火神大我が訪れたその賃貸アパートは、駅から徒歩五分の2DK。出迎えてくれた家主は、当時より少し伸びた栗色の髪を後ろでひとつに縛っていた。足元に白毛と黒毛が混色し、特長的な目元を持つ小型犬がパタパタと尻尾を振っている。

 スーツ姿の火神大我は、毎日散歩までさせられていたその犬に少したじろいだが、手土産を渡しながらお祝いを口にした。

「結婚おめでとう、です。カントク」

「やだ、まだその変な敬語なの?」

「いや、その……ハイ」

 ケラケラと笑う相田の陽気さに、火神は髪を掻いておぼつかない返事をした。

 部屋に通された来訪者は、片付いているダイニングへ足を運んだ。上着を脱ぎ椅子に腰掛ければ、テツヤ二号が膝に乗って腹を見せて来た。火神が慣れた手付きで白い腹部を擽ってやると、その犬は気持ち良さそうに身動きをする。

「日向サンともう結婚スか。いや、予想はしてたけど……早くねぇっスか?」

「うん。……まぁ、日向く……順平がさ、転勤するって言うからね」

 モゴモゴと名前を言い直した彼女の姿が幸せそうで、火神もつられて顔が緩んだ。高校卒業後、日向は全国展開し業界最大手と言われる小売業へと就職した。転勤と共に、ひとつ昇格するとの事だ。

「……それと、出来ちゃったから。勿論望んで、だけどさ……タイミングが良かったの」

 そう恥ずかしくも、申し訳なさそうに下腹部を撫でた相田は目線を伏せた。

 火神は二号を撫でていた手を止める。

 ――妊娠か……。

 相手も居ない火神にとっては夢物語だ。しかし、やがて何時かは火神自身も父親になる。いや……ならないのかもしれない。とにかく今は、目の前の小さな女性が"母親"になると実感が湧かずに、彼は気持ち良さそうな二号を眺め続けた。

 ――ふと、青峰を殴った日を思い出す。もし日向が、彼女が望まないのに避妊を拒否したなら、火神は先輩をも殴ったのだろうか……? テーブルの向こうで『幸せです』と言いたげな相田を見ていると、安心して怒りっぽいその先輩に預けられる。膝上の犬が体勢を変え、今度は丸くなった。どうやら二号は、火神が席を立つまでココに身を置くらしい。未だに犬は苦手な火神だが、コイツだけは平気だった。

「結婚式は、出ますです。一応暇なんで」

 二人の挙式は四月後半の大安吉日。入籍は五月十六日。日向順平の誕生日を予定していた。両家からの招待状を貰った火神は、出席を伝えるついでに渡米する事を話そうと、ココを訪ねた。彼女らが籍を入れる頃、火神は日本へは居ない。

「暇ねぇ……。火神君、足見せてよ。あと身体も。調整必要なら教えてあげる」

 火神は言われたままにカッターシャツを脱ぎ、隣の椅子に掛ける。相田は「肌着も脱げ」と催促した。密室に二人きりと云う状況。警戒すら抱かない彼女にプライドが掠られた火神は、少しだけ腹が立った。パンツスーツの裾を折り、黒い靴下をずり下げ足首を見せる。彼の足元に腰を下ろした相田は、左足を持ち上げ、部位を確認をした。

「足首は大丈夫。しっかり治したのね、安心してプレイに集中しなさい? でも骨折って癖になるから、調子に乗らない事!」

 相田はバシッと故障していた箇所を叩くと、男の上半身へ視線を上げる。立ち上がった彼女と、椅子に座る火神の目線はほぼ同じ高さだった。相田の手が男の胸元を滑り、腹筋を撫でて離れた。

「筋肉が落ちてる。瞬発力が相当下がってる筈だから、鍛え直すならソレ中心のトレーニングを薦めるわ」

 ……こうして彼女は夫となる男性の身体を撫ぜているのだろう。目線の先にある畳張りの寝室。今は片付けてあるが、夜になれば布団が敷かれ、その上で性行為が始まる。

 ――まさか、カントクが妊娠なんて……。

 何時からだろうか。尊い生命の誕生が、淫靡で生々しい行為の先にあるのだと汚れた目で見るようになったのは。

 ――この人を抱いたら、オレ……日向サンに殺されんのかな?

 火神は、内側に破壊衝動に似た欲情を感じた。……幸せなのだろう。人並みだが、温かい家庭を持てるのだ。二人は、愛し愛される嬉しさを知っている。

 自分と彼等に見えている世界は、同じに思えてまるで違うに違いない。それなら、同じ目線までに叩き落としたくなった。この下衆な行為に対する贖罪も、金で片付くならそれで良い。

「……嫌にならないんスか? コイツ居ると……。いや、なんか黒子のヤツに見られてるような気がしたりとか」

 火神は友人に似た眼差しを持つペットの頭を撫でながら、相田に質問をした。

「二号が? 何を見るの?」

 そうして予想通りの言葉を返した彼女を、不幸な世界へと誘う。

「――セックスとか」

 その単語を口にした火神の雰囲気に、相田の肩が小さく跳ねた。自分を刺す相手の瞳は、さっきとはまるで違っている。サラリとこちらへ流された赤い瞳は、色香さえ漂っていた。

 火神は相田の後頭部へ右手を回すと、彼女の髪を纏めているゴムバンドに指先を伸ばし、優しくほどく。はらりと落ちた相手の髪は、肩まで伸びていた。

「火神君……」

 名を呼ぶ口を塞ごうと、火神は顔を傾け近付ける。伏せた目線にうっすら映る彼女から、拒否の色を見た。

 突如、ウゥゥ……と膝の上で犬が唸った。火神が視線を膝に向ければ、歯を剥いたその姿に"過去のトラウマ"が横切る。そして、まるであの友人に咎められている気がした火神は、口付けからの行為を全て中止した。

「……ゴミ、付いてたんだよ」

 相田の肩に乗っていた白く小さな埃を指で摘まみ、相手に見せる。火神はわざとらしくソレを床に捨て、肌着も着用せずにシャツを羽織った。唸っていた犬は、察し良く男の膝から退けた。来訪者は椅子から立ち上がり、パンツスーツに付いた毛を払う。冬毛が生え変わる時期なのだろう。多量に付いたソレは、払っても布地に纏わり付く。

「キャプテンに、伝えてくれ、っス。オレ、5月にアメリカに戻るって。……これからは、アッチで生活するから」

 火神は上着を羽織ると、また似合わないスーツ姿になる。その格好をした後輩は、相田からしたら自分なんかよりずっと大人に見えた。背を向けていた火神は、振り返ろうとして途中で動きを止める。

「……今日、チームと契約を解除して来たんだよ……っス。引き止められもしねぇ。オレ、4月から仕事が無いです」

 相田はそのまま正面を向き、玄関から去った彼に何も声を掛けられずに居た。彼女が初めて見た欲情した後輩の表情は、学生時代何度も目にした虎視眈々とゴールを狙うあの眼差しに、何処と無く似ていた。

 後輩と一線を越えなかった事に心から安堵した後、相田に励ましも何も言えなかった後悔と急激な寂しさが彼女を襲う。彼女はそれを払拭しようと、足に擦り寄ってきた二号を抱きかかえた。

 日向の転勤先は青森だ。しばらくは一緒に居られても、出産が近付いた母体は実家に戻る為、旦那の単身赴任が始まる。国内でも途方もない位遠く感じるのに、火神との距離はそれさえ圧倒する程に遠く……果てしないモノに思えた。


 ――――――――


「――お前、明日からオレの好きなトコ毎日送れよ。メールで」

「じゃあ、青峰君も頂戴よ」

 引き続きホテルに居る二人は脱いだ服も着ずに、愛を確かめ合っていた。こうしてずっと、ベッドの上でカップルらしい会話をしている。うつ伏せで枕に顔を埋めた○○は、自身の左腕を枕に寝そべる男の我が儘に、同じような我が儘で返す。

「三日で終わるな。口の形と、唇の柔らかさと、舌の具合」

 右手の指を折り数え、中指で止めた青峰は、相手に肩を揺すられた。

「全部一ヶ所じゃん!」

「じゃあ、もうメールは必要無いな。○○には」

 ○○が文句を言えば、青神は悪戯な笑顔を向ける。そして拗ねた顔をして背を向けた彼女に、一応のフォローを入れた。

「さっき言っただろ? 素直なトコも気に入ってるんだよ」

「壺買ってくれるからね?」

 その返しに青峰はワハハと、声を出して笑った。

「……いや? それだけじゃねぇよ?」

 ○○は男へジットリした目を向けながらも、同時に何かを期待したような顔をしていた。しかし、彼は意地悪な人間だ。彼女の希望なんて、片手で握り潰してしまう。

「絵も買ってくれそうだ」

 少し黙って溜めた青峰は、からかいの言葉を続けた。期待させてからのその仕打ちに、○○は頬を膨らませる。

「絶ッ対買わない! 壺も絵も絶対にいらない!」

 ソッポを向いた○○は、ヘソを曲げたようだ。

「オレも付いてくるけど?」

「そういうの、ズルくない? 抱き合わせ販売って違法だよ?」

 こちらに顔だけを向け、文句を続けようとした彼女の口を軽いキスで塞いだ青峰は、薄い唇を彼女から離してから再度くっ付けた。

「オンナってアウトローな男が好きなんだろ?」

 自信ありげな男の細い眉と目が、彼女を見つめる。○○は、今まで焦がれていたアイドルや俳優とは全くタイプが違うその顔付きに、これが"本当の恋"と呼ぶのだろうと、どうしようもない感情的な事を考えてしまう。

「今日は口頭で許してやる。言えよ、オレの好きなトコ」

 え? と言葉が詰まってモジモジした○○は、再度うつ伏せになると枕に顔を横たえる。

「――口癖が、好きだよ?」

「口癖なんかあんのかよ、オレ」

 ○○がそう呟くと、彼女の発言が興味深いのか、青峰は嬉しそうな表情でこちらを見た。

「いつも『あぁ』って言うよ? 一言目には殆ど付いてる」

「あぁ、そうかもな」

 それを聞いて納得した言葉を口にした青峰は、その台詞にも癖が付いていた事に気付き、ぽかんとした。

 目の前の彼女は、そんな彼氏の姿を笑った。苦笑いを返した青峰は、コロコロと楽しそうに馬鹿にしてくる裸の少女を腕の中へ招待する。肌と肌が触れ、互いが動かした腕と足がシーツを滑る。○○は、裸がこんなにも心地良いモノなのだと初めて知った。

「……好き」

 胸元で欲しい言葉を呟いた女の髪に、男は愛しむように頬擦りをした。でもそんな彼の口から出たのは、何時もの皮肉だった。

「ソレは下心か? 淫乱だからな、お前」

「違うよ!!」

「……じゃあ"愛してる"って言えよ」

 そうやって青峰は、何度も何度も愛を確認する。彼は愛情を見えるカタチで表面に出されないと気が済まない性格だ。子供と何も変わらない。自身はひねくれている癖に、相手には直球の愛を求める。――しかしその確認行為こそが、彼からの"目に見える愛のカタチ"だった。

「……愛して、る」

 ○○は、言葉の途中に台詞をキスで塞がれ、最後の一文字は彼の口の中で消えた。本日何度目かも分からない深い口付けを交わす。肩を抱き体勢を変え、彼女を身体の下に敷いた青峰は、相手の首筋にマーキングを付け始めた。


 ――――――――


「よぉ、黒子」

 大学の駐車場に停まっていた白いエルグランドから、スーツ姿の火神が手を振る。

「乗れよ」

 火神はサングラスをずらし、黒子へそう声を掛ける。

「スーツにサングラスなんて、キミらしいセンスですね。」

 呼び出された黒子は、彼に微妙なお世辞を言いながら助手席側へと回った。

「……カントクと日向さんの家に行ってきた」

「ボクも、招待状には驚きました」

 車を動かし、二人は駐車場を出る。同じ招待状を受けていた黒子も、式には出席すると言う。

「腹に赤ん坊も居るしな」

ウィンカーを出し右折した火神が今日知った事実を話せば、黒子は驚いた顔でこちらを見た。助手席から伸びてきた手に、自分のお腹を撫でられた火神は慌てる。

「馬鹿! オレの腹に、じゃねぇよ!」

 そんな彼のリアクションへ、黒子は珍しく楽しそうに声を上げ笑った。

 正面向いた黒子は、フロントガラスから射し込む夕日が眩しくて、目を細める。……あぁ、火神がサングラスを掛けた理由が判った気がした。

「……そうだ、今から海に行こうぜ? 黒子」

「この時期にですか?」

 火神の急な提案に、助手席に乗った彼は面倒そうな顔をした。こんな時期に海なんて、しかも今から向かえば日はすっかり落ちている筈だ。眺めるのにも、黒い波とずっと先まで続く暗闇しか見えないだろう。しかし、火神はそんなの関係無さそうに冗談を続ける。

「しかもこの服でだぜ?」

 両者とも海に行くにはそぐわない格好をしていたが、黒子は火神の誘いを受ける。

「行きますか。どうぞ?」

 その返事を聞いた火神はニヤリと笑うと、運転している車を首都高へと向けた。