珍しくスーツを着用した青峰は、広い部屋に通された。入り口向かいの壁は全面がガラス貼りで、ビル街の風景を見下ろせる程に高い。まるで神の視る世界だ――。

 そんな下界に背を向け座っていたのは、最近就任したばかりの新しいチームオーナーだった。外見は若く、歳も四十代前半。オールバックに纏めた黒髪は艶やかで、その下のニヒルな顔立ちは整っている。社長椅子に腰掛け、眠たそうな瞳で嘗めるような視線を向けた。青峰は彼の前に立ち、両手を後ろで組む。

「……青峰大輝。膝を故障、現在治療中か……。復帰は?」

「……四月、ッス」

 その視線から嫌悪を感じた青峰は、質問に対して小さな声で返した。自分の経歴が記された選手データを、ゴミのように扱われているような気がした。

「高く買った選手なのになァ……」

 まるで彼を物のように扱う新オーナーに吐き気すら覚えた。不気味な程にこちらを探る目尻が垂れ下がった大きな瞳は"アイツ"に似ていた。

 ――原澤……。

 ソイツは高校時代の監督だ。心の内まで覗いてくるようなあの目線。嫌いだ、厭だ。

「――それで、何故契約解除を決めた?」

 相手のゆったりとした話し方は、蛇が蠢くようで背筋がゾワゾワする。一言ごとに身を刻んでくるのだ。

「……おと、も……友人が、海外でのチャンスを、オレに"下さりました"」

 敬語が苦手な青峰は、必死に頭を回転させ滅茶苦茶な喋りで質問へと答えた。

「海外での、ねェ……。それでウチを? 勿体無い。もっと考えた方が良いと思うけど……?」

 青峰は背格好が自分の肩までしか無い、ヒョロイ男性に恐怖していた。まるで蛇に睨まれた蛙だ……。彼のような社会的強者が恐いと感じたのは、この世界に入って一年経ってからだった。コイツらは何でもする。どんな手でも遣う。だから、恐い……。

「――いいだろう。解除でも。君が決めた事だ。俺が何を言った所で、君の人生だ……」

 アッサリとした承諾に、青峰は身体の気が抜けて、後ろで組んでいた腕がすっぽ抜けた。……しかし、この厭らしい男がそれで満足する筈がない。

 彼は"恐ろしい提案"を青峰に持ち掛けた。

「但し、幾ばくかの条件を出させて貰おう。不服なら裁判でも何でもしたまえ。俺は構わない」

 キャリアウーマンの風格を漂わせた秘書がサインボードに載せた書類を渡す。渡された書類は、難しい単語が並び、その難解な文書に青峰は目の前のオーナーを睨んだ。そんな睨みにも怯まない社会的強者は、右手のひらを彼に向けて見せる。

「一つ、三年以内に有名なプレイヤーになれ。そうだな、イチローのように名前を聞けば一般人でも判るレベルに……だ」

 オーナーは厭になる醜い声で囁き、親指を折る。

「二つ、その際のCM等各種契約は全て個人で受け、且つ必ず俺を通せ。その際のギャランティーは此方で管理する」

 続いて人差し指を折る。折りながら彼はこう言い放った。

「安心しろ。大々的に報道して貰えるよう、手を回してやる。俺は"金の為"なら何でもやるんだ……」

 その言葉は『協会だろうが恐喝すらしてやる』と云うニュアンスがあり、青峰の背筋の寒さはより強まった。

「三つ、――以上を満たせなかった場合、提示された違約金を支払え」

「……違約、金?」

 青峰は文書から急いでその単語を探し出す。そして、やっと見付けた一文に目を見開いた。

「――七千……万……?」

 明朝体で記されていたその巨額な金額に手が震える。

「この三年で君に掛けた金額だ」

「何だよコレ!! オレこんなに貰ってねぇぞ!!」

 青峰は顔を上げ怒鳴った。心臓の音が耳にまで響く程に鼓動が早くなり、その途方もない金額に全身が震える。

「その位掛かるのだよ、スポーツ選手一人雇うのに」

 オーナーは今度は選手データを愛しそうに撫でながら、眠そうな目を青峰へ向けた。

「払えるかよ! こんな……! こんな大金!!」

「嫌なら今すぐ裁判でも起こしなさい。除籍がズルズル長引いてご友人がくれたチャンスを逃さなきゃいいなぁ……?」

 脅迫のような言葉に、青峰は思わず書類を握り潰した。怒りで頭の裏がガンガンと痛む。

「三年後、君がどっちに転んだとしても、俺には金が入る」

 新しく出された書類には、全く同じ文書が印刷されていた。震える手を必死に抑え、ソレにサインをする。最後に判を押そうとしたら印鑑が手から跳ね、絨毯に転がった。拾おうと屈んだ瞬間、青峰の脳内には『行かなければ良い』と云う選択肢が浮かんだ。

 しかし、印鑑を握り締めその拳に力を込めると、目を瞑り勢い良く書類へ判を押した。そうやって青峰は自身に纏わり付いた先程の情けない選択肢を棄却するのだった。

「せめてもの餞別に、旅立つまで福利厚生は好きに使いなさい。スポーツドクターも付けよう。まぁ、頑張りたまえ」

 青峰は、膝から崩れそうになるのを可能な限り抑止し部屋を後にした。机から一歩も動かなかったオールバックの男は、その不快な視線で選手だった若者を見送った。

 ――七千万円。三年後、NBAの舞台に立てなかった自分にやってくる多額の違約金は、青峰の"全ての希望"を恐怖に叩き落とした。

「……良いんですか? あんな優秀な選手を手離して」

 秘書が書類を片しながら、雇い主である彼に声を掛けた。

「構わないよ? 俺は気が長い人間だ。ああいう人間は追い込まれると弱くなるからなぁ……」

 そう言うと、恐怖に顔を歪めた若造を思い出したオーナーは、肩を震わせ厭らしく笑い始めた。


 ………………………


 アリーナを後にするスーツ姿の彼に、参加していた中学生が声を掛けた。自分のファンだと声高々に告げた少年は、頬にうっすらと縦線が残っていた。……己の力が及ばなかった事に悔し涙を流したのだろう。

 それは、ずっと強者で居た青峰には分からない感情だった。初めて負けた時も、己を責める事は無かった。ただ自分より上に立つ人間が現れたのが嬉しかったのだから……。

「サイン下さい!」

 少年から油性のサインペンを渡される。そして相手は、自分のウィンドブレーカーを引っ張り、空白を指差した。

 ――こんなトコにサイン書くのかよ? 青峰は下手くそに笑った。去年の今頃だったら面倒だと思いながら指された場所にテキトウなサインを書きなぐっただろう。

 今の境遇に立たされた彼は、少年の右手を掴むとウィンドブレーカーの袖を捲り肌に直接サインを書いた。相手から見たら逆さまだ。更にサインペンは肌を上手く滑らずに、随分とみっともないサインになってしまった。

「ホラよ」

 それでもペンを返せば、彼は嬉しそうにソレを眺め、お礼も無く友人達の元へ走って行った。そのサインを見せびらかした少年を取り囲んだ彼等は各々がスマホや携帯を取り出し、撮影会が始まる。そんなはしゃぐ姿に、青峰は鼻を掻き少し笑った。

 三年後の自分を考えたら、カタチに残るサインを避けたくなった。輝かしいステージに立ち、CMでお茶の間を騒がせ、全国に居るバスケットプレイヤーの憧れになれるのなら最高だ。

 だが……逆に、だ。もし立てなかったら。二部リーグで芳しい成績を残せず燻ってしまったら。……いや、それより選考テストに落ちたらどうする?

 あのオーナーの事だ。目玉でも臓器でも何でも売って金を作らされる……。最期は死んだ方がマシだと嘆く事も許されず、始末させられる気がした。

 映画の脚本家も真っ青になるような発想に、吐き気が込み上げた。苦しむのが自分だけなら良い。それが家族、知人、そして最愛の人間にまで及んだら……。足元からズブズブと妄想に囚われ始める。

 青峰はそんなネガティブな頭を入れ替えようと、無意識に"彼女"を探し出していた。


 ………………………


 ○○は溜め息を付いて外のベンチに腰掛けていた。前方に広がる広いサッカーコートは先程までの雨でうっすら濡れている。でも、このベンチだけは有り難い事に屋根が付いている。曇った空は晴れ、日差しが戻っていた。反射したグラウンド端の芝は、キラキラと輝き綺麗だ。

 青峰と別れ、弟のチームを探したが、案の定初戦で敗退していた。慰めようとしたら「良いよ別に、これから焼き肉食いに行くから」とあっけらかんに言い放ち、彼はチームメイトと何処かへ観戦に行ってしまった。

 する事が無くなった彼女は、こうして木製の多少は飾りっ気のあるベンチに座りペットボトルを弄くり回している。

 そんな何処にでも居る普通の少女を、遠くから見付けたある人物が「おぉーい」と大声で呼んだ。

「……誰かと思えば、何してんだよ! ○○!」

 後ろの渡り廊下から声を掛けられる。聞き覚えのある声に振り向けば、腰元まである壁を楽々と乗り越え、上履きのままこちらへやって来る赤い髪の男。前髪が無様に切り落とされ、彼独特の"眉毛"が目立つ。

「火神君? 久し振り!」

「いや? 今日は訳あって【山下大輔】だ」

 火神は、○○へ変わらない笑顔を見せた。

「間違えたらどうしようかと思ったぜ」

 ベンチを後ろから跨ぎ、少女の隣に腰掛ける。○○はその荒業にビックリしていたが、普通より足が長い火神のスタイルだからこそ出来る事なのだろう。

「前髪、どうしたの?」

「切った。イメチェンだ」

 青峰は火神の前髪を『凄い事』と言っていたが、見慣れてしまえば更に爽やかになり好印象を持てた。逆に、自分はこちらの方が好きかもしれない。

「黒子も居るけど……会いたくはねぇよな?」

 黙る彼女に、火神は言葉を続けた。

「黒子が失恋したって落ち込んでたぜ?」

「……そっか」

「仕方ねぇよ。恋愛なんてゼロサムゲームだ。誰かが笑えば誰かは泣くんだよ」

 ――火神の言うそれは、クリスマス前後に彼女自身がよく経験していた。ゲームの敗者は海の底に沈められたみたいに寒く、苦しく、辛い毎日を過ごさなくてはいけない。今度は自分が黒子にそんな辛い思いをさせていると思うと、少女は胸が痛くなる。

 火神は俯いて寂しそうな彼女の頭を撫で、慰めた。

「せめてお前の口から伝えてやれよ?」

 その優しさに○○が泣きそうになると、火神は泣かすつもりないのに……と眉を上げる。

「お前の付き添い誰だか当ててやる。……似合いもしねぇスーツ着てるガン黒な男だろ?」

 ギクリとした彼女に火神こと"山下大輔"は、肩を震わせ笑い出した。そして肩を震わせたままチラリと後方に視線を流し、親指で左後ろを指す。

「あのスーツの男はボディーガードか?」

 火神が指を示した向こうに視線をずらせば、青峰が頬杖を付きこちらを見ていた。その機嫌が悪そうな姿に罪悪感が生まれる。火神は、彼女に顔を近付けると耳元で囁いた。

「アレならオレの方がまだマシだろ?」

 男はそうニヤリと笑うと、最後の悪戯に○○の手からペットボトルを奪う。蓋を開け勝手に飲んだ"僅かに蜜柑の味がする透明な液体"は、火神の喉を潤した。

「じゃあな」

 ペットボトルを返しもせず、赤毛の男はまた渡り廊下へと歩き出す。……青峰とは反対側へ。

 火神が背中を見せると同時に青峰も器用に壁を飛び越え、スリッパのままこちらへ向かってくる。

「……楽しそうだな」

 第一声が酷く不機嫌で、○○は恐縮した。

「モテモテだ、オレの彼女は」

 明らかに怒った口調で嫌味を言われる。何を言えば良いかも分からない彼女は無言を貫くが、反ってそれが青峰の神経を逆撫でした。

「……火神の方がお似合いなんじゃねぇの?」

 ――何を言っているんだ、オレは。青峰の内側では、そうやって頭を抱えている自分が居た。ベンチに腰を掛け、ずり下がるように座ると、隣に居る女が居心地悪そうにする。火神と話していた彼女は、心なしか自分と居るよりも楽しそうに見えた。火神が自分を指差した時の彼女の表情が、幽霊や化物を見る類いの顔でモヤモヤする。

「……キスしろよ、ココで」

 醜い嫉妬から逃れたい彼は、隣に座る恥ずかしがり屋の彼女にこう告げた。きっと……いや確実に『無理、出来ない、恥ずかしい』――こう言うに違いない。後ろには絶えず人が通り、しかも相手は有名なバスケット選手だ。こんな場所でキスなんて出来る筈がない。それならば『所詮その程度なんだろ』と言い残し、この場を去る事が出来る。あとは家に帰って頭を冷やせば良い。全てを忘れに睡眠薬でも飲んで、眠りの世界にでも逃げよう。

 ――だから青峰は驚いた……。ボーッとしていた自分の唇に、相手の唇がくっ付いた事へ目を丸くする。しかもご丁寧に彼女は舌まで入れてきた。申し訳なさそうに入り口で固まったままの彼女の舌へ、誘うように自分の舌を絡める。後頭部をボールのように掴むと、深いキスを始めた。

 後ろには誰かが居るかもしれない。先程サインした少年、黒子テツヤ……誰が居てもおかしくは無い。カメラマンが熱愛現場をスクープするかもしれない。

 ――でも、もう何でも良かった。今はただ自分の胸元を掴み、羞恥に耐える彼女の口内を犯したかった。この行為は他人から見たら醜いだろう。只のバカップルと罵られるかもしれない……。

 構わない、それで良いんだ。だってオレは、自分の将来さえ見えない【只の馬鹿】だからだ……。

「機嫌、良くなった?」

 唇を離せば顔を覗き込まれた。○○は眉を下げ、不安そうな視線を投げる。

「まだだな、ココでエッチしないと駄目みたいだ」

 余裕が出来た青峰は、耳元でそんな破廉恥な冗談を言う。

「人前でなんか、二度としない……」

 未だ胸元から動かず耳まで赤くし、俯きながらと呟いた彼女の顎を右手で上げた青峰は、唇を再び貪った。

 ――そのベンチで突如始まった熱愛シーンに息を飲んだ参加者達は、全員その場からそそくさと立ち去った。ただ一人……それを端の方で眺める【山下大輔】を残して。

 またオレは青峰に負けたのか……。

 胸がチリッと痛んだ彼は、怒りの表情を隠しもせずにアリーナへと歩き出した。