水色の携帯に一件のメールが入った。送信相手の欄には【テツ】とだけ書いてある。この人物は登録してから変える事無く今日までアドレス帳の【タ行】に名を連ねていた。これからも、このアドレス帳が存在する限り彼はココに居続ける。

『優勝しました。おめでとう。』

 自分達以外が見たら混乱しそうな内容を、青峰は鼻で笑い飛ばす。色々言いたい事はあったが、何を言っても上辺だけの言葉になりそうで返信するのをやめた。しばらくの間は、黒子の持つガラパゴス携帯を、自分の携帯が呼び出す事は無さそうだ。感謝の気持ちごと携帯を内ポケットへしまった。

 ――あの後、グシグシ泣く○○に「ウチ来んなら化粧直して来いよ」と告げると、少女は鞄を持って女子トイレへと向かって行った。可哀想な位に目元と鼻を紅くして戻って来た少女は、少し微笑んで「酷い顔だね、コレ」と自虐した。

「……隣、歩いてやるんだから有り難く思えよ?」

 そんな彼女の散々な姿に、御自慢の皮肉も只の覇気の無い呟きになってしまう。

「火神アイツ、言い方があるよなァ。ストレートなんだよ、昔っから。馬鹿だからな」

「……青峰君なら、何て言うの?」

 鞄を抱え三歩後ろをノンビリ歩く○○は、青峰にそう尋ねた。

「――今頃、頭抱えて反省してるぜ? アイツはいつもそうだ。考えるより先に行動するんだよ」

 青峰は質問に答えられず、代わりに現在の火神を予測した結果を発表した。

 ――火神大我。彼は己の正義を、片一方にしか寄せられない性格をしている。奴は視野を拡げ全体を眺めるのが苦手だ。バスケのプレイにもその傾向がよく表れる。『行ける』と思ったら、強引にもソレを強行してしまうのだ。

 そんなんだから一度何かを「これは正義だ」と振りかざし始めたら、誰かを悪役に回してしまう。たまたま今回の悪役が"○○"だっただけだ。青峰だって、数ヵ月前に同じ経緯で頬を殴られている。更に火神は、そんな自分を"駄目な奴"だと知っている。でも走り出したら止められない。目の前にハードルがあったら、膝で薙ぎ倒し踏み付けながら走る。蹴られ踏まれたハードルが地面に擦れ傷付くように、正義で責め立て誰かしらを傷付けてしまう。

 行動の先が読めない火神はゴールしたら必ず振り返り、走ってきた道に倒され踏まれ汚れたハードルを見る。そうしたら毎回両手を組み合わせ膝を付き、後悔し懺悔をするのだ。今回のように、ギリギリ過ぎる正義で全てを傷付ける事だって少なくは無い。

 二人がエントランスに着くと、アリーナからは未だ止まない歓声が聞こえた。マイクのエコーと共に表彰式が始まったようだ。そこで結局、青峰は試合をひとつも観れなかった事に気付いた。

「……コレ持って待ってろよ。傘、買ってくるから」

 スーツの上着を渡し、ワイシャツ姿になった青峰は、総合体育館近くのコンビニへ走っていった。深く蒼い短髪と、茶色い肌はすぐに闇に紛れる。だけど今回だけは、闇に消えた彼がちゃんと戻って来る気がした。

 予想した通りに傘を差した青峰は戻って来た。手に握ったもう一本の傘を差し出すグッショリ濡れた相手は、悩ましい位に男前だった。受け取ったのを確認した青峰は、大きくクシャミをする。瞬間に息を止める為、猫や犬みたいな「グンッ」と云う不器用過ぎるクシャミになった。ソレは彼の目の前をチカチカさせる。初めて聞いた動物的なソレに○○は声を上げて笑った。

「……帰るか。なんか疲れたな」

 雨がビニール傘を叩き続けた。アスファルトが濡れて、雨の日独特の匂いを連れてくる。静寂な街の、騒がしい傘の中で青峰は、わざとらしく笑った。

「慣れない体位でエッチしたからだな」


 ………………………


「連休なんかどこも混んでるよな。新幹線のチケット取れんのか?」

 彼のベッドには、俯せに寝そべった○○が居た。待ち合わせ場所に忘れた為、新しく買い直した観光雑誌を読む彼女。その上から重なるよう同じく俯せになった青峰は、後ろから手を伸ばし読んでいたページを勝手に捲り出す。愛しい彼の重さと体温を背中越しに感じた○○は、今自分が身に纏っている借り物のボディソープとシャンプーが、相手からも香って堪らなく嬉しくなった。

「ココに行ってみたいな」

 指差したページの写真には子供に人気のパンをモチーフにした茶色いマントの正義のヒーローが写っていた。最近建設されたそのミュージアムはあんパン製ヒーローの魅力を惜しみ無く展示していると言う。

「……マジかよ?」

 くすぐったくなる距離で、相手は『信じられない』と言いたげに彼女のチョイスを批難する。――○○は、小さい幼児に囲まれ顔を引き吊らせながらヒーローショーを観賞するガタイの良い彼氏を想像し、フフフ……と笑ってしまう。それを聞いた相手からの答えは「ぜってぇヤダ」だった。そう大好きな低い声で棄却され、ページを飛ばされる。

 動物園を指差せば、中学時代に野外学習で行ったと言う。彼はソコでゴリラから排泄物を投げられたらしい。しかも一緒に居た黄瀬からは、酸欠に喘がれる程に笑われたらしい。

「人間サマにウンコ掴んで投げる生き物が居るんだぜ?」

 青峰は眉を潜め笑う。

「じゃあドコならいいの?」

「エッチな事出来るトコ」

「……どこでも、するじゃん」

 ○○は意地悪を返した。だってソレは事実だし、向こうも認めざるを得ないと、そう思ったからだ。

「お前がして欲しそうな顔するからだろ?」

 青峰がそんな狡い返しを囁くと、お互いの下半身に熱が篭る。疼きに言い返す気力さえ奪われた○○は、シーツを握った。しばらく変えていないのだろう白いシーツは端が捲れ、その下からテンピュールが覗く。

 アスリートは寝具に拘る。低反発の値が張ったテンピュールマットは、体重を掛けた分だけゆっくりと沈む。青峰の香りがするシーツに顔を横たえると、着ていたTシャツをたくし上げられた。マッサージのように脇腹を撫でられ、擽ったさに笑い声が出る。青峰は○○の身体のラインを確めるように撫でる。あと何回、こうやって柔らかい肌に触れられるだろうか……。

「……春休みだろ? 予定あんのかよ」

「バイト、しようかな? 旅行に備えて」

 彼女の答えを聞きながら、風呂上がりで下半身は下着しか着けていないその太ももの裏をなぞる。「ん……っ」とイヤらしい声を出した彼女へ、ある提案をした。

「いや、駄目だ。っつーかそんなのいいから暇なら毎日来いよ。リハビリ終わったら会えるから」

 びっくりして首だけ捻り、こちらを見た○○には「春だからな、サカるんだよ」と如何にもっぽい卑猥な理由で誤魔化す。

 俯せになっていた○○を仰向けにする。彼女の髪の毛が枕に散る。それを無意味に纏めて整えてやる。どうせ動けばまた散り出すのに……。満足した青峰は相手に指を絡めると、付けては離す簡単なキスを繰り返す。時々舌で彼女の綺麗な唇を舐めた。

「……青峰君、居なくなったりしない……?」

 キスの途中で一番されたくない質問をされた青峰は、誤魔化す為に今度は深く口付けをする。『そんな事は、無い』そう伝われば良いと、熱い舌を絡めた。彼の開いた口から息が漏れた。不安から出た溜め息は、興奮が引き連れてきた吐息を錯覚させてくれた。

「黒子君と火神君が思い出作りって、そう言ってたから」

「今までの交際期間が短かったから心配してんじゃね?」

 そうテキトウな事を言った青峰は、○○へのし掛かり、顔を相手の左側へ寄せた。顔を見られたら、確実に嘘を付いている事がバレそうだった。……だから隠した。行き場の無い感情を逃がそうと向こうの耳を舐める。背中がゾクゾクする程の快感に身動いだ彼女は、それでも言葉を続けた。

「分かんないけど……すごく、遠い所に行きそうで……」

「勝手に殺すなよ」

 彼女の目元を手のひらで覆い、軽いキスを落とす。――言えない、言いたくない、終わりたくない。もう少しだけ"幸せな時間"が欲しい……。こうしてただ幸福に身を任せ肌を重ねていたい。目の前の普通としか言えない少女が、世界一綺麗に見えた。だって、それはきっと視界がぼやけたからで……。

 五月からはこんな風に誰かを愛す暇もなくなる。心技一体で全てを掛けた闘いが始まるのだ。

 人間の成長は三段階あると言われる。一段階目は弱い自分との闘いだ。それを越え始めて他者との競争で自分を成長させていく。それが二段階目。最後は、周り全てを打ち負かした"自分"との闘いが始まる。青峰は一度ココで己に負けた過去がある。

 次は、勝ち続けなくてはいけない。"昨日までの自分"に一度でも負けたら、破滅しか待っていない。イカサマの遣えない真剣勝負が始まる。――怖い、怖い、怖い……。二人でこのまま逃げ出してしまいたい。世界の果てまで逃げて、誰も来ないその楽園で永遠に暮らそう。


『情けねぇな、お前。ダセェよ』

 桐皇のユニフォームを身に着けた自分がボールを人差し指で回しながら馬鹿にする。これは、敗けを知らない"最も強い時代のオレ"だ。

『――じゃあお前が行けよ! 行ってくれよ!!』

 "最も弱い今のオレ"が情けなく叫ぶ。足元には破られた【背番号6】のチームユニフォームが落ちている。その姿を侮蔑した過去のオレは、ドリブルを付きながら何処かへ行ってしまった。


 青峰の目頭から二粒だけ、彼女の肌に水滴が落ちた。目元を隠されている○○は、感覚だけで上に乗っている彼に問い掛ける。

「……何で泣いてるの?」

「――鼻水だよ、馬ァ鹿……。オレは今日から花粉症なんだよ……」

 手を離し、目を真っ赤にした青峰はわざとらしく鼻を啜る。○○は、そんな姿の彼氏に"気遣いの皮肉"を掛けてあげた。この言葉が今の彼を一番救うと思ったから……。

「顔、洗ってきたら? 泣き顔、世界一ブサイクだよ?」

「……一位は譲ってやる」

 そう言って青峰は、少女の額にデコピンを喰らわす。洗面台に向かう為にベッドから腰を上げた男を見送った○○は、その姿が見えなくなると枕に顔を埋めて少しだけ泣いた。

 多分、青峰も鏡の前で顔を伏せて泣いているのだろう。水が蛇口から流れる音と共に少しだけ男の嗚咽が聞こえてきた。


 ………………………


 隣に眠る相手の顔を眺めた○○は、寝顔にも出来ている眉間の皺をなぞる。

「まだ若いのになぁ……」

 そう言いながらも、実は高校生からある皺のラインを彼らしいと愛しく思う。黒子も含め、周りに同年代の男性は沢山居るが"青峰大輝"以上に嵌まる相手は見付からない気がした。愛しても愛しても絶えず溢れるこの気持ちは、『愛しきれない』と云う結論を出した。

 現在の時刻は朝方04:05――。布団から這い出た彼女は、冷えた室内で凍える身体を擦り、鞄からスマホを取り出す。慣れた手付きで充電ギリギリのソレを操作し、カメラを起動させた。寝顔を撮影しようとライトを付けた瞬間、布団の中から手が伸びてくる。

「……に、してんだよ」

 眩しそうに深く目を瞑る青峰は、手を離し俯せになると枕に顔を埋めてしまった。

「写真、欲しくて……」

「画像検索でもしてろ」

「それも凄い話だね」

 何時もより更に低く、不機嫌そうな声で返事を返す青峰へ苦く笑い返した○○は、搭載したカメラを終了させた。

「寝顔、欲しかったのに。プライベートの青峰君」

「……金になりそうな話題だな」

 寝惚けながらも自画自賛を忘れない青峰を、少女はクスクスと笑う。こういう自信家な所も、羨ましく思える程に大好きだった。鞄に電子機器を戻し、布団に潜り込んだ○○を、充分に身体の温まった彼は迎え入れてくれた。


 ―――――――――


 黄瀬から久々に連絡が入った黒子は、近くのコーヒーショップに顔を出した。オープンテラスで手を振り、フェイクに伊達眼鏡を掛けた黄瀬は女性の熱い視線を集めていた。

 ――行きたくない……。

 影が薄い黒子でも、黄瀬の前では得意の気配を消す事は出来ずに無駄に目立ってしまう。目立つ事で尊厳を保つ黄瀬涼太は、黒子とは対称的な位置に居る人物だ。

 三月も後半に入った。風が強い今日は大気が暖かく、黒子はパーカーを脱ぎ、長袖一枚になる。

「誕生会以来っスね」

 笑顔を振り撒く黄瀬は、今日もまたお洒落な服に身を包んでいた。このまま撮影が始まりそうである。

「火神っちから聞いたっス。災難っスね、大丈夫っスか?」

「……大丈夫です」

「――それはどっちの大丈夫?」

 黒子が小さなメニューボードから黄瀬に視線を向ければ、彼は先程と同じ笑顔でこちらを見ている。頬杖の上に目を細め、綺麗な笑顔を向けてくるのだ。

「――火神っち、居なくなるっスよ? それでも?」

 その言葉に黒子は答えられない。メニューボードからアイスカフェラテを指差すと、黄瀬は手を挙げてこれまたお洒落な店員を呼んだ。


『……一緒に来いよ、黒子。お前も……』


 黒子の脳裏にあの言葉が浮かんで、消えた。そして目の前に置かれたアイスカフェラテに添えられたガムシロップを流す。白と茶色は混ざって、それが何だか○○と青峰みたいで、地面にぶち撒けたくなった。

「寂しいなら、諦めたその恋を進めれば良いんスよ」

 黄瀬はまるで黒子の心を読んだような発言をした。溜め息をひとつ溢した黒子は身を引いた理由を教えてやる。

「彼女は、青峰君しか見えていないんです」

 底にガムシロップが沈んだのか、一口目がやたらに甘い。だから再度赤いストローで液体を混ぜた。何で、このストローは"赤色"なんだろう。それはまるで、あの二人を掻き乱した火神のようだった。

「目の前から消えた奴を想い続ける人間なんか、居ないっスよ?」

 カフェラテを飲んでいる黒子は少しだけ動揺する。学生時代の彼じゃ絶対に見れなかったその光景に、黄瀬は意地悪く微笑んだ。

「――オレなら、奪うよ? どんな手を駆使しても。……だって、チャンスだし」

 黒子が話し方が変わった黄瀬を見るのは初めてじゃない。ずっと見ない振りを続けて来た。火神のソレとは闇の深さが違い過ぎる……。顔の整った彼の闇は、正義の欠片も無い、純粋な悪だった。――だから、今回も何も無かったように振る舞うしか無い。

「神様はちゃんと見てるんスね」

 黄瀬は喋りを元に戻し、交差した手の甲の上に顎を載せ綺麗に微笑む。その完璧な笑みに黒子は背筋が寒くなった。

「そう……です、ね」

 空っぽになって氷だけになった透明なグラスから"赤いストロー"を外せば、まるで何も無くなった黒子自身のようだ……。

 ――だから黄瀬はそれにミルクを注いだ。純白のソレは氷と混ざって、空になったグラスを数センチ満たした。