「今度は雪に紛れて存在を消す練習か?」

 いつもより時間は掛かったが、無事火神のマンションへ辿り着いた黒子は、頭もコートも真っ白で少しだけ寂しそうだった。火神は上記のジョークを言いながら、彼の肩に積もった雪を払ってやる。リビングは温かく、笑顔の黄瀬がチンケなクラッカーを鳴らして少年の誕生日を祝ってくれた。

 ――黒子の好きな奴の名前を聞いた時の火神の顔は、そりゃあもう凄かった。鳩が豆鉄砲を喰らうとは、ああいう顔を指すのだろう。

「いや、でも……あぁ納得」

 火神が顎を抱えブツブツ言っている姿は、黄瀬からしたら滑稽で仕方がなかった。

 火神は気付いていないが、腹黒の頂点に君臨する男に手榴弾のような秘密を握らせてしまったのだ。黄瀬はあと、ピンを抜いて放るだけだ。そうしたら火神の信頼はジ・エンドとなる。勿論黄瀬もそんなお楽しみはしっかり大事に、ここぞと云う場面まで取っておくつもりだ。交渉の切り札にも遣える。

「なんかオレだけ除け者でつまんないっスね」

 黄瀬が一連のドロドロな流れに加わろうとすれば、火神は鋭い眼差しで彼を牽制した。黄瀬は、火神のその物怖じしない部分を気に入っていた。昔は暑苦しくて苦手だったが、年月を重ねても褪せないソレは魅力的なモノに見えた。

 だって、叩き潰したら面白そうだったから。

 本日の主役である黒子は現在、人生初めての飲酒でテーブルに突っ伏している。カクテル缶一本でこんな風になってしまったのは、約束をすっぽかされたショックからだろう。そう考えた火神と黄瀬は、悲しそうに俯く少年を励ましていた。

 黒子は泣き上戸か。それはそれで可愛い奴だ。――火神はそんな邪な事も考えている。

「黒子ォ、落ち込むなよ。失恋なんか誰だってするんだよ」

「ほら、くよくよしてたら素敵な出会いも逃げてくっスよ?」

 テーブルを挟んで二人の向かいに座る小さい彼がモゾモゾと動いた。白いロンTにジーンズという滅多にしない、彼女が惚れているであろうどっかの誰かに似せた格好がいじらしい。

「何だったら合コンしましょ? 黒子っち、大人しい子集めるから」

「オレも大人しい子は好きだぜ?」

「そっスね。じゃあ一緒にディナーにでも行けば?」

 ギリギリ過ぎるその発言に、火神は慌てて隣に座る男の後頭部をひっ叩いた。

「………誰が、フラれたって、言うんですか?」

 火神と黄瀬はそう発言した向かいの少年を見た。ゆらりと頭を上げたその瞳は深々と据わっていて、それを見た二人は何故か蛇に睨まれた蛙になったような気がした。両者とも立ち上がり、黒子と距離を置く。

「キミ達は黙って聞いてりゃ、やれ失恋したのやれフラれただの……」

 黒子は握った拳を頭上高く掲げ、それを真下へ一気に降り下ろした。丁度拳の先にあった空き缶はバカンッと小気味良い音を立て綺麗にプレスされる。

「潰す」

 黒子は立ち上がり、フラフラした視線を火神の下半身へとスライドさせる。

「二つあるんだから、一個無くたって問題無いでしょう?」

 恐ろしい台詞を冷たい声色で言い放った黒子は、火神の生殖器管を人差し指で示す。思わず内股になり両手で股間を隠した火神は、顔面を真っ青に染めた。黄瀬が慌ててフォローに回ったのは、その怒りの対象が今度は自分へ移らない為だった。

「いや! フラれてないっス!! 大丈夫っス!! きっと向こうもお腹痛くてトイレから出られないんスよ!!」

「案外腹壊して泣いてたりな! オレだって腹が痛かったら泣くしな!! 可愛いモンだろ?」

「――えっ? ソレは……」

黒子からドン引きした視線と台詞を頂戴した火神は、一瞬やってらんねぇといった顔をしたが、すぐに下手な笑顔へ戻す。

「ホラ、黒子っち。もっかい電話してみましょ?」

「そうだぜ? 黒子! アイツいつも電話で言ってたぜ? お前を良い奴だって!! 多分だけどな!!」

「馬鹿かアンタは!!」

 黄瀬にツッコまれた火神は「はにゃっ!?」と野太い声で奇妙に可愛い台詞を出すと、また自身が余計な事を言ってしまった事に気付く。

「火神君! テメェ、ボクの好きな人と電話だぁ!?」

 依然として酔いが冷めない黒子は、顎を上げまるで見下すような視線を火神へ投げた。彼のその未だかつて無い程の眼差しは、あの赤司征十郎にも似ていて"絶対零度"を彷彿とさせた。付き合いが五年にもなる火神は、黒子テツヤの異変へ必死に取り繕う。

「いやっ! 話題はお前だ黒子! 全部お前の話題!! 黒子テツヤの話以外してねぇよ!! 信じてくれ!! 内容だってちゃんと覚えてるぜ!?」

「……さっき"多分"とか言ってたのに」

「馬鹿! 余計な事言うんじゃねぇ!! 話合わせとけ!!」

 黄瀬に向かって怒鳴る火神は、自ら墓穴を掘っている事に気付かない。不気味なオーラを纏った黒子は「……いいでしょう」と呟き、火神に近付く。一歩も動けない巨男の前に着くと、ググッ……と右拳と右足を後ろに下げる。そのポージングに見覚えがある火神は口をパクパクさせた。

「やめろ黒子ォ!! それは人に向けて放つ技じゃねぇだろ!!」

 火神は必死にその行為の中止を要請する。

「オレとお前の仲だろ黒子ォ!!!」

「うるっ……せぇんだよ!!」

 黒子は普段からは想像付かない程に暴力的な台詞を吐きながら、勢い良く振りかぶった。――バスケから離れたとは言え、彼の腕力と肩の押し出す力は健在していた。勢いを付けた右ストレートは、人体の急所である鳩尾へ綺麗に入った。黄瀬は形の良い口から小さな悲鳴を漏らす。

 拳を喰らった火神は、殺せなかった衝撃でズズッ……と後退る。やがて息も出来ず声も出さず膝からその場に崩れ落ちた。そして薄れ行く意識の中で『コイツには一生、酒を飲まない生活をして戴こう』と願うのだった。

 同じく綺麗な顔を引き吊らせた黄瀬も、火神と同様に『黒子っちにだけは酒を飲ませないようにしよう』と心に決めた。

 現役時代の風格を魅せた勝者は満足そうに微笑み、ソファーにその身を横たえると眠りこけてしまった。自分の身に災難が振りかからなかった事に安堵した黄瀬は、その華奢な身体を抱え火神の寝室へと運んだ。願わくは、夢の中で愛しの彼女と会えるように――。

「まぁ……こんな現実なら眠っていた方が幸せっスね」

 黒子に甘い彼はそう呟いて、少年をベッドへ下ろした。


 ……………………


「……送ってく」

 そう言って青峰は、○○へ高校生時代に使用していた紺色のカーディガンを渡した。己の行いを反省したのか、夕闇に紛れた顔は歪んでいる。

「そんな格好じゃ風邪引くだろ。やるよソレ」

 着せてみたら丈が長くてスカートが隠れた。体格差と、はしたなさに青峰は苦笑いをした。

 外に出ると今朝から降っていた雪は止み、二人は駅までの僅かな道を歩いた。少女は今日もまた、男の三歩後ろを歩く。サクサクとうっすら積もっていた雪の感触が、二人に流れる気まずさをどこかへ飛ばしてくれた。

「――やっぱり、混んでるな」

 すっかり暗くなった外界は、駅周辺の明かりだけが眩しい。こんな小さな無人駅にも電車待ちの人達が溢れていた。人々が寒さをしのいでいるのか、近場のコンビニも忙しそうだ。電車のダイヤは乱れ、いつ乗れるかも分からない。皆寒さに凍え、帰路に就くのをただひたすら待つ。

「ありがとう。ここで良いよ」

 背中を丸める青峰へ声を掛けた○○は、小さく手を振り別れを催促する。バス停留場の混み具合を黙視で確認した青峰は、口を開いた。

「……いや、もう一晩ウチに泊まれよ。明日になりゃ電車も走るだろ」

 そう言うと高身長の彼は○○の肩を抱き、回れ右をした。愚かで不器用な人間が罪滅ぼしをする時は、新たな罪を生む。青峰は、愚かで不器用な人間だ。

「……あとさ、テツに謝んなきゃだろ」

 こんな寒い中、彼は独りで○○を待っていたのだろう。誕生日と云う日にただひたすら、来ない彼女に焦がれていたのか? 青峰は黒子が今何をしているのか考え、寂しそうな顔が浮かんですぐに止めた。仕掛けたのは青峰自身だ。懺悔したって、自己満足にしかならない。それなら神に許しを乞うなんて、最低の糞野郎のする事だ。

「電話しなくちゃ! 黒子君に」

 ○○はスマホを取り出し、操作を始めた。青峰は無言で明るいコンビニを眺めた。息を吐くと、目の前が白く曇る。

 黒いダウンジャケットにダメージジーンズじゃ、そのまま暗闇に溶けて混ざってしまいそうだ。だからきっと男は○○を近くに置いた。彼女はどれだけ汚してもやっぱり心が綺麗だった。だからこうして相手に立ち向かっていける。

 ○○は身体中が痛かった――。心臓は破裂しそうだし、何て伝えれば良いかも判らないままに言葉を紡いだら、イタズラに彼を傷付けるだけになりそうだ。……でも、逃げても何も変わらない。全てをぶちまける。それが彼女の現在出来る、最善の策のような気がした。

 彼女もまた、愚かで不器用な人間だった。

 いつもの呼び出し音が途切れ、相手が携帯を耳へと運ぶノイズが走る。とうとう通話が始まった。少女は相手の第一声を待った。

『――よぉ。久しぶりだな?』

 ――電話に出た人物は○○の予想を越えた。ぶっきらぼうに低い声で、すぐに火神大我だと判る。そう言えばメールに【火神宅に居る】と書かれていたのを思い出した○○は、安堵からその場に崩れそうになった。

『黒子ならアイツ今寝てるぜ? 酔っ払って』

 通話の向こうから陽気な声がする。火神は相変わらず、太陽みたいな人間だ。

『ずっと青峰と居たのか? あのアホが暴走したんだろ』

 鼻で笑う火神の台詞に、青峰がピクリと身体を反応させた。そして野性的な勘がよく働く男だ……と訝しく思う。

『……悪いけどオレがアイツだったらそうしてる』

 少しトーンを落とした火神は、青峰と考え方が似ている。だから電話の向こうの状況を察する事が出来た。

『青峰には"死ね"って伝えとけ。オレが言ってたって付けてもいいぜ?』

「……聞こえてるよ。馬ァ鹿」

 そう呟いた青峰は、その場に居ない火神に向かって肩を竦め鼻で笑う。

『黒子の事なら任せとけよ。……知らねぇ方が幸せな事だってある。お前らの為じゃねぇ、アイツの為だ』

 火神のアドバイスは的を得ていた。彼等はこれから年を重ねる毎に気付かされるだろう。"時には事実を隠す事が必要になる"と云う事を。ソレは罪を背負って生きていく大人な意見であり、逃げに溢れる子供のような考えでもある。その二つが絶妙なバランスで膠着している。そして罪悪感が、そのバランスを崩そうとするのだ。

『じぃちゃん辺り死んだ事にしとくけど、良いよな? まだ生きてるんなら勝手に殺すのも気が引けるよな』

 火神のブラックジョークに、○○は不謹慎ながらも感謝した。『任せとけ』――この言葉に少しだけ救われたような気がした。

『じゃあそろそろ切るからな。あんまり長く話すと黒子がキレて、またオレの鳩尾にギャラクティカマグナム喰らわすかもしんねぇし』

 火神がフランクで饒舌なのは、○○が落ち込まない為だ。火神はこうやっていつもフォローに回ってくれる。彼ならきっと、起きた黒子が傷付かないよう上手く配慮してくれるだろう。

「ありがとう。……鳩尾大丈夫?」

『黒子もなァ……。酒飲まなきゃ良い奴だ』

 火神の愉快そうな笑い声を最後に、電話は切れた。

「アイツ、声うるせぇな」

 最初から最後までずっと漏れていた火神の声にケチを付けた青峰は、少し笑ってまた真顔に戻る。

「……そうか、テツは酔うとギャラクティカマグナムを繰り出せるのか」

 褐色肌の男はそう呟くと、実在しない技名に険しい顔をした。大袈裟な例え話かもしれないが、黒子の激しいを超えたパスを見る限り、有り得そうだから怖い。

 電話ひとつでこんなにも空気を軽くするその火神の明るさに、彼が周りから慕われる理由が判った気がした。それは、彼がひとつひとつに真摯だからだ。

 彼は真意を持って聞いてくれるし、時には解決へと導いてくれる。意地悪で強引な部分はあるが、きっと根は優しいのだろう。見た目が厳つくはあるが、それさえ越えれば火神のそう云う部分に人は惹き付けられていく。


 ……………………


「これも、お前にやるよ」

 結局アパートへ戻った二人は、微妙に距離を置き座っていた。そんな中、青峰はサイドチェストからある物を取り出し、彼女に向かって指で弾く。

 蛍光灯の光に照らされ輝いたソレは、彼女の膝に落ちた。

「……でも、コレ」

「何だよ、見りゃ分かんだろ。"お友達"から昇格だ」

 頭をボリボリ掻く青峰は、○○に部屋の合鍵を渡した。

 二歩進んでは一歩下がり、また一歩進む。二人の間は、そんな一進一退な関係に思えた。彼女になるのには、あと何歩下がって何歩進めば良いのだろうか。果たしてそれには、どれだけの時間が掛かるのだろうか。

「いらねぇなら、返せよ」

 ○○は膝からソレを拾うと、カーディガンのポケットへ入れた。それを見た青峰は、ぶっきらぼうに口を開く。

「――お前には何て謝ろうかな?」

「それ、本人に聞く?」

「あぁ、それが一番手っ取り早い」

 距離を縮めた青峰は、拗ねて頬を膨らます彼女の頭を撫でて顔を覗き込む。○○はせっかく合った視線から横を向き、逃げた。

「喰らって来たら? ナントカカントカを」

「食ったモン全部吐くだろうな」

 ボクシングやプロレスも人並み程度に知識がある青峰は、"衝撃波で壁に穴を開ける凶悪な右ストレート"を鳩尾に受けた自分を想像し、顔を歪ませた。

「叩き込まれたら許してくれるか? ギャラクティカナントカを」

「百発喰らったら、黒子君も許してくれるかもね?」

「テツを犯罪者にする気かよ」

 軽く笑った青峰は知っていた。彼女はきっとまた、ココに来る。例え自分の行為を許さなくても、電話ひとつで駆け付けるだろう――と。

 二人は酷い秘密を共有してしまった。黒子の事を考えた青峰は、厭になる位に自分が憎くなる。それは膝を抱えそっぽを向いているアチラさんも一緒だろう。罪悪感からどちらかが口を割れば、黒子テツヤは二人に裏切られたと絶望するのだろう。○○は悪くない。……悪いのは全てオレなんだ。青峰は溜め息を付き、自分を責めた。


 ――――――――


「……火神君、おはようございました」

 寝惚けた黒子が呟く。寝室に姿を見せた火神がベッドに腰掛け頭を撫でてやると、相手は嫌々と首を振り枕に顔を埋めてしまう。

 『――明日は撮影なんで。ホントは今日も』と言い残した黄瀬は、とうの昔に帰っていた。きっと黒子の誕生日を祝う為だけにスケジュールを抜け出し、ウチに来たのだろう。それなら何故最初から知っていた? 黒子テツヤがココに来る事を。……憎い程にミステリアスな男だ。

「ごめんな? 誕生日なのに、ロクに祝ってやれなくて」

「ボクこそ、八つ当たりして。……すみませんでした」

 火神は、跳ねる髪の毛を押さえるように黒子の後頭部を撫でる。黒子は犬みたいな奴だ。そう言えば……と、火神はうつ伏せになった彼によく似た犬を思い出した。

「○○から連絡あったよ。じいちゃん死んで、今県外だってよ」

「……そうでしたか。彼女が無事なら良いんです」

 黒子の安堵した笑顔に、火神は罪悪感を感じた。でも、無理に事実を伝える方がよっぽど酷だ。これは誰も傷付かないで済む優しい嘘だ。

 そして火神はそのままの口調で、自身の決意を黒子へ告げる。ソレはあの日、二軍へ落とされた日に決めていた事だった。

「……オレさ、その内アメリカ戻るよ。多分、もう戻って来ねぇ」

 黒子の小さい身体は一瞬硬直をした。そのリアクションの後、震える声で質問された。

「――……今のリーグはどうするんですか?」

 枕をギュッと握り、黒子は体勢を変えられずにいた。相手の言ってる事を飲み込みたくないのか、酔った少年の脳は未だに考える事を拒否する。

 火神は過去に何度か渡米していた。卒業までの短い期間を捨てた事もある。……でもその度にちゃんと帰ってきた。多少の風貌は変わっても火神は火神だ。それがもう、海を挟んだ圧倒的な距離の向こうから帰らなくなる。黒子からしたら、とんだ誕生日プレゼントだ。

「いいんだ、黒子。オレ、二軍に落ちたから。……もう、いいんだ」

 火神の大きな手は水色の頭をポンポンと軽く叩いた。そのまま後頭部に唇が付いたような感触がした黒子は、胸が苦しくて何も言えずにいる。火神が日本に居ても辛いだけなのは知っているから、少年は引き止める事さえ出来ない。

「誕生日祝ってやるのも、今年で最後かもな」

「……では、男三人でむさ苦しく祝って貰います」

 黒子は毅然とした口調でやっと言葉を返せた。ショックで頭の裏がガンガンする。――多分、その火神の居ない集まりは、どこか退屈なモノになりそうな気がした。

「……残念。それなら二人だ、黒子。……寂しいかもしれねぇけど、来年からは二人で祝えよ」

 そう言って火神は、どれだけ撫でてもボサボサのままな黒子の頭から手を離し、腰を上げる。

「――火神君?」

 その発言の意図が読めない黒子は、身を起こし火神を見る。既に背中を向け、部屋を出ようとする彼は、振り返る事なく片手を上げた。

「ベッドはそのまま使えよ。誕生日様なんだから」

 そう言って火神は部屋の電気を消すと、音も立てずに寝室のドアを閉めた。