「一体何なんだよ! このオーダー数は!!」

 キッチンスタッフの男性が、一気に流れてきた注文数へ驚愕の声を上げた。そして、ホールへ新規注文を受けに行った女性スタッフまでもが「七卓ヤバい! 気持ち悪い位頼むの!!」と驚きに目を丸くして戻って来る。

 胸に【研修中】の札を付けた○○は、そんな先輩達が客へ文句を言う姿を眺めていた。洗浄済みグラスを片付けていた手を止めたままの彼女は、三月末からこのファミリー向けレストランに勤め始めている。四月も始まり一週間が経った今日で六日目、少しは慣れてきた頃だ。

「はぁ? 七卓って二名だろ? 十人前はあるけど……悪戯か?」

 三十代後半、男性店長はその悪意がありそうな客へ怒りを向けた。

「確認してくるから! どんな客だ?」

「やめた方が良いですよ! 二人とも体格が外人みたいですし!」

 彼等の注文を取った女性ホールスタッフが店長を宥める。そんなこんなで二人が言い合っていると、噂の七卓がベルで呼び出した。

「悪戯だったら叩き出してやる!」

 勇んで向かった店長だったが、数分後には呆然とした顔で戻ってきた。

「デザート頼むの忘れたって……」

 キッチンスタッフの彼は、流れてきた追加オーダーの数にとうとう「ふざけんな!」と怒り出したのだった。

「変なお客さんですか?」

 ○○は、モデルのように背の高い女性スタッフに聞く。現在、昼過ぎでマッタリ出来るこの時間帯は彼女ら二人でホールを回す事になっている。キッチンはアルバイトが一人。それに店長を含めた四人体制で、夕方までの暇な時間を運営する。

「見て来なよ。ハイ、これ持って」

 トレイに乗せられたコブサラダを手渡される。

「でもさぁ格好良いんだよ、二人とも」

 そう耳打ちされた○○は、リアクションに悩み苦笑いする。

 ホールへ足を運び、七卓に座っている人物を見た瞬間、彼女はトレイを落としそうになった。多分心臓が一瞬止まった。……何故ならそこには、一番居てはいけない人物が二人座っていたからだ。

 一人は赤から黒に色が変化する短髪。外人女性の裸体が描かれたTシャツにチノパンを身に纏い、ゴツいチェーンネックレスを首から下げたサーフ系の男。

 ソイツの反対側には、灰色のカーディガンを着用した男がメニューを眺めている。その下の白いタンクトップからは逞しい胸筋が覗いていた。肌が黒く、青い髪をしたその男がサラダを運んできた店員に声を掛ける。

「よぉ、"奇遇"だな? 何してんだ? "そんな格好"で」

 そのわざとらしく随所を強調した話し方から、僅かにピリピリした怒りが伝わる。

「何だよ、可愛いな。猫に衣装だ」

 ○○が震える手でテーブルにサラダを置くと、サーフ系の男がスマホで写真を撮りながら彼女を褒めた。ここのファミレスは、黒と白のシックなメイド服をモチーフにした制服が『可愛い』とマニアの中で有名なのだ。

「火神ィ。それを言うなら『孫にも衣装』だろ?」

「は? オレ、コイツのグランパじゃねぇけど?」

 静かな店内に、馬鹿二人分の笑い声が響く。そそくさと七卓を後にした○○は、胃袋と心臓が口から出てきそうだった。

 戻ってきた彼女を、キッチンで見守っていた店長が「大丈夫だった?」と心配する。『知り合いです』とも言えない○○は、ソレを愛想笑いで誤魔化してしまう。きっとあの山のように出来ていく料理は、全てサーフ系男の胃袋に納まるのだろう……。

 背の高く顔立ちが派手な先輩スタッフは、サーフ男子の火神大我から番号の書いてある紙を渡されて浮かれていた。話を聞いた○○は、何だか少し胸のモヤモヤを感じ、この女性が火神のエルグランドに乗ってあのお洒落なマンションに連れられる光景を想像し、両頬が膨らませた。

「でも私は右の黒い人の方がタイプかも。声がヤバい」

 鉄板焼をトレイに載せた女性は、嬉しそうに七卓へと向かった。結局サラダを運んでから、あのテーブルへは行ってない。そうして苦い顔を無理に笑わせながら、楽しそうに喋る高校生グループの元へ大分前に頼まれていたパフェを運びに行くのだ。

 先輩が向かったテーブルからは三人分の笑い声が聞こえて来る。料理を置きテーブルに背を向けた○○は、「うるさぁい」と野次る女子高生に同調した。

「……○○ちゃん。あの客、スポーツ選手か何かかね?」

 キッチンに居た男性が調理を終えホール入り口へと立った。

「いつもの三倍は働かされた、やってらんねー」

 隣でぼやいた彼は、茶髪で中性的な顔立ちをしていて、今人気絶頂の二枚目俳優に似ていた。正直タイプに該当した彼に話し掛けられ、○○はモジモジと緊張する。隣の男性は、依然七卓から戻らない先輩スタッフを指差した。

「アイツもああなったら戻って来ないから。頑張れよ、一人でも」

 そして少女の頭を撫で始めた彼は、目線のほんの下でトレイで口元を隠した○○に声を掛ける。

「……今日、暇?」

 チラリとこちらを見てすぐ目を正面に向けた彼女に純粋さを見た。

 ――こういう男慣れしてない子は、彼等遊び人からしたら扱いやすい。意志が弱いから、ヤリ捨てしても向こうから辞めてくれる。酷い言い方をすれば、手頃に試せる試乗車みたいなモンだ。それで、気に入ったらお買い上げ。

「飲み行かない? 不安でしょ、慣れないと」

「――でも、だいぶ……」

「アドバイス出来るならするよ? 給料出たから奢るし」

 火神は、チョイチョイと人差し指で青峰の視線を誘導した。オムライスから目を離し見たその先には、オトコに頭を撫でられ恥ずかしがっている彼女が居る。

「モテ期か? ありゃあ」

 青峰は鼻で笑うと、ハーフのように顔が派手な女性店員を火神に任せ、トイレに向かった。入って数秒後、怖い顔をしたその巨男はトイレから出て来る。

「スンマセン。紙無いンすけど」

 男性店員からの返事に困っていた○○は、後ろからよく知る低い声に話し掛けられ、肩を跳ねた。振り向くと、やはりそこには無表情の青峰が立っている。彼女は、顔が青ざめる感覚をこの日初めて知った。

「今すぐ補充してくれねェと、ションベンも出来ねぇんだけど」

 元々顔付きが凶悪で背が高い青峰は、睨むと非常に怖い。

「じゃあ、後で」

 気まずくなったのか、キッチンの男性は持ち場へ戻ってしまった。


 ……………………


「……後で、って何を待たせてんだ?」

 男性用トイレ内に設置された洗面鏡。○○は、その下にある引き出しからトイレットペーパーを取り出す。振り返り個室へ運ぼうとすると、褐色の大きな手がソレを奪い取った。

「紙なんか切れてねぇよ」

 男はそう告げると、ロールを台の上に置いた。

「……仕事の邪魔、しないで」

「『バイトすんな』って言ったよな? オレ」

「……言ってない」

「言った」

 青峰は怒りに意識を支配されながらも、冷静になる努力をしていた。正直、バイトをしたいなら勝手にすれば良い。そこまで行動を制限する気もなかった。

 しかし、青峰は彼女がバイトを始めた事実を今日まで知らなかったのだ。黄色い髪をした顔立ちの綺麗な友人からのタレコミが無かったら、きっとずっと気付かないままだったに違いない。隠されていた事が面白くない。ソレがイライラする。

 そして、頭を撫でられ嫌がりもしない目の前の女へ、無性に腹が立って仕方無い。

「……で? 何が『後で』なんだ?」

 腕を組み合わせ威圧するような態度の青峰は、引き続き怒りを抑えている。

「……ごめんなさい」

「デートにでも誘われたか?」

「今日……終わったら、アドバイスしてくれるって。仕事の」

「そりゃ良い。オレには出来ねぇ事だ」

「…………」

 黙ったままの相手に苛立った青峰は、拳で戸を強く叩くと、強烈な打撃音を響かせる。その大きな音にビックリして固まった○○を残し、男は踵を返しトイレから出ると、入口前には先程まで七卓でお喋りに夢中になっていた女性スタッフが待っていた。

「……お連れの方、帰られましたよ?」

 テーブルに戻ると、全てを平らげた火神は精算書だけを残し、堂々と食い逃げをしていた。……目元がヒクヒクした青峰は、ファミレスにしては恐ろしい金額をクレジットカードで支払った。

 その食い逃げ犯は隣の本屋の路面コーナーで雑誌の立ち読みをしていた。ムスリとした青峰に向かって「ごちそう、さんっ」と満足そうに笑うと、分厚い中古車情報誌を閉じた。

「彼氏が嫉妬深いのも考えモンだな」

 そう青峰をからかった火神は、いつの間に買ったのかポップコーンを宙に投げると口でキャッチする。

「……ホイホイとナンパ始める方が考えモンだろ」

「あぁ、アレな? 黄瀬の番号だぜ!」

 火神はまたポップコーンを空中に放る。しかし、歩きながらなのでソレは口の端に当たり、地面に落ちた。「あっ」と言う間に、鳩が啄み始めた。

「……最低だな。個人情報"リュウブ"だ」

「感謝して欲しい位だぜ? 相手はモデル様だ」

 その食べ方に焦れたのか、火神は口一杯にポップコーンを入れモゴモゴする。しかも行儀悪くそのまま喋り出す始末だ。

「よろほふへ、ひっほ」

「困んのは黄瀬のクソ野郎だろ」

「オレは困らせてぇんだよ。あのモデルをな」

 咀嚼した"おやつ"を飲み込んだ火神はニヤリと笑った。こんな人の多い通りを食べ歩きするアメリカイズムな彼を注意する者は居ない。その理由は、単純明快に"無関心"だ。街往く人々は、益無く彼を咎めたりはしない。

「トイレ連れ込んでナニして来たんだよ? 早峰」

「…………仕事終わったら、あのオトコに二人きりで仕事のアドバイスして貰うらしいぜ?」

「そりゃ最高の誘い文句だぜ! 真似出来ねぇ!!」

 その答えに相手はゲラゲラ笑い出す。こういう時、彼の容赦ない笑いは実に気持ちが良い。火神は身体を折り曲げ、名も知らない男の"誘いのセンス"に爆笑した。

「青峰の彼女も相当なウブ子ちゃんだな!」

「だからお前みたいな奴にほだされんだよ」

 青峰はジロリと火神を睨み、手元からポップコーンの袋を奪った。実は空になっていたソレに舌打ちをひとつかまし、コンビニのゴミ箱に突っ込む。

「良いオンナだったぜ? 首輪でも付けとけよ」

「首輪なら与えたよ! 馬ァ鹿! 死ね! 火神!」

 悪気を全く感じられない火神の言葉へ少し反応が遅れた青峰は、辛辣に怒るのだった。


 ………………………


 火神と別れ、コンビニで酒と雑誌を買い自宅へ戻った青峰は、玄関の前で立ち竦んでいた人物に気付くと立ち止まった。

「……何してんだよ」

 こちらを見た少女は、合鍵もあるのに家主の帰りを外で待っていた。手には鞄を提げ、制服を可愛いショッパー袋に畳み入れている。

「……青峰君」

「あぁ。そうだけど、どちら様だ?」

 悪戯に○○を他人のように扱えば、少女は泣き出しそうな顔をする。ソレに嗜虐心を満たした青峰は相手を許す事にした。時間にして二時間程度の短い喧嘩だった。

「……冗談だ。入れよ」

 家主は右腕で彼女の頭を抱え、入室を許可してやった。我ながら丸くなったモンだな……と、戸を支えながらに成長を実感する。

「……断って来たよ?」

「当たり前だろ」

 ○○は、緊張しながらも『彼氏が居るので』と誘いを振ってきたのに、ピシャリと言い返され肩を落とす。

「何でバイトなんかしてんだよ」

 青峰がベッドに腰掛け雑誌に目を通し始めると、偶然にもファミレスで仲間と馬鹿をやりながらバイトに励むギャグ漫画が入ってきた。いつも読み飛ばすソレを、今日も当然の如く飛ばす。

「……欲しいものがあって」

「買ってやるよ」

「そんなの、ヤダ」

 学生バイト程度で手に入るモノなんて、たかが知れている。そんなのを買い与えても懐は大して痛まないだろう。男からしたら、別にそれでも構わないのに……彼女はプライドで拒んだようだ。

 勿論その判断は正解で、ここで簡単に『じゃあ……』と奢って貰うような人間だったら青峰も訝しく感じただろう。人間とは実に複雑な生き物だ。理想と妥協と許容のラインが常に混沌している。飯だって、奢るからには見返りに何かをくれるような女が好きだ。例えば激しいセックスや、長時間の口淫もそれに適合する。

「青峰君だって先輩にデレデレしてた……」

 いきなり始まった文句に、青峰は雑誌から目を離した。自分の前には、頬を膨らませた女が正座して拗ねている。

「するかよ。デレデレなんか。あんなブス」

「胸見てたじゃん! エッチな顔して!」

 ○○は、自分の頼りない胸元を両手で包み、抗議を続ける。確かに、あの先輩とやらは背に比例して胸もデカかった。ブラウスを窮屈そうに押し上げていた。ふと、火神が「Eだ」と言っていたのを思い出す。ちなみに青峰はFカップ以上はあると思っている。

「元々こういう顔なんだよ」

 ……そりゃ確かにあの豊満な肉体をイヤらしい目で見ていた。罰が悪くなった青峰は、目を流していた雑誌を枕元に放り、そのまま上半身を倒すとベッドへ寝そべる。

「何が欲しかったんだよ」

 何も言わない少女がベッドの隣に腰を掛けた。その柔らかく温かい太ももに手を滑らせ、青峰は呟く。

「……オレの誕生日、まだ先なんだけど」

 ――そして、その頃にはもうココには居ない。来月初めにはこの狭い部屋は引き払われ、青峰の誕生日が訪れる頃にはきっと次の契約者が住み慣れる頃だ。

「……を、飲み始めたの」

 そのゴニョゴニョした言い方は、肝心の部分が聞こえなかった。

「はい?」

 青峰が雑に聞き返すと、予想以上に大きな声での回答が返ってきた。

「ピルを! 処方して貰ったの! 毎月! だからお金が必要なの!」

 短い前髪を散らし、生え際を見せて目を限界まで見開いた青峰の顔は滑稽だった。

「青峰君、避妊してくれないから!」

 ……だから彼女は自衛を始めた。先月の初旬、一人で初めて産婦人科へ行った。待合室は女性的空間で、可愛いポップや飾りで新しく産まれる命を祝福していた。――周りの女性は皆幸せそうなのに、自分がココに居る理由が酷くエゴにまみれていた為に、彼女は落ち込んだ。そして隣で小さい子に絵本を読み聞かせていた女性が羨ましく思って、スカートを握る。

 診察室では簡単な問診をされ、すぐに薬を処方される。四十分待たされ、診察は三分で終了した。また薬を出されるのに二十分待たされ、幸せな空間の中に居たたまれなくなった○○は、身を小さくさせたのだった。

「飲めって、言ってたし……」

 今日もスカートを握り唇を噛んで顔を真っ赤にした○○へ、青峰は慌てながら言葉を投げる。

「冗談に決まってんだろ!」

 確かにその台詞を何気無しに言った事はある。でもまさか本当に実行するとは思って無かった。

「……昨日で、生理終わったから……今日から……大丈夫。飲んで一ヶ月過ぎたから」

「オメェ馬鹿かよ、マジで。そういうのは、男が……金出すモンなんだよ」

 青峰は色々な感情が入り込んだ胸板を大きく膨らませ、吐き出した息と共にへこませた。そして少女の小さな背中を擦る。

 今すぐにでも彼女に全てを打ち明け、その後に『付いて来いよ』――と、そう言いたかった。

 きっと、彼女に出国する旨を告げるのは今日だ……。

 今決めた"その決意"は、何だかずっと前から今日がその日だと決まっていた気がした。

 ついに決心した青峰は、彼女の肩を押して自分の胸へと引き寄せる。ベッドが軋み、胸に重みが掛かった。

「――オレさ、アメリカ行くんだよ」

 その言葉に、○○は目を丸くすると数回瞬きをした。

「……またそんな冗談言って」

「は?」

「どうしたの? 青峰君。構って欲しいの?」

「馬鹿か」

 そのリアクションは予想外で、青峰は鼻で笑ってしまった。――だから、つい調子の良い返事で"渡米する事実"を濁した。

「あぁ、ハリウッドに誘われた」

 ○○は、いつもの青峰のいい加減具合に、腕の中でケラケラと笑い出した。

「スケールの大きい嘘だね」

「サイン貰って来てやる。誰が良い?」

「ジョニー・デップ」

「それならオレの方がイイ男だ」

 彼女のおねだりに、自信家の青峰は冗談を囁き、オマケに唇へキスを落としてやった。

 狼少年の彼は、『これで良いんだ』と、腕の中で幸せそうにする彼女を眺めた。

 そうやって少年が大声を出し、村を襲おうとした狼の気を惹いてしまったから"助かった羊"だって居ただろう。結果的に彼が助けたその羊が、後日また村を襲うだろう狼に食べられてしまうのかどうかなんて、既に食べられていた少年には分からない。

「……今の話、本当?」

「――オレがお前に本当の事を言った例あるか?」

 嘘ばかり付いて信用を無くした狼少年は、最後の嘘を腕の中の"憐れな子羊"に告げた――。