新しい年が始まり、二週間程が経つ。相変わらず寒さは厳しく、成人を迎えていた彼らを振り回す慌ただしい時期は過ぎていた。

 ジムに内設されたプールは、様々な人間が各々の理由で水と戯れる。その中に、日焼けしたには黒い肌を持つ若い男性が一泳ぎを終え、50Mプールから身を乗り出した。男がプールサイドを歩くと、その度に塩素臭い水を肌が弾く。彼はキャップを脱ぎ、深い青色をした髪を掻き上げ疲れた表情を見せた。準備体操をしていた年輩の女性集団が彼の日本人離れした身長と肉体に魅了され、意見を出し合う。

 男が視線を感じ横を向けば、ガラスの向こう側に誰かが立ってコチラを見ていた。空間を隔てるソレの前、向こうで影の薄い華奢な少年が縁に頬杖を付きながら手を振っていた。呼び出したのは他でもない、全身を水で濡らしている彼だ。ガラスの向こうに立つ少年は、意識を向けなければ背景の一部と溶け込む。その顔立ちも色素さえも薄い少年の存在を、こちら側の人間は愚か、ロビーを歩く人々は誰も気に止めないでいた。


 ――――――――


「リハビリ中でしたか。てっきりまたサボるのかと……」

 待ち合わせ相手の黒子は、青峰にチクリと嫌味を刺した。昼時のファミレスは賑やかで、遠くで子供の泣き声がする。青峰はそれを耳障りだと思いながら、過去からの成長を口にした。

「もう子供じゃねぇんだよ」

 彼が黒子を呼んだのには理由があった。そうでも無ければ男二人でランチなんてゴメンだ。

「――お前、好きな奴居るだろ」

 青峰が口にしたその前置きに、ドリンクバーのグラスを握っていた黒子の手が跳ねる。ガバリと冷えた水を口にした青峰は、ついでに入ってきた固い氷を奥歯で噛んだ。

「キミに気付かれるなんて、ボクもまだまだ修行が足りませんね」

 黒子は溜め息を付いて、惚れた腫れたに鈍感な筈の彼を批難した。そして少年は、己の気付かれやすい態度も同時に責める。空になった鉄製の皿にフォークを投げた青峰は、窓の外を眺めながらこう言った。

「あぁ、それに相手の名前も知ってる。……○○ってオンナだろ?」

「……何で?」

 静かに問いた黒子に、青峰は悟った理由のひとつを教えてやる。

「名字でしか人を呼ばねぇお前が名前で呼ぶって事は、よっぽどの相手だ」

「流石ですね」

 黒子は、男の観察眼の鋭さを素直に褒めた。二ヶ月前のあの日……彼女を紹介した少年の台詞ひとつで、青峰は見抜いていた。【恋心】と云う淡い想いに――。

「それが、どうして今日呼び出すのと繋がるんですか?」

 運動後独特の気だるさと闘っていた青峰は、数秒黙り顔を両手で拭った。そうして気持ちを落ち着かせ、頭を整理し口を開く。

 どう伝えれば良いのかギリギリまで判らなかった青峰は、低く抑揚の無い声で事実を有りのままに伝えた。出来るだけ、簡潔に。

「……抱いた、何回も」

「…………そう、ですか」

 その台詞に、黒子は片手で目元を押さえた。その打ちひしがれた体勢を変える事無い少年に「好きだったから……ですか?」と聞かれた青峰は、それに答えられないでいる。

 ――聞かなくとも、黒子は既に答えへと辿り着いていた。以前見せたあの桃井への浮かれようを見れば、愛だの恋だのそういう大切な感情を持たずに彼女を抱いていたのだと、そう気付いていた。

 無言を貫く二人のテーブルに、女性の店員が「食べ終わった食器片付けていいか」と青峰に伺った。しかし何も言わない彼に、店員は顔をしかめた。そして彼女は、代わりに「どうぞ」と呟いた黒子の存在に気付き驚く。――それ位しか、動きが無かった。

「悪ィ、もう終わったから……返すよ、お前に」

 静寂な二人の空間を引き裂いた青峰の身勝手な言葉は、黒子に怒りの感情をもたらした。

「彼女はモノじゃない!!」

 突然の怒号に、近くのテーブルを片付けていた女性店員が興味津々な目でこちらを見る。彼女と目が合った黒子は冷静さを取り戻した。そして横を向き、口調を敬語に戻して青峰に謝った。

「……すみません。怒鳴ってしまいました」

 一体何時から?

 どうやって?

 彼女の様子は?

 彼女は男を愛していたのか?

 何で今まで内緒にしてた?

 どうして自分に相談しなかった……?

 黒子の頭の中に沢山の疑問が湧いた。整理出来ない感情は湯槽から溢れる水のように、小さい彼の頭を擦り抜けていく。黒子はグラスに向けていた大きな瞳を青峰へと向けた。現状から逃げるかのように顔を伏せる褐色肌の男に、ある事を聞かなくてはいけなかった。

「……避妊、しましたか? 青峰君。ちゃんと……彼女に」

『生理が来ないって、何だよ』

 あの日、火神が彼の頬に拳を叩き込んだ。黒子は鮮明に残る記憶を辿る。……想像もしていなかった。きっと設けられた華やかな出会いの場で、適当に選んだ相手だと……少年はそう思っていた。まさかその相手が……――。

 回答を待つ間、コップを握っていた黒子の手が怒りで震え始めた。

「……して、ない」

 男の低い声帯が返事を紡いだ瞬間、無意識下に黒子の手は動いていた。グラスを傾け、その丸い口を真っ直ぐ相手に向ける。宙に放り出された中身は、青峰の顔へ容赦なく飛び掛かった。

 冷たいお茶が掛けられた顔面を拭う事もせず、青峰はただ座っている。感情的な行動を取った黒子の顔は、相も変わらず無表情のままだ。少年はグラスを持ち席を立つ。

「……飲み物、貰ってきます」

「また、オレに掛ける気か……?」

 騒がしい店内を裂いて耳に入った男の皮肉に、振り返りもしない黒子は嫌味で言葉を返した。

「……それでは熱いコーヒーを持って来ましょう」

 感情が無い冗談に青峰は笑う。結局、戻って来た彼の手に握られていたのは中身が空のグラスだった。そして、もう片手に持っていた白いフェイスタオルを差し出される。

「愛想も尽きたか?」

 顔を拭きながら問い掛けた彼に、黒子は首を横に振って小さな声で呟いた。

「それでもキミを嫌いにはなれない」

 好きな人を寝取られたからと言って、黒子は青峰の良さを沢山知っている。短所も、弱さも、格好良さも知っている。女性一人でその関係が崩れる程に、【脆い絆】では無い。

「何でですか? ボクの知る限りでは、理由が無い。キミが何故彼女を選んだのか……――」

 黒子は、青峰へ行為の理由を求めた。せめて気紛れに性欲を貪るだけでは無いと願いながら。

「お前に負けたくなかったからだよ。テツ」

「それなら彼女は関係ないでしょう!」

 自身が抱えたコンプレックスを本人に告げた色黒の男は、その眼差しを向かい合って座る相手に向けた。黒子よりずっと大人びた青峰の深い瞳は、細い目の中で視線を逸らした。

「ボクを傷付けたいなら、それは構わない。――でも彼女だけは、傷付けないで欲しかった……」

 終わった事を責めても変わらない。過ぎた時間は遡れない。目の前に居る友人に過去の怒りをぶつけたとしても、過去は過去のままだ。

「これ以上、失望させないで下さい」

 そう告げた黒子は、この場の奢りを催促した。少年は、たった280円のドリンクバーで現在までの友人を許そうとしたのだ。思わぬ救済を得た青峰は、荷物を持ち席を立つ黒子へ質問を投げた。たとえ、さっきの今で失望されたとしても、彼は知りたかった。

 "物語の主人公"に相応しい風格を持つ少年に、酷く体制の悪い疑問をぶつける。

「何でだよ? どこが良いんだよ? 見た目が可愛い訳じゃねぇし。スタイルだって、別に……――」

 黒子は振り返り、青峰に侮蔑を含んだ目線を向けた。それ以外の感情が一切見えないその眼差しは、男を深く貫いた。

「……見た目で人を好きになるなら、写真にでも恋してますよ。ボクは」


 ……………………


 黒子は手が震えた。寒さの為では無い。嫉妬と怒りが逃げ場を求めているのだ。

 ――引き合わせなければ良かった……。彼女を傷付ける原因を作ったのはボクだ。ボクが誘ったから、彼女は彼に惹き込まれてしまったんだ。青峰君は背格好が男らしく格好良い人だ。彼女が恋をしたとしても、それはおかしな事では無い。

 頭の中が彼女で一杯になる。○○はクリスマスや新年をどう過ごしたのだろうか? きっと気丈な彼女の事だ。独りで悩みを抱えながら過ごしたに違いない。……家族と一緒に親戚家に行く位なら、不安がっている○○の傍に居たかった。

 後からやってくる悔いに黒子は唇を噛む。元々恋愛に疎く感情豊かでは無い彼は、こういう時にどうすれば良いのか判らずに現状を維持するしか無い。

 今はそれが堪らなく嫌だった。


 ――――――――


 クリスマスの次の日。○○は寒さに震え目が覚めた。飛び込んで来たのは知らない部屋の、真っ白なシーツだった。身を起こすと頭がボーッとする。少女はテーブルに置かれたコンドームの袋を手に取り、自分が裸に近い格好をしている事に気付く。そして後ろから伸びてきた手に肩を抱かれると、誰かに抱き締められた。

 その相手は匂いで判った。寝起きで相手の体臭が濃く醸し出されていたからだ。肩に刺さる固い髪の毛は赤く、毛先に進むにつれて黒へと色を変えていた。

「……寒ィ」

 そう言って身体を離した相手は、また布団に潜り込む。

「体温高いの? 熱い位だよ、火神君」

「……眠ィと体温高くなるんだよ。赤ん坊と一緒だ」

 ○○が朝の挨拶も無しに火神へ問い掛けると、男は掠れた声を出す。その可愛い内容に、少女の口から笑いが漏れた。

「――お前が出した答えだからな?」

 寝返りを打ち、背を向けた火神がそう呟く。○○は、少し黙り込むと正直に「……覚えてないよ」とだけ口にした。

「オレのセックスは忘れる程度のモノなのかよ……」

 ボソリと呟いた火神の台詞に、少女はドキリとした。"セックス"と云う単語が、目の前の男性と身体を重ねたのだと示唆する。

 火神の事だ。無理矢理に手込めにする事は無いだろう。つまり、それは自分から男を受け入れた事になる。無意識とは言え、彼の誘いに乗ったのは……他の誰でもない"自分"なのだ。

 火神の嘘を見抜けない彼女は、膝を抱えて剥き出しになった肌を隠した。隣で項垂れた○○の頭を、上半身を起こした火神の大きな手が撫でる。その乱暴さ加減に髪の毛がぼさぼさになった彼女は、小さく頬を膨らました。

「……送ってやるよ」

 ――そうやって火神の部屋を出てから、早いもので一ヶ月が過ぎていた。○○は、あれから度々あった火神の誘いを全て断っている。彼女には成人式もあったし、休暇明けにはテストもあった。忙しいを言い訳にするには持ってこいの時期である。

 ……しかし、青峰から連絡は未だに無い。冬季休暇が明けてすぐ、彼女の身体に生理が訪れた。下着に付いた赤い染みは○○を安堵させた。大学から一番近い駅のトイレで五分程身体を前に折った少女は、寒さに凍えながら泣いた。

 その時は、肩の荷が下りたのと同時に、彼との繋がりが全て切れたのだと絶望した。振り向かせる理由が無くなった今、出来ない祝福を祈らなくてはいけない。だから声を上げて泣いた。

 『向こうが好きな人と幸せになれますように』……そう願える程、彼女は大人じゃない。


 ――――――――


 その寝室は中学からの友人のモノで、火神のマンションと似てベッドとクローゼットしか無い必要最小限にシックな部屋だった。持ち主もまた身長が高い為に、ベッドが大きい。何もかもが規格外に育ってしまった彼等は、こういう所で不便な事が多い。

 そんな清潔感漂う部屋に、二人分の影があった。廊下の向こうに広がるリビングからは楽しそうな声が漏れている。男は灯りも付けずに、窓に手を付いたオンナの後ろから衣服の中をまさぐっていた。女性は華奢な腰回りと豊満なバストがアンバランスで、茶色の髪からは香水と化粧と、少しの煙草の香りがする。

「綺麗……」

 感嘆の声を漏らし夜景を眺めた相手のブラを外し、大きい乳房に手を這わせれば柔らかい弾力が指を押し返す。埋もれていく指先が気持ち良くて、男は"巨乳"が好きなんだと再確認する。大きめの乳首も摘まみ上下に揺すると、オンナは艶やかな声で鳴く。大きくゴツい手が、女体を下へ下へ滑る。ミニスカートから覗く生足は細く、下着は両側が紐で括られている。撫でながら紐を引っ張ると、オンナは期待にまた艶声を上げた。

 濡れている……。

 蜜が溢れる下口に、太い指をゆっくりと根本まで挿入する。男は、女性器の内部が広いのに気付いた。彼女は相当遊んでいるのだろう。オレは何人目だ……? そう問い掛けるように中指を回し動かす。向こうの顎から首筋が反り、胸部で茶色い髪が踊った。男が簡単な愛撫を終了させ、両者は貪る目線を交わす。

「……大輝クン」

 名前を呼ばれるのが酷く厭だった。男は口を閉じさせようと唇を近付けるのだが、寸でで止めた。


 ……………………


「……人の部屋、ラブホ代わりにするのやめて欲しいんスけど」

 家主が寝室入口に凭れ、ベッドに寝転ぶ彼に文句を付ける。リビングからは楽しそうに悲鳴を上げるオンナの声がし、続いて何人もの笑い声が聞こえた。男女混合のパーティーは続いているようだ。

「あぁ……悪ィ……」

 注意された青峰は唇だけを動かし、お座なりにだけ謝る。黄瀬は「サイアクっスよ……」と溜め息混じりの悪態を付き、リビングへと戻った。

 青峰は、仰向けになると腕を枕にし、天井を眺める。

 ――抱けなかった。

 萎えた性器は、それでも常人よりは大きく、オンナは嬉しそうに口で奉仕した。だが、半勃ち以上にはならなかった。芯が柔らかいソレは、女性器に入るのを拒む。

 中途半端な状態でも、無理に進入させ腰を揺さぶれば、それとなくカタチにはなった。相手は気持ち良さそうに目を瞑り、喘いでいだ。乳房が激しく揺れ、見た目にもイヤらしい。男はそれを必死に掴み、揉みしだく。自在に形を変える脂肪の固まりの感触は、彼を淫乱な気分にした。

 ――だが無情にもそちらに夢中になれば、元気の無い下半身が膣内から抜ける。腰を押し込んでも入口で折れ、それ以上の行為続行は困難となった。

「――飲み過ぎたみたいだ」

 それが青峰が告げた謝罪で、同時に断りの台詞だった。相手は深く溜め息を付くとバサリと長い髪を流し、脱いだ服を身に付けリビングの喧騒へ戻って行った。

 目蓋を閉じると、黒子が言い残した言葉が脳裏へ姿を現す。

 見た目で人を好きになるのなら、写真にでも恋をしている。

 文学的で彼らしい言葉だ。判っている……。青峰は、別に桃井さつきの見た目に惚れていた訳じゃない。自分を内側まで理解してくれる優しさが好きだった。それが、長い付き合いが生み出した副産物だったとしても構わない。欲しいモノには代わりない。

 未だ惨めに桃井への未練を引き摺る今を、中高時代の自分が見たら「情けねぇ」と中傷混じりに笑うだろう。

 同時に火神のベッドで見た幸せそうな"彼女"を思い出す。いつも先に起きるのはアッチで、寝顔を見たのは初めてだった。

 火神は良い奴だ。きっと優しく彼女をもてなしたのだろう。青峰は、ベッドで重なり笑い合う二人を想像し、鼻で笑った。

 自慰のオカズにもならなさそうな光景だ……――。

 その冗談が、彼の強がりだとは誰も知らない。誰も気付かない。

 本人さえも、気付かない。