東北新幹線で二時間。そこから降りて仙台駅周辺をブラブラする事なくJR東北本線に乗り込んだ二人は、宮城県の観光名所"松島"に居た。

 五月に入った今日は、日差しも強く汗を纏う程に暑い。

「北国なのに暑いのかよ……」

 項垂れた青峰は、電車で座る場所も無く三十分も立たされた事にイライラしていた。予約していた旅館までタイミング良くタクシーを掴まえた二人だが、生憎の渋滞へはまり、それも彼の神経を逆撫でしたのだった。

「……こんな時期によく取れたね? 旅館なんて」

 ○○は、観光客が多いこの時期にこんな良い旅館を手配出来る相手を尊敬し、また自分と違う世界の人間なんじゃないかと思う。

「オレは何もしてねぇよ。カード会社に頼むモンだ、こういうのは」

 小さな駅で配布されていた観光マップを捲りながら、青峰は答えた。思った以上に人が多く、早くも不機嫌になっている彼の様子を○○は苦笑いする。彼の黒いTシャツは、ほんのり汗ばんでいた。

 繁忙期に向け最近リニューアルしたと云うその旅館は、畳独特の"い草の匂い"が強く、胸を踊らせた。カーテン代わりの小さな襖を開ければ海が見える。少女は、思わず凄惨な震災映像を思い出したのだが、今の景色は綺麗で、遠くの太平洋では遊覧船が優雅に泳いでいた。

 青峰は景色に興味が無いのか、テレビを付けている。見慣れないパチンコホールや、企業のコマーシャルが異郷の地を彷彿させた。

 ○○は、ポットのコンセントを差しお湯を沸かす。お茶の用意をしているだけなのに、なんだか新婚さんになった気分になり口元が緩んだ。青峰は寝転がると大きく息を吐いて気楽そうに呟く。

「畳臭ェなぁ……」

 そう言ってすぐ目を閉じた。

「……コッチ来いよ」

 お湯も沸かないのに茶葉を急須に入れ、ボーっと再放送のバラエティ番組を観ていた○○は、青峰に呼ばれ素直に移動した。

「……疲れた、三十分寝るから起こしてくれ」

 少女も青峰の畳に投げ出した腕を枕に横になる。ヒンヤリとした独特の感触が心地よい。丁度、開けた窓から風が吹いてきて夏の始まりを予感させる。それと青峰の香水の匂いが、風に混じり届いた。

「キス、しろよ」

 仰向けに寝ている青峰の頬に唇を付けた彼女は「寝ないの?」と、意地悪くからかう。鼻で笑い寝返りを打ったその巨体は、少女の身体を包んだ。そうして始まった愛しい相手との深いキスに、お互いが夢中になる。

 ○○が着ていたお気に入りの春服へ青峰の手が入り込み、膨らんだ片胸を優しく掴んで握った。スカートから覗く○○の太ももを擦った褐色の手は、上へ上へと登っていく。その汗ばんだ手のひらの動きに翻弄された少女の口からは、「……ふっ、ん」と可愛い声が漏れ出した。

「失礼致します」

 声と共に突如襖が開く。二人が思わずそちらに目をやると、小紋を着た女将がニコリと正座していた。○○は慌てて青峰の前から離れ、観てもいないのに付いていたテレビの前で小さくなる。背を向けた女性客の様子を愛想よく見送り、両手を枕にして寝転がったままの男性に声を掛ける。

 顧客情報には雑な字で【ニ十歳】と書かれていたが、見た目もっと上に見えた。身長と体型から、恐らくはスポーツ選手だろう。後でネット検索をしてみよう。プロ選手ならサービスのし甲斐がある。――旅館の女将は、こういう努力も惜しまない。

「御夕食は何時にお持ち致しますか?」

「何時から何時?」

「夜6時半から、8時までで御座います」

「8時で、出掛けるから」

「御一緒にお布団の用意もさせて戴きます」

「……今敷いてくれ。寝たいから」

「承知致します」

 女将は、立ち上がると綺麗な動作で押入れを開けた。

 こういう客には慣れているのだろう。嫌な顔ひとつせずに笑みを絶やさない部分にプロ根性が見える。

「お客様、身体が大きいのでサイズが合うかどうか……」

 訛りの入った口調で微笑んだ女将は、テキパキと二組の寝具を用意する。

「ごゆっくりと」

 静かに一礼をした女将は、音を立てずに襖を閉じ部屋から去った。

「――慣れてんな、ああいう人らって。スゲェよな」

 ラブシーンを見せられても顔色ひとつ変えない年配の女性に、青峰は称賛を贈る。

「馬鹿だよ、青峰君は」

 正座したままテレビの前から動かなくない彼女を迎えに行った青峰は、相手の隣に移動した。

「片方しか使わないんだから、一組で良いのにな」

 テレビの主電源を消した後、彼女を両腕で抱え込みピシッと敷かれた布団へと運ぶ。

「――観光しないの!? もう四時になるよ?」

「あぁ、だから三十分で終わらせる」

 そう言って意地悪に微笑んだ青峰は、ニつ敷かれた内の一つを行為で乱した。


 ………………………


 赤い橋を渡り、少し離れた小島へと上陸した二人は、生い茂る緑の中をフラフラ歩いた。途中、年配の団体客とすれ違い、彼等は青峰のそのデカさに驚き「外人さんかねぇ……」と話題にし出す。

「……思ってたより綺麗なんだな、ココも」

 震災後の世界を映像と写真でしか見た事の無い青峰は、もっと滅茶苦茶になっているだろうと予想していた。だが、ソコは思っていたより綺麗で活気のある場所に変化していて驚く。まるで何事も無かったかのようにも見えるが、端を見ればアスファルトが所々に抉れ、煉瓦が散り散りになっていた。【津波発生時の避難誘導看板】も大きく、『そういう事があった場所だ』と無機物ながらに訴えていた。

「三年も過ぎたからね。大分復興してるみたい」

 "三年"と云う言葉に青峰の蒼い瞳は揺れた。

 早過ぎる――……。

 彼は、薄ぼんやりと緑の向こうに見える海を眺めた。周りには誰も居ない。もう夕飯時に近い今は、離れ小島から人が姿を消し始めた。

 地平線に向かい動く夕日を眺めながら青峰は、最後に綺麗で、誰も邪魔しなさそうなこの場所で、別れを告げる事にした。

 そして誓う。この愛しい気持ちを抱いたまま、新しい世界へと足を踏み出そうと……。そしてまた、相手にも自分との思い出を抱き、また歩き出して欲しい。

「……聞けよ。○○」

 青峰は、ゆっくりと落ち着いた口調で彼女の背中に語る。潮風が吹き付け、彼女と自分の髪を乱した。目の前に広がる海はオレンジで、遠くに見える島は逆光で黒く色を落としている。

「――オレさ……、遠くに行かなきゃいけなくなった」

「……どこ?」

 夕日で肌をオレンジに染め、緊張感無く聞いてくる彼女の横に並んだ青峰は、地平線の向こうを指差した。波が揺れる度にチカチカする水面に目を細め、男はぶっきらぼうに答える。

「……アッチ」

 きょとんとする○○へ、青峰は具体的な地名を告げてやる事にした。

「――アメリカ。海外だ」

「また、そんな嘘……。相変わらずだね、いつも変な事言って困らせるよね?」

 そうやって後ろを向き、自分から離れようとする○○の腕を強く掴む。彼女の身体が、酷く小さく見えた。

「こっち見ろよ」

「…………」

「逃げんな! ちゃんと見ろよ!!」

 背後からの大声に肩を跳ねた○○が、こちらを振り向こうとする。だけど、相手は寸ででモーションを止めてしまった。焦れた青峰は、肩を掴み強引にも振り向かせる。しかし○○は、彼の乱暴な行動と、これから始まるであろう"別れ話"から必死に目を逸らそうとした。だから大男は彼女の小さな顎を掴み、首を上げさせ視線を合わせる。その目は嘘偽りの全く見えない――真剣なモノで、○○を真っ直ぐに見据えた。

「嘘だって言えるか? ……これでも」

 乱暴に視線を合わせた○○の瞳が揺れ、さあっと濡れ出す。青峰の眼差しは彼女の猜疑心を粉々にし、割れたソレは幸せな感情に容赦無く突き刺さっていった。

「……何で? 嘘だって、言って?」

「小さい頃からの夢なんだよ。強い奴等と戦うのが」

「やだぁ……、そんなの……嫌……」

 相手の哀しそうに上擦った声が、青峰の胸を刺す。でも絶対に目を逸らしたくなかった男は、少女の顎から手を離さない。やがて離したその瞬間、彼女の柔らかく白い肌を自分の胸元に引き寄せた。拒絶するように胸を押す二つの小さな手に負けないよう、強く強く抱き締める。

「……出発は、この旅行が終わったら……すぐだ」

「――八日、でしょ……? カレンダー……見たもん」

 彼女は青峰の胸元から顔を離すと、虚ろで大きなその瞳を向けた。瞬きをすれば、睫毛の隙間から雫が落ち地面に跡を残す。その水滴さえ自分に取り入れたい青峰は、離れた顔をまた胸元へ押し、彼女に伝えた。

「あぁ。火神と、有名になってくる」

「……居なくなっちゃやだよ……水着買ってくれるって、約束したよ……? 色んな場所行こうって……遠くに行かないって言ったじゃん!!」

 厚い胸を何度も叩かれる。非力な拳なんかよりも、涙を堪えたせいでヒリヒリする鼻のてっぺんの方がずっと痛かった。

 もっとオレを責めていい。別れの言葉が、強い罵倒の言葉でまみれても構わない。殺意を抱かれたとしても仕方無い。……だけど受け止めて欲しかった。この事実を。

 数日後に始まる"自分"と云う存在が消えた世界を……。

 『一緒に来いよ』なんて、先の見えない若い自分には言えない台詞だ。

 青峰が溢れそうになった涙を堪えると、目頭が痛んだ。着ていた黒いTシャツの英字の部分は、彼女の涙に濡れてビシャビシャになっている。それ以上に○○の顔は濡れているのだろう。

「……勝手で、ごめんな? 最初から、最後まで……、悪かった」

 青峰の声は震え、言葉に詰まる。ドラマのようにスマートには言えない。これが、このみっともないのが……現実世界の人間だ。余裕ある皮肉だってきっと、今はもう出て来ない。

「最後なんて言わないで……」

 男は、項垂れ肩を震わせる○○のつむじに顔を埋めた。きっと彼女も気付いている。だからこんなにもワガママを言う。

 オンナのワガママとか、気紛れとか、青峰は大嫌いだった。でもこれは……『行かないで』の言葉は、何故か嬉しかった。嬉しい筈なのに、反対に胸が引き裂かれそうだ。

 感覚だけなら"失恋した時"に酷似している。しかし、自分を包む温かい何かが、その悲壮感を撫でた。

 あぁ、きっとこれが……愛されている実感なんだ。

 ――○○は胸が痛くて息が出来なかった。きっと自分にとって青峰大輝と云う存在は、"空気"そのものなのだろう。彼の存在が薄まっただけで、肺が酸素を欲しがり悲鳴を上げる。完全に消えたら、きっと彼女は息も出来ずに、深海のような暗い感情へと拐われ溺れるのだろう。もう、泡になって消えたかった。恋心と云う感情を、自分から全て消したい。そうすれば、ずっと楽になるから……。

 これが最後だって実感が湧かない。なのに、嘘でも『一緒に来い』とも言ってくれない相手に腹が立った。それが彼の"誠意"なのに、○○はそれにさえ憤りを感じる。――だから『行かないで』と、初めてストレートなワガママを言った。惨めに泣いて、背の高過ぎる彼を困らせたかった。この振る舞いで『じゃあ、行かない』そう言ってくれるのを信じて……――。


 ―――――――――


 どの位の時間が経ったのだろう。日が大分落ち、空が群青に色を変えている。泣き疲れたのか、○○の震えも小さくなっていた。時々鼻を啜るが、涙は殆ど枯れたらしい。だから青峰は、世界で一番泣き顔が似合わない女に声を掛けた。

「……行こうぜ? 思い出作り。すっかり暗くなっちまった」

 胸に付いた少女の五本指を、自分の浅黒い指に絡めて、手の甲にキスをする。

 顔をぐいと上げた○○は、少し冷たくなった潮風に揉まれた前髪を整えると、目を閉じキスをねだる。青峰は、睫毛に付いた水滴を拭った後に首を少し傾け、愛する彼女へキスを落としてやった。

「……今夜は、寝かせないからね?」

 男の胸板に額を付け耳まで真っ赤にした○○が、初めて誘い文句を呟く。羞恥で硬直してしまったその肩に両手を添えた青峰は、その台詞にこう返した。

「……明日、一人じゃ帰れなくしてやる」


 ………………………


 黒子は今、火神の泊まるビジネスホテルに来ていた。ツインルームのソコはテーブルとベッドサイドにしか照明が無い。フルにしても灯りが乏しいこの部屋は、身長が高い火神の顔半分に影を落としていた。

「……マンション、引き払ったんですか」

「家具とか買い取って貰ったら、微妙な金額にしかならねぇんだな。寄付みたいなモンだ、アレは」

 白いガウンに身を包んだ火神が、二つあるベッドの奥へと腰掛ける。

「座れば?お前も」

 そう言われたが、黒子はその部屋の入り口付近から動かない。

 ――もう集う場所が無くなってしまった。毎回毎回、『馬鹿だ』と思いながらも四人でしこたま飲んで騒いで、前日に残した火神の体臭と、オリエンタルな消臭剤の香りがするあのベッドで寝た。フカフカで気持ちよく、持ち主同様に自分を安心させてくれていた。あの場所はもう無い、全てが過去となったのだ。

「……寂しくなりますね。お祭りが去っていく気分です」

 黒子の消えそうな呟きを聞きながら、火神は先週の結婚式を思い出していた。自分達をまとめ上げ、眉間に深い皺を作りいつもプリプリ怒っていた"あの先輩"が頭に浮かぶ。

 『全身全霊、自分の全てで"守りたい"って……そう思えるモノを作れよ』

 トレードマークだった眼鏡を外した日向が、幸せそうに微笑んだ。彼の背には二つの命が乗っている。だから強い、優しい、美しい。守るべきモノに支えられた彼は、逆に守られてもいる。単純に羨ましく、自分もこれから踏み出す世界ではそうありたいと願った。だから火神は決めたのだ。

 その自分が"守るべきモノ"は、高校からの相棒の黒子テツヤだと……。

「付いて来いよ。お前の面倒位、オレが見てやる」

「……それは、友人として、ですか?」

 その容赦の無い質問に、火神は顔を崩さずその場に静止した。口を真一文に閉じ、赤い瞳は"否定"を意味しているようだ。

「……なら、お断りします。キミのソレは、きっと勘違いです。じゃないと、ボクが困る」

「勘違いって、何がだよ?」

「言いたくない」

「言えよ」

 向こう側のベッドに座っていた火神は、口元を隠し黒子へ命令する。

「キミは、ボクに………恋心に似た何かを抱いています」

「あぁそうだ。……だったら何だよ?」

 黒子はもう真っ直ぐに火神を見れないでいた。強過ぎる眼差しが自分に向けられているのが辛かった。

「だから……、ソレは違うって……そう」

「お前はオレじゃねぇだろ!!!」

 突然の火神の咆哮に、黒子は俯いた顔を上げ目を見開く。立ち上がっていた火神は、震える手を拳にして感情を発散させた。

「何時だってそうだ! 高校の時から……!! お前はオレの事、何でも知ってるような態度だったよな!! 何も知らねぇ癖によ!!!」

「……火神、君?」

 火神は怒り続ける。あんまりだ……これは。黒子テツヤは何も判っていなかった。それ所か、自分の"この決意"を幻のように扱い始めたのだ。火神は、それが堪らなく許せなかった。

「何でコレが恋じゃないってお前が決めんだよ!! 何でお前がオレの感情を勝手に違うって言うんだよ!!!」

「…………」

「……断るのも気持ち悪いって思うのも、黒子……お前の勝手だ」

「気持ち悪いなんて、そんな」

「別にいいんだ、ソレだって。……でも、オレの気持ちを……そうやって無かったモノにすんのだけはやめろよ!!」

 真っ直ぐこちらを向いた火神の赤い瞳から、感情が涙となり溢れ出した。止まらない涙は大粒で、頬を通り顎で滴る。ベッドに再び腰掛けた彼は、手の甲で何度も涙を拭いた。

 黒子は、そんな風に肩を震わせ泣き出した元相棒に、罪悪感を越えた何かを感じ始めた。

「すみません……ボク、その……」

 『そんなつもりじゃなくて』

 その言葉が口から出て来ない。喉に引っ掛かったソレは『そんなつもりって、どんなつもり?』と云う自問自答を生んだ。

 『……火神君、ああ見えて弱いから。あなたが守ってあげなさい?』

 結婚式での、あの幸せそうな相田の笑みと台詞が頭に浮かんだ。溜め息を吐いた影の薄い彼は、泣き出した大男の前にまで足を動かし移動する。

「火神君、泣かないで下さい」

「泣いてねぇよ……」

 黒子は、ぷいと横を向いて拗ねた火神を両手で抱き締めた。そして、あの日寒い冬空の中で○○を腕で包んだ事を思い出した。

 ずっと見てきた赤毛……今はつむじが見える。この目線で自分が彼を見る事は殆ど無く新鮮だった。頬に固い毛が刺さり、安っぽいシャンプーの香りがした。

「……ボクは、これしか出来ません。理解して下さい。火神君」

「……黒子、お前」

「……ごめんなさい、火神君」

 首を横に振った火神は、涙を落としながら黒子テツヤを抱き返した。

 これが失恋か……。

 冷たい 痛い
 苦しい 裂けそうだ

 火神は、初めて経験したこの感情に飲まれそうになる。この両手に求めた光は淡く、離したら消えてしまいそうだった。

 乗り越えたのか……コレを。黒子も青峰も○○も――。"黒い何か"がまた自分を包もうとしている。

『任せとけよ……オレに』

 自分が耳元で囁く。だが、火神はソレが暴れ出すのを必死に抑えた。今だけは、飲まれてはいけない気がしたから……。

 幸せそうにキスをした日向と相田が頭に浮かぶ。ベンチでキスに夢中になっていた青峰と○○を思い出す。

 羨ましかった、彼等が。きっと彼等はキスと云う行為に愛を乗せながら、気持ちを伝え合っているのだろう。

 何時も自分のしているのは……あんなのはキスとは言わない。ただ唇を押し付けているだけにしか過ぎない。だからしてみたくなった。"本当のキス"を。

 火神は、大きな手で黒子の顎を掴むと、優しく彼の唇へキスをしようとして……ギリギリでやめた。