教室程のミーティング室は、前回の使用者がそのままに帰ったのか、長テーブルとパイプ椅子が部屋の後部に寄せられている。こうして四人は何もない空間に立っていた。

「……何から話すかな?」

 ノソリとした口調で火神は呟く。

 彼は思うがまま"全て"をぶちまける気だ。周りから頼られる火神は、四人の秘密全てを知っている。それは大きなアドバンテージとなり、この場の支配者を火神大我にする。

 同様に、青峰だってそれなりには把握はしている。だから分かるのだ、彼がしようとしている事を……。奴は積み上げてきた色々なモノを正面から壊す気だ。

 誰も救われない、哀しみだけが最後に残る凄酷なパーティーが始まる。

「――○○、言ってやれよ。黒子に、ちゃんと」

 最初のターゲットを決めた火神は、顎の下で固まっている少女に命令のような指示を告げてやる。

「事実を知らないままじゃ可哀想だろ?」

「……ボクは、良いんです。大丈夫です」

 火神の歪な優しさに、黒子は俯き拳を握る。言わないで欲しい……聞きたくない。彼だって言われなくても判る。ここまで仲良さそうにやってきた二人の関係を……。彼女の細い首筋に残るキスマークは、一体誰が愛した証なのか、そんなの、気付くに決まっている。

「……ごめんな……さい」

 その答えに黒子は首を左右に振る。長い長い返事待ちだった。彼女の出した結論を責める気にはなれない。黒子テツヤはそこまで情けない男では無い。

 だって、自分が女性なら確実に青峰に惹かれるだろう。彼は格好良いから……。顔は男らしく頭身のバランスも良く、スーツだって似合わないながらに着こなしている。同じ男として、彼に勝てる訳がない。

 でも、それなら早くに言って欲しかった……。自分の存在が彼女の中で"邪魔"になっていたに違いない。そんなのは死んでも厭だ。今は祝福出来なくても、きっと何時かは気持ちの整理が付き、二人の幸せを願ったのに……。

「ココでキスでもしてやれよ。青峰」

「……久々にバスケして頭イカれたか?」

 ここに来て、青峰が初めて口を開いた。聴衆に徹していた彼は、低く煽る口調で火神の発言を馬鹿にする。

「――さっきはあんなトコで、キスまでしてたのにか?」

 その台詞に○○の顔が瞬時に赤くなった。火神にも見られていたようだ。

「青峰ェ……。思い出作りならそう言ってやれよ。だってお前……――」

「やめろ!! 火神!!!」

 青峰の声が部屋に響く。彼はいつもは細く余裕のある青い瞳を、今は限界まで見開き歯を食い縛っている。

「言ってないんですか? まだ、彼女に」

 黒子までもが大きな目を見開く。それは、彼女にとって無慈悲過ぎる未来だった。今を幸せそうに過ごしているのなら、やがて訪れる最愛の人間が自分の目の前から姿を消す、その事実と向き合わなくてはいけない。若く青い彼女は、相手が去っていった後も、涙と気持ちが枯れるまで泣き続けるに違いない。

 黒子からしたら、彼女に潜り込むまたと無いチャンスだ。でも、傷心する彼女に"自分"を押し付けるだけの気がして、退けてしまう。それに、いずれは青峰を思い出し、自分と居ても海の向こうを焦がれるだろう。そんな彼女を愛し抱いても、人形に恋しているように滑稽な気分になりそうだ。

「青峰、ソレはテメェの悪い癖だ。……オレさっき言ったよな?」

「あぁ、ちゃんと言うから。……でも、時期は今じゃねぇ」

 青峰は火神の腕の中に居る少女と目が合わせる。彼は、何時から彼女を愛し始めたのか分からない。理由の見えないこの感情はただ幸せで、ただ不安で、ただ苦しかった。

「黒子、良かったな? まだチャンスはあるみたいだぜ?」

 火神は彼女の両頬を片手で掴み、最後の爆弾でこの救われないパーティーをお開きにする事にした。

「コイツが落ち込んだら慰めてやれよ。簡単に股、開くぜ?」

「――何を言ってるんですか? 失礼過ぎます、それは」

 黒子は不安と怒りで震える二の腕を両手で抱えた。

「謝って下さい……彼女に」

 抑揚の無い声は何時も通りだったが、感情の限界値が近そうだった。

「――黒子ォ……。オレも、寝たぜ? セックスしたんだよ。……○○と」

 そう告げられた黒子は、フラリと近くにあった長テーブルに手を付いた。そうしないと床へ崩れそうになったからだ。青峰も、本人の口から聞かされた事実に目を閉じ下唇を噛む。それを嘘だと見抜けない彼は、閉じた目の向こう側にベッドサイドのゴミ、外れたブラジャーに首筋のキスマークまでを浮かべてしまう。

「フラフラ流され易いよなぁ。黒子に誘われたら付いて行くし、な? 約束あんのにほっぽって青峰に会いに行っちゃうし。いつだった? アレ」

 火神は歪に笑う。そして、遂に残酷な事実を口にした。

「一月の、最終日だ」

 黒子は、その事実だけは知りたくなかった。凍える寒さの中、彼女だけを想い、冷える身体を温めていた当時を思い出す。ソレは世界一幸せな男から、世界一惨めな男に叩き落とされた日だった……。

「嘘、だったんですか? 予定が無かったのも……おじいさんが、無くなったのも……」

「知ってて嘘付いた。悪ィ」

 火神は素直に謝った。しかし、そんな謝罪じゃ誰も救えない。

「……何を信じたら良いんですか? ボクは」

 青峰は、もう黒子を真っ直ぐに見れなくなっていた。彼とは中学時代からの仲だ。ドリブルのように手から離しても、跳ね返り戻ってきてくれる。

 テツは、バスケットボールみてぇだな……。

 手のひらから強く突き放しても、その分また同じ強さでこの手に戻ってくる。だから、青峰はそのボールを床へ置く日がきっと来ると思っていた。……こんな経緯では無い筈なのに。

「ホラ、ちゃんと見とけよ○○。誰にでも優しいって、誰でも傷付ける行為なんだぜ? 覚えとけよ?」

 ○○は目を開いたままに火神の腕に涙を落とした。唇は言葉を紡ぐのを止め、頭は思考を停止していた。目の前で机に突っ伏した黒子の頭が左右に揺れる。涙で視界がぼやけても、手は動かない。火神に支えられていなければ、直立すら出来なかった。

 彼女は、過去の軽率な行動を清算する時が来たようだ。


 ………………………


 タイムリミットが近付いた黒子と火神は、決勝戦の為に部屋を後にした。火神から手を離された○○は、その場にへたり込んでしまう。黒子は一瞬彼女に手を差し伸べようとしたが、その役割が自分じゃ無い事に気付き、踵を返してドアを閉めた。

 密室に二人だけになった青峰と○○の間に、無言の時間が流れた。

 火神の言動は許されるモノでは無い。彼のパーティーは、単純に全員を傷付けるストレートなモノだった。だが、裏を返せばソレは事実だ。事実だからこそ、直球が胸を砕く。

 永久に自分を愛してくれると感じた彼女が、ライバルの慰めの言葉と誘いに乗り身体を許す。腐れ縁の友人に好意を寄せられればデートへと身を乗り出す。……初めて会った人間とラブホテルへ足を運び、されるがままに処女を捨てる。

 最後に自分と彼女の始まりを思い出した青峰は、目元を手のひらで覆い白い壁へと凭れ、ズルズルと座り込んだ。

 優しくされれば、誰でも良いんじゃねぇか……。

 男性経験も恋愛経験も乏しい相手は、そうやって慣れない事に軽率な行動を取ってしまう。ナンパされたらホイホイ付いていくのだろう。言いくるめられ身体を開く。恋人への裏切り行為だと知っていても、断る方法も知らず『青峰の為だけに存在する』と言ってくれた穴を貫かれるのだ。

 だからこそ怖かった。『アメリカに発つ』と告げた瞬間に自分に向けられた愛情全てが他所に行きそうだったから。


『私もう、青峰君の番号消したから……青峰君も必要無いなら消していいよ?』


 あの夜に初めて見せられた○○の強くて、ドライな一面。すがる事さえ無く、相手の為に潔く身を引く。……それが今どんなに残酷な行為だったか、座り込んで泣いている彼女は知らない。

 いつか夢が叶って彼女の元に戻った時、全てが遅過ぎる事だってあるだろう。知らない男性の遺伝子を胎内に迎え、愛しそうに微笑む目の前の女を想像してしまう。目元を覆った手に力が入った。

「――帰るぞ、ウチに」

 青峰は深く息を吐き、掠れた声で腰を上げる。アリーナから漏れた歓声がこの部屋にまで届いた。決勝戦が始まるホイッスルが鳴り、ドアの向こうの楽しそうな世界を羨む。少し前まではアチラ側に居たんだ、オレも……。黄色いエールを背中に背負い、白と黒のチームユニフォームを身に纏い、コートに立っていた。――病状が和らぎつつある膝に力を入れると、痛みが現実を教えてくれた。

 動かない彼女の正面に中腰で座ると、いつものように話し掛ける。何も気にしていないように話し掛けるのは難しい。出来る人間は、きっとアカデミー賞でも取れるに違いない。

「自分ん家か、オレん家か……好きな方選べよ。連れてってやるから……」

 ○○が顔を上げると、そこには同じ目線で青峰が下手くそに笑っていた。彼女は泣いて化粧の崩れた顔を逸らしたが、頬に触れた右手の温もりが再度視線を正面へと向かせた。

「……泣き顔、世界一ブサイクだな。お前」

 青峰は、涙で潤んだ相手の目下を親指で拭いてやる。こんな時にまで皮肉しか言えない自分は、女心も知らない最低野郎だと思った。女性が喜ぶ台詞も知らない彼は、ドラマのように泣き止ませる程に気の利いた言葉も言ってやれない。

「オレ以外の男が見たら引くぜ? ……だからオレの知らないトコで泣くなよ。分かったな?」

 その命令を聞き、小さい口から嗚咽を漏らした○○、は青峰へとすがり付く。男の脇腹から背中には、華奢な両手が回った。

 抱き締めたら砕けそうだ。でも、砕けてしまったら拾ってやる。そうして新しく出来た相手をまた愛し始めてやるんだ。

 砕くつもりで抱き締めた○○の涙で、スーツの肩口が濡れた。泣き止まない少女の頭を抱え軽く叩くと、背中に回された手が上着を強く掴んでいるのが判る。『シワになるな、スーツこれしかねぇのに……』そんな事を考えながら、小さなミーティング室と云う世界で、アリーナからの声援を背に受けた。


 ―――――――――


「……行かないんですか? 祝賀会」

 優勝した黒子達社会人チームは、これから賞金で飲み屋を彷徨くと言う。キャバクラだのヘルスだの如何わしい意見も飛び交っていた。

 MVPまで貰った【山下大輔】は、曇りひとつ無い笑顔で表彰されていた。そして金メッキを施された安っぽく軽いトロフィーを、嬉しそうに頭上にかざしたのだった。

「……帰るよ。本物の山下はノロで吐いてんだろ?」

 すっかり日が落ちたのに、サングラスを掛けた火神は、バッシュをナップザックへとしまう。エントランスで下履きへ履き替え、賞品のトロフィーで肩を軽く叩いた。

「――では、ボクとご飯食べに行きましょう。騒がしい場所は、苦手なので」

 本当は一人になりたかった火神は、少し考えた後にその提案に乗った。

「副賞お忘れですよ?」

 黒子から差し出された祝儀袋には、MVPの【山下】がチームに置いてきた賞金の一万円が入っていた。エントランスに響く程に大声で笑った火神は祝儀袋を受け取る。

「ちゃっかりしてんな、お前」

 パーカーを羽織りリュックまで背負い、帰る支度を完全に終えていた黒子は火神に催促をする。

「奢って下さい。生牡蠣以外を」

「それと、酒以外だな」

 鼻で笑った火神は、久々にバスケで共闘出来た酒癖の悪い元チームメイトを、遠回しに野次る。

「ここで待ってろよ、黒子。雨がヒデェからな。傘なんか無いだろ、お前」

 そう言って火神は肩叩きに使用していたトロフィーを「ほいっ」と黒子へ放り投げると、雨足強い寒空の中、半袖のままに駐車場まで走り出した。

 数分後、ライト眩しいエルグランドを正面玄関に乗り付けた彼は、ミント系が強い消臭剤の匂いに包まれていた。スプレーボトルを手渡され、汗が沁みたシャツに振れば黒子も同じ匂いに包まれるのだった。


 ………………………


 先程の自分が行った言動を振り返った火神は口を開く。

「悪ィ、黒子。アレじゃお前を傷付けるだけだったな」

 渋滞している国道が進むのを、二人はボンヤリと待っていた。

「隠し事苦手ですからね……キミ」

「あんな事、するつもりじゃなかった」

 ハンドルに額をぶつけた火神は、小さな懺悔を漏らす。それが誰に、何に対する懺悔なのか……。黒子はあえて聞かなかった。

 火神は、全てを後悔していた。二人の友人を騙し、酷い言葉で一人の女性を傷付けたのだ。まるで麻縄のような悔いが、火神の心と身体を締め付ける。

「……慣れろって、言ってんだよ。馬鹿だよな? 真っ直ぐって」

 ハンドルから額を離した火神は、顎を上げ前方をくだらなそうに見る。雰囲気が変わった。どうやら先程ミーティング室でパーティーを主催した"彼"が戻って来たようだ。

「せっかく今まで出ないで居てやったのに……。アホだよなァ、本当に」

 自分自身を乏しめた火神は、顎を下げずに目を細めて前方だけを見ていた。ワイパーが水滴を左から右へ拭う。渋滞した道路の先は少し進んでは、前方の車に赤いライトが付いた。

「……最後に残るのは、どちらですか?」

 この質問は、何故か目の前の"彼"に聞きたかった。前だけを向いた黒子は、隣に居る巨体の持ち主へ尋ねる。

「そうだな。どっちが良い? お前が決めろよ、黒子」

 既に答えが決まっている黒子は黙った。ステレオも付けない車内に、対向車線をすれ違うタイヤ音とエンジンの音だけが響いた。

 黒子の答えは「どっちも」だ。表側の火神がこんなにも眩しく輝いていられるのは、隣に姿を表した裏側の彼が居るからだ。闇が厭な事を全て飲み込むから、火神大我は何事にも正々堂々と立ち向かって行ける。

 きっと、"彼"を一番必要としているのは他ならぬ火神自身だ。それが火神の作り出した"辛い現実からの逃げ道"なのだ。黒子は誰よりも、光の強い元相棒が好きだ。相対的に闇が深くなるのなら、それでも構わない。

「ボクは……火神君そのものが好きです」

 濁された黒子の答えに、さっきからずっと徐行運転を繰り返している"彼"は笑い出す。クツクツと肩を震わせ、静かに笑うとハンドルから両手を離し、頭の後ろに持っていった。アクセルだけを踏み、長い直線道路をゆっくり走らせる。

「喜ぶぜ? アイツ」

 火神はドリンクホルダーに入れたままだったミネラルウォーターを飲んだ。そうして小さく溜め息を付くと呟いた。

「進まねぇな……日曜の夜は」

 それがどちらの彼が発しているのか判らない黒子は、黙って窓の外の暗い世界を眺める。


 ………………………


 結局ステーキハウスで肉の塊を貪った二人は、汗と焼肉の臭いを染み込ませたTシャツで帰路に立った。

「車内のニオイ、相当ヤベェな!」

 ゲラゲラと明るく笑う火神に、黒子は安心した。

 止まない雨はアスファルトに小さな池を作る。黒子の家の前に大型車を停め、ハザードを焚けば、その小さな池に反射して、幻想的な世界を生み出す。

「……今日、ウチ来るか? 今から、二人で映画でも観ようぜ?」

「……疲れているので、遠慮します」

 シートベルトを外した黒子は、彼の誘いを断った。

「ゆっくり休め」

 そう残念そうに呟いた火神は頭を掻く。チラリと運転席を見た助手席の彼は、相手と目が合った。

「次は、帰さねぇ」

 黒子の華奢な太ももに大きな手が乗る。ほんの少し日焼けした健康的な肌に、太い血管が浮く。この自分よりもずっと男らしい手が愛していた彼女を懐柔したのだと思ったら、黒子は火神に対して憎しみさえ持つ。

「……なら、次は無いでしょう」

 それを振り切るように足を動かし助手席から降りた黒子は、止まない雨の中を走り去っていった。

 火神は、行き場の無くなった手でカーステレオを付けた。車載スピーカーからは、白人女性ボーカルがシンセな曲に合わせてご自慢の歌声を振る舞い始める。


 例え世界が終わるとしても、私には関係ない。踊り続ける、その終焉まで。


 本当に最期まで踊り続けられるのなら、きっと自分もそうだ。たとえ上手くステップが踏めなくても、世界が終わるその時まで、全身に汗を光らせ惨めに踊り続けるのだろう。

 そして彼も……。スーツに身を包み、ベンチで激しくキスに興じていた彼も、器用とは言えない振りで懸命に踊り続けるに違いない。そうでなくてはコチラが困る。彼が踊るのを止めた瞬間、自分のステップも止まる気がした。

 ならば共に踊り続けよう。
 やがて訪れる世界の終焉まで――。

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