「そろそろ帰るね? 親が心配するから」

 ○○が腕に巻いた華奢な時計で時刻を確認すれば、針は21時05分を指していた。少女以外は壁に掛けられたデジタルの時計を見上げ、そうして彼女に門限がある事を知る。

「オレ、送って行くよ」

 部屋の主が腰を上げるが、○○はそれを制す。「子供じゃないから」と言い訳をすれば、火神は不安そうに眉をしかめた。

「駅すぐソコだし、タクシー呼ぶから」

 一度上げた腰を椅子に下ろした火神と入れ替わりに、黒子が「じゃあボクが……」と言いかける。しかし、ソファーからの低い声が、彼の邪魔をした。

「オレが送る」

 テレビ前に置かれたサイドテーブルへグラス置くと、中の氷が鈴音を奏でる。それが全員の耳に届く程に、部屋は静かになっていた。全員が、青峰の意外過ぎる行動に驚いているのだ。

「……たまには良いだろ、早く帰るのも」

 ソファーから立ち上がった褐色肌の男は、壁へと掛けられたダウンジャケットを外し腕に抱える。

「いつもは泊まってく癖に……珍しいっスね」

 そんな嫌味をぶつけられた青峰は、金髪頭を小突いて部屋の出入口へと向かう。

「……ボーッとしてないで、早くしろ」

 青峰は部屋の出入口に立つと、気遣いも無く○○を急かす。

「あ……いい、の?」

「気が変わりそうだ」

 その相変わらずの無愛想具合に怖じ気付く○○だが、振り返れば皆が同じような表情をしていた。何かを期待する訳では無いが、胸の奥が激しく脈打つ。

 黒子がテーブルの下で小さく拳を握り、すぐにほどいたのを誰も知らない。

 ――出遅れた。眉ひとつ動かす事なく、黒子は後悔した。

 玄関まで見送りに来た火神と黒子を見ると、ノスタルジックな気分になる。この二人とクラスメイトになる事はもう無いが、やはり二人一セットが一番落ち着く。会った当初よりがっしりした体型の火神と、少し髪が伸び大人びた黒子の様子が月日が過ぎた事を実感させる。なのに自分は何も変わっていない……と、少女は焦燥感に駈られた。

「――あの、○○さん。やはりボクも……」

「大丈夫だろ、黒子ォ! コイツの趣味知ってんだろ?」

 火神はそう言い青峰の事を顎で差せば、下らない……と言わんばかりに青峰は大きく溜め息を付く。

「お前、オレん家からの方が実習先近いんだろ? 泊まってけよ」

 黒子の淡い気持ちを察する事が無い火神は、善意からこの場に留まる事を勧める。黒子はその悪気無い提案に乗っかる事にする。

「また、連絡します。相談したい事がありますし……」

 心身共に大人になった黒子は優しく微笑み、彼女に対する自分の気持ちを周へ悟られないように約束を取り付ける。それは極自然で、実際火神は彼の下心に気付く事は無かった。


 …………………


 エレベーターに乗ってからずっと下を向き、相手の3歩後ろをゆっくりと歩く。パンプスの裏がコンクリートを叩く軽快な音を立てていた。少し摩りきれた踵が気になるのは、そんな事でも気にしないと意識全てが目の前を歩く"青峰さん"で支配されそうだからだ。

 恥ずかしながら一目惚れと言えばそうかもしれない。何かに魅了されてしまった。自分のタイプは優しくて愛嬌があって、端正な顔立ちだ。それならば、先程まで一緒に居た黄瀬の方がタイプに近い。何故自分は彼の申し出に乗っかったのだろう……。

 うすぼんやりした頭に、着信の電子音が響いた。立ち止まり自分を呼び出したスマホを見ると、画面の中央には友人からの誘いが浮かんでいた。

「……友達から、明日合コンするから来いって」

 青峰は立ち止まり、くるりと振り替える。関心が無さそうな表情だが、静かに口が開く。

「……で?」

「返信、今していい?」

 回答は返って来なかった。画面をタップして、入力画面を呼び出す。返す言葉は"行くつもり"である。今日は彼らと、明日は大学の友達と……どうにも予定と言うのは密集して来るようだ。集合場所と集合時間の案内を催促し、相手からの返事を待つ。

 少女が目を瞑り軽く溜め息を付いたと同時に何かが手に触れた。その何かは、彼女の手のひらから精密器機の温もりを奪う。○○は、急な展開にすっとんきょうな声を出してしまう。

「……え?何……ッ?」

 男の大きな手が○○の私物を操作をしていた。用事を終えた男は、彼女のスマホを放って返す。上手くキャッチ出来たのは、彼の距離感が適切で、きちんと手元に落ちてきたからだ。

 返ってきた機器は、画面が真っ暗で電源が落とされていた。少女が驚いて顔を上げると青峰から無愛想な表情は消え、こちらに笑顔を向けていた。それは目元が困っているようにも見える、酷く下手くそな笑顔だった。

「これからどこ行くか決めろよ」

 言葉の意味が飲み込めずそのまま立ち竦んでいると、青峰の大きな手は電源落ちたスマホごと彼女の手を包み、引っ張り歩き出した。強引に手を引かれ、○○は大きく広い背中を眺める事しか出来ない。ダウンジャケットごしに彼の考えは読めなかった。

「お前が決めないなら、オレが決める」

「――決めるって……まだ何も……」

「歩くのダリィから、その辺で良いだろ」

 話が噛み合わず歯痒くなる○○は、目の前の彼がyesしか聞き入れない男なんじゃないのかと不安になった。恐らくそれは正解で、「門限あるから」や「明日早いから無理」と伝えても「そんなのオレには関係ねぇ」で一蹴される。 青峰の傍若無人とは、強烈なエゴが拗れた結果だろう。


 …………………


 シックで落ち着いた雰囲気の自動ドアをくぐれば、豪華なエントランスが待ち構えていた。しかし、そこには誰も居ずただ大きなスクリーンが鎮座している。植えられた大きな鉢はイミテーションか本物か、僅かな明かりの元では見分けが付かない。

 そこが"そういう場所"で無ければ記念写真の一枚でも残したい位に綺麗なのが、生憎そんな気分にはなれない。大きなスクリーンには部屋の写真が沢山写っている。そして半分以上が入室済みで消えていた。無機物な部分からほんの少し生々しさを感じた。

 館内に入ってから一言も話していない。青峰は適当にパネルを操作をすると、機械から吐き出されたレシートを手に取りスタスタとエレベーターへ向かう。○○は置いていかれないよう、慌てながらもまた三歩後ろを歩く。

 エレベーターまでの僅かな道のりでさえ、周りを見渡せば豪華な造りに勿体なさを感じた。どうせ誰も見ないのだから、ビジネスホテル並みに質素でも良いのに……と素直で失礼な感想を持った少女は、ラブホテルの豪華さにただ圧倒される。

 部屋に付くと青峰はダウンジャケットを脱ぎ、ソファーへと放った。無駄に広い部屋だった。初めて入るが、まるで先程まで居た火神のマンションのようだ。……自室をラブホテルと一緒にされた事を知った火神は、きっとショックを受けるだろう。

 大きなテレビ、二人で使うには広すぎる清潔なベッド。ガラステーブルの前には同じ位の高さのソファーがある。テーブルの上に設備やサービスが簡単に書かれたファイルとリモコン。摘まむ程度に置かれたチョコレートは利用者に配るちょっとしたプレゼントだ。

 十五畳程の広い部屋だが、灯りは最大にしても薄暗く、淫靡な雰囲気を出している。枕元に置かれた2つの避妊具やボックスティッシュも、やはりここがそういう場所なのだと主張していた。

「……風呂、入れよ、先に」

 ここに来て初めて声を掛けられる。青峰はリモコンを操作し、テレビのチャンネルをアダルトなモノにする。大ボリュームで女性の喘ぎが部屋に響いた。いきなり挿入シーンを見せ付けられた青峰は、面白く無さそうに舌打ちをする。無愛想な男がテレビから目を反らすと、腕に付けていたアクセサリーの類を外してテーブルに置いた。○○はその一連の仕草から目が離せなかったのだが、相手がジロリとこちらを見た瞬間に、慌ててバスルームがある方へと逃げた。

 バスルームは予想以上に大きく、そして肌寒かった。急いでシャワーの栓を捻ると、心地よい温水が身体に掛かる。自室程ありそうな浴室、自分のベッド程の湯船……。規格外な大きさに外国の映画を思い出した。泡で溢れた湯船に浸かりたい。そう願いながらシャワー栓近くの僅かなスペースで、据え置きのボディソープを使い身体を擦った。上手く泡立たない安っぽいソープは、"洗う"と言うよりは"擦る"と言う表現が似合った。

 同じような安いシャンプーで髪も洗うと、何だか不思議な気持ちになった。ベッドルームに居る相手の為に身繕いをしていると思うと、おへその辺りがキュンと痛む。

 痛む……? いや、何かに優しく摘ままれたような感覚に下腹部を押さえた。

「……別に、そういうんじゃない……シャワーがあるなら、使わなきゃ損だし」

 煌々と明るく照らす洗面所もまるで映画の世界だった。最も、鏡に映るのは女優では無くただの一般人女性だ。それでも、いつもよりほんの少し可愛く見えるのはライトアップのせいだろう……と感激して、また落ち込んだ。

 髪を乾かし下着を付け、用意されたガウンを着るか今まで着ていた服を着るかで悩む。30秒考えた○○は、せっかくだからとガウンを羽織る事にした。シャワーを浴び身体を綺麗にしたのだから、服も清潔なモノを着たい。ゴワゴワした白いガウンは肌に合わず、太ももの辺りがヒラヒラして心元無かった。

 ベッドルームに戻ると、引き続き青峰はAV観賞を続けていた。チョコレートが全て無い辺りに、男の自由な性格が現れている。

「やっと上がったか」

 青峰はソファーから立ち上がり、大きく背伸びをした。持ち上がった服からへその辺りがチラリと見え、その逞しい腰周りに少女の視線は向かってしまうのだった。

 ドアの前で突っ立っていると、青峰がこちらへ歩いて来る。間近で見ると高身長で、恐ろしく迫力があった。眉間の皺は深く、相変わらず不機嫌そうな表情を作り出す。

 「……何か?」と恐る恐る聞くと「風呂入りてぇんだけど」と返って来た。サササーっと扉の前から避け、ベッドの方へ向かう。その挙動不審な行動を目で追った青峰は、鼻で笑うと洗面所の方へと姿を消した。

 ○○は恥ずかしくて死にたくなったので、大人しくベッドに潜り込んだ。そして部屋に響く女優の喘ぎ声が喧しく思え、テレビを消す。部屋が静まりかえったのを確認してから、緊張で冴える目を必死に閉じた。

 掛けシーツは洗濯のりで固いし、リネン独特の香りが非現実的に思えた。どうも落ち着かない……。寝返りを打つ度に露になる太ももに気を取られ、何度も何度も引っ張り太ももを隠した。そのうち面倒になり、ガウンの裾を掴むようになる。我ながら色気が無いと自嘲した。

 扉が開き、相手の足音が聞こえる。時間にして約四分。まさにカラスの行水だ。こんもり膨らんだベッドを確認したのか「もうソッチ行ったのかよ」と笑う声が聞こえた。おざなりに髪をタオルで拭いた青峰は、半乾きのままなのにタオルをその辺に放る。スリッパも履かない彼の生々しい足音が、こちらに近付いて来た。

 ベッドの端に負荷が掛かる。腰を下ろした青峰は深く溜め息を付いた。○○がチラリと視線だけを移動させれば、広い背中が見えた。お揃いのガウン越しにも判る引き締まった身体に濡れた髪。男性を色濃く漂わせた存在に唾を飲む。握っていたガウンの裾を更に強く握った。

「…………門限があるお嬢様は、寝んのも早いんだな」

 青峰は嫌味をひとつ溢し、こちらに背を向け自身の左腕を枕に横になる。微妙に空いた距離が切ないような有難いような……。彼は再度深く息を吐くと、僅かに身動ぎをした。動く度にシーツが擦れてガサガサと小さな音がする。

「……なあ、お前いつもこんな風にフラフラ付いて来んの? 知らない野郎に」

 甘く低い声で酷い質問をされる。これじゃまるで尻軽女だ。羞恥と誤解を拭いたくて、枕を握り質問に答えた。

「そんな事、無いよ……」