青峰と○○がホテルを出ると、辺りはすっかり暗くなり、人通りが多くなっていた。ジロジロと通行人がこちらへ視線を流してくる。恐らく人々は、目立つ程に長身で色黒な青峰に興味があるのだろう。しかし、自分まで詮索されているような○○は、気まずさに顔を困らせた。

 しかもスカートの前を押さえて歩かないと、隣をすました顔して歩く青峰が捲ってくるかもしれないのだ。後ろを捲られたらアウトだが、その時はコートが半分までは隠してくれるだろう。

「なぁ……、オシッコしたいのか?」

 もじもじと太股上部を押さえ歩く彼女に、怪訝そうな顔をした青峰が問い掛ける。そのデリカシーの無い発想に○○の顔が赤らんだ。

 そう言えば火神もまた、恥ずかしがる彼女にトイレの場所を教えていた。発想がワイルドな二人からしたら、乙女心は実に奇怪なモノなのだろう。

 やがて路地を抜け、二人は繁華街をブラブラと歩いた。付き合ったとしても、歩き方は変わらない。ポケットに手を入れて少しだけ猫背の青峰の後ろを、○○が数歩離れて歩く。しかし、その日はいつもと違っていた。後ろを振り向いた青峰は、彼女にこう告げるのだった。

「……横歩けよ、彼女なんだから」

 やがてCDショップの前で青峰は立ち止まった。店外にまで流している音楽、アーティストが新アルバムの宣伝をしていた。店の前でウーンウンと首を捻った青峰は、指を鳴らすと口角を上げニヤリとする。

「コレ、お前の携帯掛けると流れる曲だろ?」

 待ち受け中音楽が流れるその設定すら忘れていた○○は、顔を赤くした。

「最初は『お嬢サマがこんなん聴くのかよ』って、相手を間違えたのかと思ったぜ?」

「中学から、好きなの」

「オレも、小さい頃からずっと好きな芸能人居る」

 彼が示した指の先には巨大な看板が掛かっている。そこには昔グラビアを賑やかし、今はタレントへ移行した元グラビアアイドルが携帯会社の宣伝の為に微笑んでいた。

「……堀北マイちゃん?」

 清楚な顔して凶暴なスタイルを持つ彼女を『かなり前から好きだった』と言う青峰は、自分の薄い唇を指差しこう告げる。

「――口元だけ似てんだよ。お前」

 最初は美少女に似てると言われて喜んだ○○だったが、しばらくしてある事実に気付く。

「だから口が好きなんだ!」

 ショックを受け思わず大きな声を出してしまう○○だが、ソレは繁華街の雑踏に紛れた。同時に青峰の口から笑い声が漏れる。不満そうに口を閉じた彼女は、ゲラゲラ笑う青峰から目線を逸らす。

 そうやって○○が不満を表に出せば、青峰は近付いて人混みの中でもキスをねだって来た。少女が慌てて相手の顔面に手を伸ばし阻止をすると、彼は細く整った眉を潜める。

「次はどうすんだ? お嬢サマ?」

「……もう帰りますわ? 門限がありますので」

 質問へツンとしたお嬢様口調で返せば、青峰は肩を震わせ笑い出す。○○はいつもその堪えたような笑い方に、大人の男性らしさを見ていた。

「たまには下々に居る人間の生活も体験して行けよ」

 フランクに冗談を告げた青峰は、○○の肩に手を回すと、近くにあった居酒屋へと誘い出した。


 ……………………


 ――早朝06:48。

 寝ている青峰の携帯に一通のメールが入った。右腕を枕に彼女が寝ているので、上手く身動きが取れずに無理矢理携帯を開く。内容を確認した彼は、寝惚け眼で携帯を閉じて横にいる彼女を抱き締めた。パンツ一丁の青峰の胸を、ロンTだけを着せている少女の髪がゆるりと撫でた。

 男は寝返りを打とうとする相手を更に抱え込み、再度眠りの世界に入ろうとするのだが、今度は腕の中の相手が目を覚ました。

「よぉ……」

 あれから一晩を共にした彼女は、「おはよう」の後に「珍しいね。先に起きてるなんて」と微笑む。

「火神が、リハビリ前に来いってさ」

 ○○が青峰の掠れた低い声を聞きながら時計を覗けば、七時前だった。どこで寝ても・何時に寝ても、普段通りに起きてしまうのは……身体にその習慣が身に付いている証拠だ。

「……今日も言えよ、好きなトコ」

 まだ寝惚けている彼女に、青峰が今日の分の約束事をねだる。彼は"愛を確かめる行為"に対して、こうして無自覚でいるから質が悪い。無自覚な分だけ満たされず、更に更にとねだり続ける事になるのだ。

「メールじゃ駄目なの? 恥ずかしいんだよ?ソレ」

「メール見んの面倒くせぇ」

 毎日ウンザリする程に水泳で鍛えていると云う彼は、自分の枕元の携帯を掴むと、そのまま床に無造作に脱ぎ捨てられているコートの上へ投げた。

「……じゃあ、青峰君の匂いが好き。部屋も布団の中も。……香水は、ちょっとオジサン臭いけど、でも好きだよ?」

「はぁぁ?」

 最後にちょっとした文句を言われた青峰は、眉を潜め不満そうな声を漏らした。だがそれでも口元は笑みが絶えず、嬉しそうだった。

「じゃあ今度から風呂に入らないで会ってやる」

「あのシャンプーの匂いも好きだよ?」

 男は肩で笑うと、照れくさそうにこう呟いた。

「何でも好きなんじゃねぇか」

 本日の告白ノルマを終え、胸元で耳まで赤くした○○にキスしようとする青峰だったが、途中で止めると頭をポンポン叩きながら歯磨きを提案した。

「歯ァ磨くか」

 ――きっと並んで歯を磨いたら、青峰からキスをねだられるに違いない。隣に居る彼に顔を向ければ、ミントの香り共に相手の唇が軽く落とされるだろう。

 今日はいい一日になりそうだ。


 ――――――――


「何だよ、朝っぱらから。ドッキリバラシか?」

 火神の自宅玄関に足を入れた青峰は、挨拶代わりに大声で冗談を飛ばす。いつもはドカドカ足音を立て出迎える家主も、今日は何故かソロリソロリと忍んでこちらを出迎えた。その威勢の無い理由は、火神が姿を現してすぐに判明した。

「……それもドッキリか? 火神」

「――あぁ、まぁ……な?」

 広く出した額を右手で隠し、驚く程髪形が変わった相手を、青峰はニヤケ顔で見る。眉まであった火神の前髪は、完全に根元で切り落とされている。襟足以外全てが以前より短髪になった赤髪の男は、明らかに不自然な前髪を指差して眉を八の字に下げた。

「切り過ぎだよな……コレェ!」

「いや?似合うぜ?男前だ」

 青峰はお世辞を言いながらスニーカーを脱ぐ。そして彼の横を通る際にわざと吹き出せば、火神はまた右手で額を隠し泣きそうな顔でブツクサ言い出した。

「店で切って貰えば良かったなァ……」

「赤司か? テメェは」

 懐かしい人物名を持ち出した青峰は、意地悪に笑った。

 ――どうやら火神は洗面鏡で自分と向き合いながら切ったらしい。戸が開き、明かりが付いている洗面台には赤い毛が散らばっていた。

 どんな心境で切ったのか……。そんなのは聞かなくても嫌と言う程に分かる。彼はどんなカタチにしても棄てたかったのだ……。未だに心に渦巻く嫉妬と未練と後悔を……――。額を隠した彼は、ソレを前髪に乗せて切り落とした。それは失恋した女性と似た行為だ。頭脳を持った人間らしい、弱い自分に打ち勝つ方法。

「……親は説得したか?」

「いや、まだだ。冗談だと思ってたからな……」

 目の前に座り、グレーのヘッドバンドで上手く額を隠した火神は「冗談じゃねぇよ」と溜め息混じりに言葉を吐く。

「膝はどうだ? 青峰、お前ちゃんとリハビリ行ってんのか?」

「四月からは復帰出来るってよ」

 青峰は膝に手を置き、力を込め床を踏み締めた。未だにガクッとする痛みはあるが、それも和らいで来ている。そんな青峰へ、火神は命令に似た言葉を掛け始めた。

「……リーグの契約を打ち切って来い。なるべく早く。出来れば明日だ」

「……打ち切って来い、って。……それじゃあ」

 青峰は不服を申し立てた。――こんな状態のこの時期に契約解除を申し立てれば、チームは拒否するに決まっている。下手したら裁判に縺れる可能性だってある。仮に交渉成立したとしても、この身勝手な行動にペナルティが課され、日本で選手としてプレイは出来ないだろう……。

「オレは昨日解除してきた。多分、もうどのチームもオレを雇わない」

「……そうか」

「そうだ。そういう事だよ、青峰。逃げ道は無ェんだ」

 火神は腕を組み、顎を上げ喋り出す。どんな状況下に居ても、彼のこの堂々とした態度は昔から変わらない。フットワークだって、昔から恐ろしく軽い男だ。火神大我は全身全霊で"猪突猛進"を体現しているのだ。

「仮にお前がNBAの舞台に立てたとしても、田臥や紫原みたく大々的には報道して貰えないかもな。……挫折して戻っても、オレらに居場所は無ェ。それ位に"日本の協会を敵に回す行為"だからだ。それでも……今も強い奴等と戦いたいなら来いよ。一緒に」

 相手の言葉ひとつひとつが青峰大輝を貫いた。そして、葛藤と云う迷いへと変わる。拳を握り、目を見開き考えを纏めようとしても、悲惨なシミュレーションが邪魔をするのだ。

 ――昔の自分なら、「行く」と速答したに違いない。何時からオレは弱くなったんだろう……。

 『いつまでも過去の栄光にすがってんじゃねぇよ』

 記者に言われた辛辣な野次を、いつの間にか昔の自分が飛ばしていた。

「チヤホヤされるだけで満足するなら、日本に残れ。テストはオレが受ける」

 生半可な気持ちで挑めば、後にも先にも通路は閉ざされ、最後は何も出来ない自分だけが残る。現状維持で日本の協会に身を置いていれば、一定の需要だけは得られる。ある日突然変異でチャンスが降って来るかもしれない。……一生来ないかもしれない。

 数十秒間俯き黙っていた褐色肌の男は、鼻で笑うと顔を上げる。彼は、悩みの全てを吹っ切ったらしい。

「……行くよ、最高だ」

 青峰は、深い眼差しを火神へと向ける。その輝きは、火神が彼と初めて本気を出し合って戦った時に見た――傲慢で、自信家で、超越した才能を惜しみ無く誇示する……本気の眼差しだった。全てを喰らい尽くそうとする、野獣的な瞳は火神を刺す。

 ――戻って来る。

背筋がゾワゾワした火神は、また彼に惹き込まれたのだ。高校時代初めて心をバキバキに折られた時の、あの圧倒的な強者のオーラが……今の青峰にも少しだけ見えた。

「そうこなくちゃ! オレもつまんねぇ!!」

 火神は嬉しそうにテーブルを叩くと、青峰にその手を差し出す。

「握手だ、しばらくはオレの言う事聞いて貰うからな?」

「あぁ、上等だ」

 二人はそうやって睨み合いながら、強く握手を交わした。片方が強く握ると、もう片方は更に強く握り返す。似たような下手な笑顔しか出来ない二人は、下手な笑顔で互いに感謝をした。

「……早速だけど、下のカフェで何か食べるモンとホットカフェオレ買って来いよ」

 火神の容赦無い使いっぱしりに対して、青峰は繋いだ手を強く叩き「馬ァ鹿」と野次るのだった。


 ……………………


 ――部屋を出た青峰は、その身なりと足でリハビリセンター代わりのジムへ向かう事にした。昨日より足取りは軽い。寒さも少しだけ和らぎ、日差しが清々しい。街頭のテレビでは、来週からはまた寒くなると、ニュースキャスターが伝えた。どうだって良い。オレは、もう春の気分なんだ。

 世間はオリンピックで騒がしい。青峰は、いつか自分もニュースを賑やかす存在になると思っていた。そんな夢見る過去の自分を、皮肉そうに笑う。

 出国は五月八日。G.W.は日本に居られる最後の期間だ。汗にまみれ色々な場所に行こう――。

 あぁ、遠征で何度かは行ったが、東北へ観光に行くのも良いかもしれない。最後にあの凄惨な天災の爪痕でも見に行こう。思い出作りに彼女を連れて――。

 予定を大雑把に決めた青峰は、携帯を取り出すと、アドレス帳から宮城県の大学へと進んだ【桜井良】の名前を探り出し、電話を掛けた。