国立医科大学。未来の医療界を担うソコは、学力のトップクラスが集う。言うならば"秀才の寄せ集め"。

 特別学力が高い訳ではない……いやどちらかと言えば勉強が苦手な黄瀬涼太からしたら、他人事の世界だった。それでも、ひとつの箱に詰め込まれている頭脳は、自分よりずっと世間から必要とされている。では、何故彼がそんな場所に足を運んだかと云えば、答えは青峰の為だった。

 設備の整った巨大な施設はどこも広く、白衣の似合わなそうな若者があちらこちらを歩く。そんな中、壁一面を巨大なガラスで覆い柔らかい日差しが照らすラウンジで、難しい顔で学問へ興じ『人事を尽くして天命を待つ』と云う彼を見掛けた。背が高く特徴的な髪の色をしたその人物は、集団の中でよく目立っていた。

「隣、空いてる? ココ良いかな?」

 声を掛けられた彼はテキストから目も離さず、面倒臭そうに返事を返した。

「……お前は何をしているのだよ、黄瀬」

 声だけで判別された黄瀬は口笛を吹く。その後、真剣な顔で知識を詰め込んでいる下睫毛が長い彼に、いつもの口調で答えた。

「会いたい人が居るんスよ」

 久々の再開に、緑間は昔から変わらない眼鏡と顔を上げた。ジロリと黄瀬を睨み、目付きを更に深いモノにした。ハットを脱いだ黄瀬は慌てて「アンタじゃない!」と相手の勘違いを訂正する。そして椅子を引き、眼鏡を上げる男の前に座った。遠くで数名の歓喜の悲鳴が聞こえた。

 ――これだから、人が集う場所に来るのが大好きなんだオレは。

「今日のおは朝占いで、"衝撃の告白を受ける"と言われたのだよ」

 緑間はフンと鼻を鳴らして、今も占いに身を預けている事を仄めかした。黄瀬はそんな占いフリークな彼への"御告げ"を、本当にしてやろうとした。

「あぁ、じゃあこんなのは……?」

 ベージュ色したハットを指に掛け、回しながら黄瀬は笑った。

「……青峰っちが膝壊して、療養中っス。あの人またバスケから逃げてる」

 おかしそうにクスクス笑う黄瀬へ厳しい目線を投げた緑間は、テキストへ意識を向けながら話し返す。

「知っている、そんなの。心配してメールしてやったのに返事も寄越さん。失礼な奴なのだよ」

 緑間の握るシャープペンシルに力が入った。彼も、件の試合は夜遅くに録画で観た。素直じゃ無い緑間は、わざわざ録画したモノを「間違って予約してしまった」と言い訳をしながら観たのだ。――それを後日の話題で出したら、隣に居た高尾に笑われた。

「……しかも桃っちにもフラれたしね。プライド、ズタズタ」

 緑間はその発言には驚いて、眼鏡の奥で目を丸くした。彼は、ずっと一緒に居る二人を見てきた。あの幼馴染みの仲を裂くような出来事があったのが信じられないようだ。そして、一人納得したように話す。

「……だからか。桃井に会いに来たのか? 友情ごっこは疲れるな。オレには無理なのだよ」

 勘が良い緑間は、黄瀬の目的を"友情ごっこ"と切って捨てた。黄瀬は、それが彼の羨みから出た行動であるとすぐに気付き、目尻を下げ愉快そうに細める。

「さぁね。そうかもしれないし、違うかもしれないっスよ?」

 黄瀬は軽快に立ち上がると、ハットを被り角度を調整する。

「決まってる?」

「知るか」

 ポージングを決めながら緑間に聞くと、彼は面倒臭そうに突き放した。

 黄瀬が席から離れ背を向けると、名残惜しそうに声を投げられた。

「待つのだよ! 黄瀬!」

 自分のファンへと手を振っている彼に構わず、緑間は言葉を続けた。

「お前は後悔していないか? ……バスケから離れた事を」

 半分だけ振り返った黄瀬は、流した目線で「アンタは……?」と逆に問い質す。

「オレは天命に、従っただけなのだよ……」

 黄瀬へ視線も合わせず頬杖を付き窓の外を眺めた緑間は、医療の道へ進んだ事を酷く後悔しているようにも見えた。


 ―――――――――


「用事って何だよ? 忙しいんだオレは」

 二月も中頃に差し掛かっていた十九時過ぎ。

 呼び出された青峰は、待ち合わせの店内に姿を現した。寒さは依然として続き、記録的な豪雪に悩まされた世間は、それでも何事も無く回り続けるのだ。きっと隕石が堕ちる寸前まで当たり前の日常が続くのだろう。青峰は、日本に生まれた事を少し悔やんだ。

「無駄に筋トレしてるだけだろ?」

呼び出した火神はニヤリと笑うと、いつぞや自分が言われた台詞を彼に返した。意図が判った青峰も口角を上げると「リハビリって言えよ?」とわざとらしく返す。

 火神に呼び出されたのはチェーンの回転寿司店。自卓は皿に埋もれてるんじゃないかと心配したが、机の上は電子機器がひとつだけ。火神は何にも手を付けず、そのスマートフォンを見つめ続けていたのだ。

「死ぬのか? お前」

 食欲が無い相手を心配した青峰。心配にしては言葉が不謹慎だが、普段から彼の食欲旺盛っぷりを見ている人間からは納得の出来るチョイスだった。

「……青峰、お前さNBAのデベロップメント・リーグって……知ってるか?」

「あぁ、田臥がそこからNBA出ただろ」

 青峰は流れてくるレーンから皿を取り、日本人初の挑戦者の名を口にした。その舌を噛みそうなリーグに関しては、その彼が在籍していたという知識しか無い。簡単に言えばNBA傘下の二軍プロリーグだ。醤油を小皿に流すと、青峰は先に座っていた彼より早くに食べ始めた。

 両手で顔を拭った火神は、一回だけ大きな溜め息を付くと、先程恩師であるアレックスから貰った電話の内容を静かに告げる。

「……ドラフト会議の選考に捻り込んで貰えた。テストに受かればリーグと契約だ」

 青峰は口に入れようとした軍艦巻きを皿に戻した。食欲が波のように引いていく。こうして自分が挫けている間に、彼もまた進み出していたのだ。

 火神は、何だかんだで昔から幸運な男だ。初めて負けた時から、きっと自分を超える存在になるだろうと期待していた。叶った事が単純に嬉しく、そしてまた青峰の中へ重油のような嫉妬が流れてきた。

「あぁ。良かったな、頑張れよ」

 『オレの分まで』と言いそうになった青峰は、言葉を寸でに飲み込む事が出来た。

 青峰も、ある決断の基に立っていた。内容は至ってシンプル。イチかゼロか、それしか選択肢が無い。恐らく自分の中に答えは出ている。……でも認めたく無いだけだ。そうやって決断を揺るがす悪足掻きが、こうやって葛藤を生む。

 火神はレーンを眺めながら、独り言のように小さな声で呟いた。皿に手を伸ばしたが、途中で止め膝上に戻しながら。

「……受けるのは、オレじゃねぇよ」

 そして火神は顔を正面に向けると、真っ直ぐに青峰の顔を見つめる。その真剣な眼差しから目が逸らせない青峰は、僅かに開いた口を閉じる事すら出来なかった。

「いいか?青峰よく聞け。選考は9月。ドラフト会議は11月。とにかく日がないんだ。5月にはアメリカ行くぞ。今のうち、心の準備しろ」

 卓上のアンケート用紙に手を伸ばした火神は、以上のスケジュールを裏に書き出し、青峰へ投げた。用紙はヒラヒラと舞い、テーブルの中央に落ちる。

「住む場所はオレが用意する。お前は親を説得しろよ」

 走り書きを指差しながら、火神は青峰へ『手に取れ』とジェスチャーを送る。

「……お前さっきから、何を言ってんだよ! なぁ! 火神!!」

 話が飲み込めない青峰は、大声で彼の名前を呼ぶ。それは晩飯時で賑やかな雑音と店内BGMに紛れ消えた。

「そのテストを受けるのはお前だよ。青峰……頑張ってこい」

 目を伏せ、その大きな肩を振るわせながら、小さな激励をする火神を青峰は怒鳴った。

「ソレで!? お前はそんなんで良いのかよ!! 何考えてんだ!! 余計な事すんな!!」

「どっちが行くべきかお前にも分かんだろ!?」

 相手の怒号に怒号で返した火神は、涙が落ちそうになった。目元を慌てて擦っり、レーンに乗った皿をテキトウに掴んで口に運んだ。二人の怒鳴り声に何かのトラブルかと慌てて掛けてきた店員は、『面倒臭い客……』と言いたげな表情をして厨房へと戻って行く。

「コネがあんだよ、オレは。死んでも使いたくなかったけど、でも……こうするしかねぇんだよ」

 成人を迎えた大男が、公衆の場で肩を震わせながら泣き始める。青峰は、そんな彼のみっともない姿から目を背ける。火神は震える声で、決断の理由を告げた。

「こうでもしねぇと……青峰。お前バスケ辞めるだろ!?」

 その台詞に青峰の身体が反応した。どこか似ている二人は、いつも相手が何を考えているかの予想は付く。もっとも最近は、火神の様子が変わっていた為に青峰自体は彼の発想が読めなくなっていた。だが目の前で嗚咽を漏らして泣いている今の火神なら、何を考えているか位分かる。だから青峰は、火神が苦手なのだ。まるで自分を見ているようだから……。

 悔しい。妬ましい。……ソコは一番オレが立ちたいステージだ。そうやって火神は、自分の判断を責めるのだろう。

 でも、こんな場所で泣いて己を悔やんだとしても……辞めるであろうライバルの姿を見るのが一番嫌だ。ライバルは常にライバルで居て欲しい。……青峰自身が火神の立場に居る時も、絶対に彼と同じ判断を出す。

「――NBAって、アメリカだろ? オレ英語なんか……。ブランクだって、急過ぎんだろ」

「だから5月には発つんだよ、日本を。アッチでオレの知り合いに揉まれて来い。生半可な気持ちで行ったら殺されるからな?」

 火神の脳裏に、渡米する度に凶悪な程しごいてくる師匠の姿と思い出が浮かぶ。もし青峰が向こうで弱音を吐き、「もう辞める」なんて言った日には、スクワットでアメリカを横断させられるだろう。でも、そうでもしないと日本のリーグでぬるま湯に浸かっていた目の前の彼に、天性の野生的な勘とあの荒々しい程に周りを凌駕するプレイを戻す事は難しい。……四ヶ月じゃ足りない位だ。

 火神は口を手のひらの甲で拭うと、潤んだ瞳でしっかりと青峰を見た。その眼差しは純粋だった頃のモノで、黒い自分を押し込んで姿を現した綺麗な彼だった。そして道は果てしなく続いていると信じている火神は、ゆっくりと口を開いた。

「青峰、オレがお前をNBAまで連れてってやる」

 これは嫉妬に身が焼けそうになる決断だ。だからこそ、黒い心を持つ【今の火神】は、その感情全てを"汚いモノ"と認識し、抱え込んだ。そうする事で自分を守っていた。今、青峰を見据えた昔の……いや【昔からの火神】が傷付かないように。"彼"は今の現状から逃げる事で新しい道を示した。幼い火神は気付かない。今から進む道程は【もう一人の自分】がエスコートしたモノだと……。

 元全米代表のアレックスに電話を掛け、青峰を選考に捻り込んで貰うように懇願した時からずっと【目の前の天才をサポートするのが自分の役目だ】と心を決めていた。勿論、そんな脇役で終わるつもりは無い。――何時かは……恐らく頂点まで行けるであろう青峰と、先に駒を進めた紫原と同じステージに立つつもりでいる。

 アレックスがどうやって協会へ取り入ったかは知らない。コネを遣ったか、ハニートラップを使用した可能性もあるだろう。いずれにせよ二度と使用出来ない"最後の切り札"だ。――だから、この最初で最後のチャンスは絶対無駄に出来ない。どうやら五月までに、目の前で呆けているこの男を奮い立たせなければいけないようだ。後悔や虚しさで泣いている暇はない。

 景気付けに火神は口へ寿司を詰め込んだ。気付いたら涙が流れていたが、気にせずに詰め込んだ。あっという間に皿は増え、腹は満ちていく。醤油なんか要らない。何も付けていないのに塩辛さを感じた。

 青峰は、そんな彼をただ眺めている事しか出来なかった。――実感が湧かない。火神が嘘を付いている気もする。涙を流しているのもきっと迫真の演技だ。夢なんじゃないかと、頬も捻った。

 それともうひとつ……。青峰は別の事も考えていた。自分の部屋の鍵をゆっくりとカーディガンの中にしまう彼女……。もし本当にアメリカへ行ったら、もう呼び出す事も出来ない。きっと告げたら彼女は、メソメソと泣くだろう。会う度に泣かせてばかりだ。

 ひとつ問題が片付けば、またひとつ問題が発生する。まるでシーズンの長い海外ドラマだ。こんな自分と居て、彼女は一体何が楽しいのだろうか……。

「合鍵、返して貰わなきゃだな」

 そう呟いた青峰は、それ以上彼女の事は何も考えないようにわざと熱いお茶を啜った。