季節は春に近付く。3月も半分を過ぎ、オリンピックも話題から薄れていく今日はコートも必要無い程に暖かい。春独特の清々しい香りに胸が一杯になる昼下がり、彼女は愛しい相手から呼び出された。春休みになり、無事進級出来る○○は、久し振りに会える事に浮き足立つ。

 その日の彼はいつもと雰囲気がまるで違っていた。ビシッとした黒いスーツに身を包み、苦しそうに混色のネクタイを締め、黒く大きな革靴で待ち合わせ場所に姿を現すのだった。

 表情はどこか暗いが、遠くから見ても判る程にアダルトな風貌と雰囲気に胸が揺さぶられる。新しい面を魅せられる度に、ズルいと思う位【青峰大輝】に自分の全てを拐われている気がした。

 手に持っている本屋の紙袋だけがどことなく浮いている。こちらに気付いた青峰は、その場で困ったようにはにかんだ笑顔を見せる。

「……ヤボ用があったんだよ」

 シワひとつ無いスーツを纏った芸能人のような男は、腕を伸ばし○○の頭を撫でた。大きな手でそうされると嬉しい、何故か落ち着く。それと同時にそのフォーマルな格好の相手に身体をまさぐられる妄想をし、身体が疼いた。

「似あわねぇよな? 嫌いなんだよ、スーツとか」

 珍しく自身の容姿を貶した青峰へ『凄く格好良いよ!』とは言えない恥ずかしがり屋の彼女は、「SPみたい、映画に出られそうだね」とフォローを返した。それを肯定的な意見と受け取った相手は、再度○○の頭を撫でると「オレ雇うと高く付くぜ?」と冗談を言ってくれた。

「……まぁ、火神よりはマシだけどな。アイツ背広とか似あわな過ぎだろ」

 そうだったかなぁ……? とクリスマスにディナーへ招待してくれた火神を思い出す。

 火神は逞しい肩周りのお陰でかなり誤魔化せてはいるが、ほんの少し撫で肩で、背中が狭い所があった。その為、体格に合ったスーツを着てもどこか違和感が生じる。それでも手足が長く、顔付きが派手なお陰で、肩への意識は薄れてくれる。

 ――逆に云えばここまで肩が張っていて、背中が広く怒り肩な青峰は、腕の長さが逸脱した人物になる。外人のような恵まれたそのスタイルに羨ましさすら覚える。勿論、そんな広い背中も長い腕も大好きだと声を大にして言える。……出来れば言いたくは無いが。

「そう言や火神、アイツ前髪が凄い事になってたぜ?」

 青峰は眉の前で手をハサミの形にすると「バッツンだ」と喋り、切る振りをした。

「元気だといいな。何してるのかな?」

 『会いたいな』なんて言ったら確実に向こうが不機嫌になると判っていた○○は、その程度に感想を留めた。そんな彼女の気遣いに全く気付きもしない青峰はスカした態度でテキトウな事を言う。

「さぁな? その辺フラフラしてんじゃねぇの?」


 ………………………


 ――確かに火神大我はその辺をフラフラしていた。白く磨き上げられたエルグランドを都内の総合体育館へ乗り付けると、荷物を肩に背負い、サングラスに黒いTシャツ、白いバスケットパンツと云うラフな格好で入り口へ向かう。足取りが陽気なのは、イヤホンから音楽が流れているからだ。その背が高く日本人離れした体格の男性に、人々は道を避け譲る。

 火神が呼び出した相手は【大アリーナ3】と書かれた門の前に姿を見せた。バスケットボールを両手で抱え、白いTシャツに白いバスケットパンツを履いた彼は、火神の格好を上から下まで眺め、溜め息を付く。高校生から変わらない、両手首に巻いた黒いリストバンドへ懐かしさを感じた火神は、サングラスを掛けたままに口角を上げた。

「……何しに来たんですか? そんないかにもな格好で」

「何って? ……バスケ」

背後のアリーナからはボールが弾む音とシューズの滑り止めが鳴る音、そしてBGMとしてヒップホップが大音量で流れていた。今日はこれから、この体育館でフリーエントリーの区営大会が行われる。学生から社会人、セミプロチームが一同に介して優勝を狙う。

「手伝ってやるよ。お前のチーム」

 ニヤリとサングラスをずらしながら火神は悪戯っ子に笑う。

「……暇なら『素直に構ってくれ』って、そう言って下さいよ」

「構ってくれ」

 嫌味を言葉のまま捉えてしまった相手に、黒子は頭を掻き再度溜め息を付く。

「参加は事前エントリー制なんです。諦めて下さい」

「構ってくれ!」

 子供のようなそのごり押しに「ハイハイ」とテキトウに返事を返した黒子は、所属する社会人チームの元へ相談しに姿を消す。見送った火神は、満足そうに満面の笑みを顔に貼り付けた。

 数分後戻ってきた黒子はナンバリングと【山下大輔】と云う名を彼に与える。昨夜からノロウィルスに感染し、現在トイレで呻いている可哀想なチームメイトの名だと言う。

「良い名前だな」

「そうですね、山下さん。ところでその前髪どうしたんですか?」

 黒子から抑揚の無い調子で聞かれた火神は、すっかり忘れていた前髪を右手で隠した。


 ―――――――――


「――お前、G.W.の予定あんの?」

 喫茶店に入った二人は、まだ緩く暖房が付く店内の椅子に向かい合って腰掛けた。

「えっと……無いよ?」

「最終日位にさ、旅行行こうぜ。アッチの方に」

「アッチってどっち?」

 ○○の質問に口頭で答える代わりに、紙袋から一冊の派手な雑誌を取り出した青峰は「コッチ」と言いながら表紙を指差す。【仙台・宮城】と書かれた観光案内の雑誌は、美味しそうな牛タンの写真と、最近優勝を飾ったプロ野球チームの球団ロゴが埋めていた。

「本当に? 楽しみ!」

 口を手で覆い、目を見開いた彼女は全身で歓喜を体現してくれる。青峰は組んだ足の上で雑誌を捲り、思わず口元を緩ませた。

 目の前で浮かれる彼女は知らないだろうが、この男が一ヶ月以上交際が続けたのはこれが初めてでだ。案外楽勝だな……と、彼はほくそ笑む。

 ――だが、これからの課題は付き合いを長く続ける事では無く、"いつ彼女に別れを告げるか"だ。

 あれから何度も○○を呼び出した。言うチャンスはいくらでもあったのに、彼はその度に出掛かった言葉を飲み込んでいた。

『アメリカに行く』

 二秒もあれば告げられるその一文は、男の口から出るのを拒む。……今だって、言おうと思えば言えるのだ。

「――なぁ、○○」

 だから青峰は真っ直ぐに彼女を見た。しかし目があったらすぐ顔を逸らす○○をいつものように鼻で笑えば、やれやれ……と気を取り直してこの後の予定を伺う。

「……この後、何するか決めろよ。すぐホテル行っても良いぜ?最も、オレはツマンネェけどな。そんなデートばっかじゃ」

 まるで自分がセックス目的で彼に会っているみたいな言い方をされた○○は、口を尖らせるが直ぐに顔を元に戻す。

「青峰君、バスケ好きなんだよね?」

「あぁ、まぁな」

 ぼやけた返事をした男に、少女はある提案をした。

「うちの弟さ、高校でバスケやってて……それで今日大会あるって、この近くの総合体育館で」

「お前、弟居たのか?」

 ○○の提案に対し、青峰は検討違いな質問を返した。そう言えば彼女と家族の話をした事が無かった。過去の話は知っているのに、家族に関してはお互いが知らなかったのだ。

「オレは、一人っ子だから兄弟とか、どんなんだか分かんねぇや」

オレンジジュースを飲み干した彼に、○○は「生意気だよ?私のプリンとか勝手に食べるの!」と弟への些細な愚痴を吐いた。そんな"普通過ぎる家族ネタ"に青峰は笑う。

「たまには他人のプレイ観るのも良いかもな。下手な奴からは下手なりに学ぶ事もあるし」

 酷く上から目線で失礼な台詞を吐きながら鼻で笑った青峰は、自分のコップを彼女のコップに重ねる。そして何も言わずソレを返却口に運んだ○○を、微笑ましく見送った。

 ――店を出ると、小雨が降っている。休んでいる時から曇ってきてはいたが、このタイミングで降りだしたらしい。

「バス停まで走るか」

 スーツ姿で肩をすくめた青峰は腕で顔を雨から守ると、先に走り出してしまった。急いで後を追うと、雨は急に激しさを増す。そんな"季節の移り変わりにある気紛れ"に、すっかり濡れてしまった二人はバス停で笑った。


 ―――――――――


 バスが会場前で停まった時、雨は止んでいたものの依然として曇り空が広がっていた。

「あの……私、弟の応援するから……ココで」

 モジモジと別行動をお願いする彼女に、青峰は問う。

「何でだよ?」

「……黒子君も、出てるかもしれないから」

 言いたい事は伝わった。そりゃあの黒子テツヤだって、失恋した彼女が自分の友人と一緒に試合を観戦していたら面白くも無いだろう。青峰の内部で何で誘ったんだよ……? と疑問は浮かんだが、頭を掻いた男は未だに拭えない罪悪感を思い出し、彼女の提案に乗った。

「電話したら出ろよ?」

「はぁい」

 返事をした彼女を見送ると、普通過ぎる少女は簡単に人混みに紛れてしまった。予想以上の人間の数に青峰は溜め息を付き、携帯を取り出す。


 ………………………


「珍しい格好ですね、ソレ」

 電話で青峰にも呼び出された黒子は、彼が自分の誕生日にした仕打ちも知らずに「お久し振りですね」と変わらぬ態度で会いに来てくれた。現在彼等は、コート内に居た。控え選手が座るパイプ椅子の後ろで、談笑をしている。

 初戦を終えた二人は大差で勝利を飾っていた。勿論MVPはプロ選手の火神だ。『プロが居たら勝てる訳無いだろ!』と開始前、向こうの主将に文句まで言われていた。

「……あぁ、オーナーに会ってきた。ちょっとな」

 壁に凭れた青峰は、つい数時間前の出来事を思い出して顔を曇らせた。今日は午前中にチームの契約解除へ出向いていた。忘れていた記憶がジワジワと戻り、組んでいた腕を外して拳を握った。

「……青峰、オレ"すぐに行け"って言ったよな? 何でこんな遅ェんだ?」

 シューズの紐を結び直すのにしゃがんでいた火神が、厳しい口調で彼に問い掛ける。青峰は屈んだ相手からの質問に答えられず俯いた。立ち上がった火神は、尚も厳しく言葉をぶつけ続ける。

「そうやって嫌な事を後に後に回すんじゃねぇよ。お前の悪い癖だ、出発前に直せ。じゃないと連れてかねぇぞ?」

「あぁ、悪かった……」

 俯き黙ったままに説教される青峰に、黒子は目を丸くする。自分が知らない間にこんな主従関係が出来ていた事にも、青峰が文句も言わずに素直に反省している事にも驚き、思わず腕を捻った――火神の腕を。

「痛ってェ!」

 跳びはねた赤毛が眩しい相棒を見ると、どうやら夢では無いようだ。

 彼等を取り巻いている参加者は、ギャラリーの一部へと姿を変えていた。

 ――青峰大輝だ……アレが――

 キセキの世代から今まで"絶対的エース"で居た彼を、周りの選手達は遠目で覗く。最近はめっきり魅せなくなってしまったが、フォームすら無意味なモノにするその独特のプレイスタイルはNBAに勝るとも言われて来た選手が、目の前に居るのだ。

『――対戦出来ないかなぁ?』

 強者はそう願う。

『……プレイを間近で見たい』

 弱者もそう希望する。

 そんな周囲の期待に気付いたのか、火神はスーツの彼に提案を持ち掛ける。

「そうだ! 青峰、お前も誰かに名前借りて参加しろよ! 優勝賞金十万円だぜ?」

 火神は笑顔になると、まだ手にもしていない賞金に喜び「何すっかなぁ、黒子ォ」と相談を始める。――相変わらずに全力で楽しめる男だ……。青峰はそんな火神を羨ましく思えた。

 十万円なんて、彼等プロからしたら一試合程度の報酬だ。勝っても負けても自動的に口座に振り込まれる。そんな微量な金額に本気になれるのが羨ましい。

 ……いや、違う。火神を本気にさせているのは『勝利』への欲求のみだ。火神はソレさえあればこんなにも楽しそうにバスケが出来る。午前中に降りかかった"恐ろしい契約"を思い出して、青峰は一瞬だけ顔が白くなった。

「――まだ膝が動きたくねぇってさ」

 そう言って誘いを断ると、パンツスーツに手を突っ込み、その場を後にする。――彼が履いていたスリッパの音と木製の床を踏む感触は軽く、心許なかった。

 ――何だ、帰っちゃったよ。

 彼の参加へ期待を膨らませていたギャラリー達は、青峰大輝の背中をアリーナから見送ると、解散し参加者へと戻っていった。