した青峰を支えたいと思っている"アホな人間"が……。

 一人は色素の薄い眉を吊り上げ『青峰君……。馬鹿なんですか? キミは』と怒るだろう。そして自分のように『資産でも臓器でも……何でも、持っていって下さい』と、嘘、偽り、同情が一切無い台詞を告げるのだろう。中学から幾度となく裏切られ続けているのに、彼は青峰の傍に居る。火神は羨んだ。そんな彼が、青峰に向けていた絆の深さを……。ソレをオレにも向けてはくれないだろうか? 火神は終わった恋愛を引き摺り、前髪を掻き乱した。

 そしてもう一人――。コイツも、どうしようもないアホだ。何度傷付けられた? 何回泣かされた? そして最後は連絡すら寄越されず旅立たれていく。それでも彼女は、彼を思い続ける。諦めないで、信じ続ける。一番辛い時期に、優しく甘い言葉を掛け惑わせる自分を振り切った。そんな彼女の事だ。彼の未来に臆する事なく立ち向かうのだろう。青峰大輝は七千万円じゃ手に入らない。それが安いか高いかなんて、彼女に聞くのも馬鹿らしい。

 『催眠術師』――きっと"青峰大輝"は、これに分類されるだろう。まるで催眠術を掛けるように関わった人々を魅了し続けるのだ。自分も、黒子も、黄瀬も、桃井も、そして○○も……青峰大輝の人生ショーに魅了されたオーディエンス達だ。

 【hypnotize】
 人を催眠に掛ける。
 人を魅了する、驚愕させる。

 いつの間に身に付けたのか巧みな話術と、昔から変わらない傲慢な性格。誰もが羨む才能と、他者には持ち得ない技巧。強く見えて実は脆い。そんな溢れる人間臭さが彼の魅力であり、それが周りの人間を催眠へと惹き込む。

 完全体に見えて、実は何も完成されていない。今トイレで、抱えた感情を爆発させた"催眠術師"は、そんな状態ながら、明日の昼に日本を発ち世界へと羽ばたく。

「――恵まれてんだよ。青峰、お前は……」

 火神のその呟きは、薄い壁の向こうで泣きじゃくる青峰には届かなかった。