火神がシャワーの栓を捻ると、今まで自分を濡らしていた温水の束がストップした。髪から滴り、目元に掛かる水を拭う。睫毛に付いた水滴はピントが合わず、眼前でぼやけた。彼の太い腕はバスタオルを掴み、彼の鍛えられた足は浴室からその身を脱出させた。そして彼の厚い胸筋は、呼吸に合わせ上下する。

『現実から逃げんなよ! 何時からそんなに弱くなったんだよ!』

 廊下を歩いていると、内側に居る"昔の自分"が言葉をぶつけて来た。ソイツは不器用な程に素直で、道は果てしなく続いていると信じていた頃の火神大我だ。ソイツは清い。……嫌になる程に。

「――黙ってろよ。お前に何が判る?」

 応えるが如く返事をした"今の火神"は、真っ黒に染まった自分の身体を撫でて幼い意見を嘲笑った。

『そんな風に自分を傷付けて、一体何が残んだよ!!』

 真っ直ぐな怒りを持った自分自身に誹謗される。まだ綺麗な自分が、内側に閉じ込められた純粋な自分が、必死に外に出ようと威嚇した。それを今の彼が乏しめる。

「……大人になるってな、汚れるって事とイコールなんだよ」

 ――純粋な白は、深い黒には勝てない。それは逆に黒側にも言える事で、彼らは混ざりグレーに色を変える。そんな自分自身との葛藤に勝利したのは、"黒い彼"だった。

「だから、オレが全部抱えてやるよ。……汚いモンは全部な」

 そうやって"汚い経験"で漆黒に染まった火神大我は、歪に笑う。彼を変えたのは、もうひとつの母国――アメリカで降り掛かった"汚い経験"だった。

「これで良かったんだよ……」

 誰もいない空間でそう呟きバスタオルをベッドに投げた筋肉質な彼は、また身体が黒く染まり始めたような気がした。その身も、清潔感のあるシーツへ投げる。裸のまま、鍛えた筋肉の塊を白い布の上で滑らせた。

 足首に痛みを感じなくなってから数日。……復帰の日は近い。

 彼のリビングのテーブルには、真っ二つに破られた手紙が置いてある。火神は読んだ瞬間に怒りで引き裂き、ソレから逃げるようにシャワーを浴びに向かった。

 その日……火神大我は素っ気ない一枚の通知で、二軍への降格を言い渡された。


 ――――――――


 寒さに身を震わせながら、黒子テツヤは大学近くの閑静な自然公園で待ち合わせをしていた。大きな滑り台で有名なソコは、日中になれば子供の笑い声が響いて賑やかになる。今はすっかり日が落ち、昼間の喧騒を隠したかのように静かだった。自分が息を吐く音しかしない、静まり返った世界。座っている木製の長ベンチは冷たく、設置している面が冷える。

 静寂を割り、足音がした。黒子はその方向へ寒さで赤くなった鼻から両頬を向け、やって来た人物に声を掛ける。

「……呼び出して、すみません。○○さん」

 彼女は黒子と同じく凍える気温に頬を赤くして、彼にビニールに包まれたカイロを差し出した。


 ……………………


「テストは、何とか出来ました。クリスマスから親戚の家に居たので……する事が無くて」

 ――こんな話をしたくて呼んだのでは無い。黒子は聞きたがった。この二人しか居ない世界で、彼女に『何故、一人で"不安"を抱えていたのか』を。

 黒子の隣に腰掛け、律儀に膝を付け大人しく座る○○は、外灯に照らされた前髪が影を作り出し目元が見えない。身を削ぐような寒さの中に何時までも居たくない黒子は、遂に本題を口にした。

「……こんな事をキミと話すのは、避けたかったけど……。全部聞きました。青峰君から……」

 手に持ったカイロが、じんわりと熱を持つ。その温かさが、黒子に勇気をもたらした。あまりに周りが静か過ぎるから、彼女が小さく息を飲む声さえ耳に届く。

「……何故、相談してくれなかったんですか?」

 批難するつもりは無いが、黒子の感情の乏しい言い方は冷たく、まるで少女を責め立てる口調になってしまった。勿論、○○は口を接ぐんだままだ。あくまで予想ではあるが、黒子は少女が黙る理由を知っている。

 迷惑を掛けたくなかった。……それだけだろう。でも黒子は、それを本人の口から聞きたがった。

「ボクのせいです。会わせなければ良かった……。本当に、すみません」

 黒子は祈るように両手を額に付け、身体を前に折る。目を閉じ、己の選択ミスを責める少年へ○○は柔らかい口調で諭した。

「それは違うよ? 安心して……?」

 ○○のそれは本心だ。そんな事思った事は無いし、例え何があっても黒子テツヤを責めるつもりは無い。

「黒子君も青峰君も、悪くないよ。だって悪気が無いんだもん。怒れないよ?」

 ○○はそう言って、口から白い息を吐いた。


 ――黒子は、彼女のその強さに惚れた。

 優しさとは、強さだ。

 ……入試ギリギリまでバスケに興じ、周りから相当なビハインドを背負った黒子テツヤを救ったのは、彼女の"弱さ"に隠れた"本物の強さ"だった。

 だから、黒子は恋に落ちた。初めて女性に興味を持った。

その強さは、火神や青峰のように圧倒的な力で誇示する強さとまた違ったモノで、黒子は最初それに興味を持ったのだった。

「私は、大丈夫だよ?」

 そんな逞しさを持つ○○の声が震え始めた。多分、どうしたのか聞けば彼女は「寒さで凍えた」と言うだろう。

「……辛かった筈です。キミは、凄く」

 黒子は、顔を覆って震える○○の頭を優しく撫でた。今までは、バスケットボールの為に彼の両手は存在していた。しかしソレから離れた今は、彼女を守り抱き締める為に在りたいと、少年はそう思った。黒子は、冷えた彼女の頬に指先を這わせた。

「……ボクは欲張りだから、キミの色んな表情が見たいんです」

 カイロのお陰で温まった指先の熱が、今度は○○の頬を温めていく。顔を覆っていた手を外し、こちらを見た少女は、やはり瞳が潤んでいた。

「でも……泣き顔だけは、あまり見たくない」

 ○○の横髪を掻き分け、冷えた耳を撫でた黒子は、ゆっくりと手を離す。そんな大胆で淡い行動に、二人は恥ずかしさで目も合わせられずに前を向いた。俯きモゴモゴしながらも、声量が無い黒子は少女に言葉を続けた。

「――もっと、色んなキミを見たい。……見せてくれますか? キミの一番近くで……」

 黒子の口から出たのは、告白の言葉だった。火神が聞いたら『見てるだけで良いのかよ!?』と大声で笑いそうな台詞だ。

 ――そんな、黒子テツヤの知識を総動員して伝えた慰めの言葉に、○○は俯き泣きながらも、微量の声で笑っていた。少女の顔を覗き込んだ黒子は、ある提案をした。

「あの……泣くなら胸、貸しますよ? そちらの方が落ち着くなら、いくらでも……」

 考えが読めない水色の瞳が、少女を見つめる。彼の透き通った白い肌は、頬がうっすらに赤く染まっていた。

「今日は、寒いからですね」

 火照った肌を擦った黒子は、赤い頬を寒さのせいにした。……そんな風でも、彼は彼女の為に提案してくれているのだ。等身大の飾らない黒子テツヤは、○○の中で魅力溢れる一人の男性になった。

「31日、ボクの誕生日なのですが……過ごしてくれる人がまだ見付からなくて……」

 小さくなっていくその声に、彼なりの優しさを感じた○○は、黒子の胸部に飛び込んだ。身の丈にあった少年の身長は隣を歩いていても安心出来る。それに、両手を垂らしてこちらを触れもしない姿勢に、純粋なプラトニックさを感じた。だから彼女は、彼の誕生日を一緒に過ごしてみたくなった。相手をもっと知りたいと思うのは○○も同じだ。

「……その日は、私も一日空いてるよ?」

 こちらが微笑めば、微笑み返してくれる黒子の優しさがずっと好きだった。勿論、彼女からすればそれは"友人"を対象にした感情でしかない。しかし、男である包容力を見せられた今は、少年を別な目線で見始めなくては失礼な気がした。

「……それなら、二人でご飯でも。騒がしいのは好きじゃないので」

 立ち上がりながら週末の予定を取り付けた黒子は、頷く彼女の肩にそっと手を置いた。華奢な肩幅とコートの素材を手のひらに感じた黒子は、これからも愛しい人を大切したいと思う。

「さっきの、あの"ボクの気持ち"への返事は、まだしなくても大丈夫です。31日にお伺いしても良いですか? ……ボクも、心の準備がしたい」

 そう言って、ゆっくり立ち上がった○○を両腕で包んだ黒子は、運動もしていないのに息苦しさを感じた。頭と心臓が爆発しそうだ。緊張で少しの吐き気もする。

 それでも彼女を離したくは無い。黒子は嘔吐感を越え、内側から愛しさが生まれるのを感じた。

 きっとボクは、心から彼女を愛している。もしも彼女が頷いてくれたら、自分は世界で一番幸せな男だ……。

 "愛"と云う単純な感情で、黒子は強い幸福をその身に感じていた。


 ――――――――


【無事生理が来ました。】

 自室ベッドに横たわった○○は、今打ったメールを青峰へ送ろうと決めた。何度も書き直したのに、出来上がったのは素っ気ないだけの一言。

 コレを送信したら、彼と過ごした時間の全てを無かった事にしよう。向こうが読んでも読まなくても。……自分を忘れていたとしても。

 こちらに未練が無いだろう彼から、もう返事は来ない気がした。

 通話やメールの履歴に残った"彼の名前を"全て消した。電話帳からも登録データを消す。そうやって全てを捨てないと、微かに残った希望に何時までもすがり付いてしまうからだ。

【登録アドレス1件消去しました】

 機械的なメッセージが、彼女の恋に終わりを告げる。

 ○○は、無機物な通信機器を手から滑らせるように落とした。ソレは枕のすぐ横に着地し、同時に彼女は布団へ潜り込む。

 時間が長く感じた。少女は何度も溜め息を付き寝返りを打つが、頭からスマホが離れない。結局、また期待をしてしまう。5分経っても一切鳴らないスマートフォンに焦れた彼女は、電源を落とそう手を伸ばした。そうすれば、鳴らない事が当たり前になるから……。

 その瞬間、突如電話のベルが彼女を呼び出した。画面に表示されていた11桁の数字に、彼女の心臓が震え涙が滲む。

 ――振られる……。○○は悟った。これは恐らく、彼が自分と云う存在にけじめを付け、次に進む為の電話だろう。出ても、出なくても全てが終わる。たった三ヶ月の、短くも深い恋だった……。初めてこの人の傍に居たいと、そう願った。今も変わらずそう願っている。彼女は、震える指先で通話を許可した。

「……ハイ」

『――よぉ、元気……じゃ、無さそうだな?』

 それは、相変わらずに低く色気のある声だった。毎日夢で聞いた声だ。最近は正しかったかさえ判らない程、記憶から薄れていた大好きな声。すぐ脳裏に彼の顔が浮かぶ。きっとあの部屋でベッドに腰掛け、未だ愛用する古臭い携帯を片手に持ち、安堵から下手くそに口元だけが笑っているのだろう。

『メール見た』

 感情を表に出すのが苦手なのか、電話の相手は鼻で軽く笑った。その相手の気持ちを考えない横暴さも、今は○○の心を強く掴む。

 あるヒットソングは"愛"をこう綴る。「優しさだけじゃ、惹かれはしない」と……。それを見事に体現したのが、この青峰大輝だろう。

『悪かった。傷付けてばっかで』

 泣きたくないのに、○○の目からは涙が溢れた。少女は鼻を啜り、しゃくり上げる。青峰のそれは、謝罪と云うより別れの挨拶に聞こえたから。

『――お前さ、幸せになれんじゃねぇの? 馬鹿が付く位、優しいからな』

「違、う……優しく……なんか、無い……」

 上手く喋れない彼女を青峰は笑う。その笑い方が一緒に居た時から何も変わって無かったから、彼女は最も言いたかった台詞を口に出来た。

「――会いたいよ……」

 ○○が紡いだ我儘に、青峰は黙り込んでしまった。例え相手に彼女が居たとしても……せめて最後にもう一度だけ会いたいと、少女は願う。そして彼との恋心に別れを告げ、真っ直ぐな黒子の愛情を全身で受けようと、そう考えてしまった。それは幼く、エゴイズムが支配する甘い考えだ。

 それでも――そうでもしないと青峰と決別出来ない位に今の彼女は弱かった。

『……三十分でここまで来たら、会ってやるよ』

 そう言われ、一方的に切れた電話。○○は通話終了の余韻を噛み締める事なく、直ぐ様行動に移った。コートと財布とスマホだけを手に取り、玄関から外へ飛び出す。一分、いや……一秒さえも惜しかった。

 彼に会いたい。会って最後にもう一度抱き締めて欲しい。

 背の高い青峰に抱き締められても、胸元にやっと届く平均身長しか無い彼女は、その体格差に何度もときめいた。欲しがった。恋をした。振られるなら、せめて最後に彼の記憶に残りたかった。

 冷たい北風が顔を刺し、纏めていない髪が乱れた。一分も全力疾走を続けたら息が苦しく、脇腹に痛みが走る。でも彼女は走った。最寄りの、大通りから奥張った場所にある駅まで。足を縺れさせながら、懸命に走った。


 ……………………


 全て気紛れ、で片付けたらそうかもしれない。終話ボタンを押し半ば強制的に通話を終わらせた青峰は、携帯を枕元に投げた。

 さっきの業務的なメールを貰った瞬間、彼女が自分を追い越して大人になった気がした。いつも自分の後ろを恥ずかしそうに歩く彼女が、自分の前を毅然と歩いているようで寂しくなったのだ。

『忘れたい、ってさ……』

 クリスマスに告げられた火神の一言が、青峰の頭を過ぎていった。未練がましく電話を掛けたのに、応答したのが何時もの弱い彼女で安心した。また俯いて睫毛を伏せ泣いて、顔がぐちゃぐちゃになっているのだろう。

『会いたいよ』

 胸に刺さったストレートな気持ちに、初めて男は電話の相手へ愛しさを感じていた。夢で見たように、例え世界の全てが終わったとしても……彼女は傍に居て絶望した彼を心配するのだろう。その時青峰は初めて、彼女の愛の深さに気付くのだ。

 でも、彼は自身の中で理解している。きっと彼女が幸せになるのなら、それは自分の隣ででは無い。

 彼女の傍には二人の男性が立つだろう。

 まず一人目。短髪は赤と黒のバイカラー。ソイツは特徴的な眉毛を凛々しく上げる。背の高い、よく食べる男だ。肉食系と言えば、分かりやすい。

 そしてもう一人……。コッチが曲者なのだ。見た目は何もかもが薄いのに、内に秘めた情熱は誰よりも熱く、触れたら火傷しそうになる。……そこには少年漫画の主人公が存在した。

 今度は彼等越しに彼女を見る事にしよう。もし彼女がうっかり服のタグを付けていても、それを指摘して笑ってやるのは、もう自分の役割では無い――。気付かないうちに何度も溜め息を吐いた青峰は、顔を両手で覆った。

 十一月の頭。火神のマンションで、初めて彼女を見た時を思い出す。黒子の隣に座った彼女は、こちらを見てすぐに目を逸らし、申し訳なさそうに頭を垂れていた。――失礼だな。そう不快になったのを覚えている。自分の強面に、こうもあからさまに反応されては青峰だって面白くは無い。

 もしあの日に戻れるのなら、今度は黒子に彼女を託して、自分は火神と黄瀬との三馬鹿トリオでシモ世話な話でもしよう。そうすれば彼女は、引き続き綺麗な世界で、綺麗な物語を紡げる筈だから。

 男はテレビを付け、観た事もない連続ドラマを視界に入れた。出てくる登場人物は顔も考え方も綺麗で、物語は汚い場面を映さない。

 お嬢サマな彼女に相応しい世界だ……。

 そう思った時、玄関のベルがいつもの音で彼を呼び出した。青峰は来訪者をモニターで確認する事も無く、玄関に足を運ばせる。――もう一度だけ、最後に彼女を迎えに行く。

 テレビでは丁度、主人公が相手に自分の気持ちを打ち明ける、重要で見所のあるクライマックスシーンが流れていた。