二人分の息遣いだけが静寂を裂くその部屋に、突如電子音が鳴り響いた。肩が跳ねた両者が、サイドテーブルに置かれたスマホを見る。裏返しに置かれたソレは、軽快に持ち主を呼び出し続けた。所有者は相手に見えないように画面を覗き、表示されたその名前に心臓を掴まれたような気がした。そして「ゴメン」と一声謝ると席を立ち、薄暗い廊下へと足を運ぶ。

 ――知られたくなかった。今ソファーに座る相手には、電話の向こう側に居るのが"青峰大輝"だと云う事を。コソコソしている事に罪悪感を持ち、溜め息を付く。留守電に変わりそうになる寸でに通話ボタンを押した。

「――ハイ」

『よぉ、火神』

 電話の向こう側から低い声が持ち主の名を呼んだ。

「何だよ、こんな時間に……」

 不機嫌そうな火神は、青峰との通話を始めた。

『今からソッチ行くわ』

 青峰は向こう側でそう呟く。その台詞に反応した火神は、胸元をボリボリ掻き「いや、今は……」とリビングの方をチラリと見た。漏れた光が薄暗い廊下に射す。

『……お取り込み中か? クリスマスだからな』

 鼻で笑った青峰は、火神の次に誘う人物を脳内で探り始めたようだ。黙り込んでしまう。こんな日の、こんな時間に捕まる相手は居るのだろうか? 訝しい顔をした火神は、相手を野次る。

「――お前だって相手居ただろ? そんで今からオレん所かよ。タフだな、コッチの身体が持たねぇよ」

 火神の意味深な冗談に、青峰は『テメェとはエッチしねぇよ! バァカ!』と怒った声を飛ばした。火神はハハハ……と皮肉を混ぜた笑いを漏らす。これだからコイツは面白い。もっともっとからかいたくなる……。

 誰も居ない空間で、普段の姿からは想像も付かない程に歪んだ笑みを見せた火神は、彼にこう告げた。

「………いや? いいぜ? 来いよ、今から"済ます"から一時間後に来いよ」

『随分と待たせるんだな?』

 青峰お得意の皮肉にも手慣れた火神は、余裕な言葉を返す。

「終わってからが長いんだよ、オレは」

『……ふぅん?』とテキトウな相槌を打った青峰は、用件を済ますとサッサと通話を終了した。

 途切れた電子機器を宙に放りキャッチした火神は「悪い癖だ」と呟きながら、自分の頭に浮かんだプランを遂行させる為に動き出す。男の雰囲気は丸っきりに変わっていた。


 ――――――――


 火神はキッチンに立つと、鼻歌を歌いながらコップにオレンジジュースを注いだ。向こうがオープンキッチンに立っている自分の姿に気付いたようだ。○○は、既に下着とキャミソールを身に付け、行儀良く座っていた。

 ――それが答えか。

 どす黒い閃きで頭が満たされている彼は、目の先に居る彼女の選択に何も言わない。唯一話し掛けた内容は「テレビ、観れば?」だけだった。

 男はサイドキャスターから素早く粉薬を手に取ると、オレンジジュースに混入する。かき混ぜながら目線を彼女に向けると、向こうはテレビのリモコンに手を伸ばしスイッチを入れていた。

「……喉、渇いただろ?」

 リビングに戻った火神は彼女にコップを差し出し、自分は缶に入った酎ハイを煽った。すっかり彼を信用している○○は、悪戯心で風貌が微妙に変わった火神に気付く事もなく、小さな唇にオレンジジュースを流し込んだ。喉が渇いていたのだろう。コップの半分程を口にした○○は、ケーキの隣にガラスのソレを置いた。

「んじゃ、下らねぇバラエティーでも見るか」

 難しい顔をしてニュースを読み上げている男性アナウンサーは、火神のリモコン操作によりテレビから姿を消した。代わりに映ったのは女性シンガーで、ほの暗くライトアップされたステージでヒットソングを歌っている。途中から始まった歌詞は、失恋を表したモノで○○はソファーの上で体育座りになり、膝を寄せた。

 彼女からしたら、何も聞かず手も出さない火神の優しさが嬉しかった。こうやって自分を大切にしてくれる。この人に恋をしたら、幸せなのだろうか……。

 彼の【醜い裏側】を知らない彼女は、そんな事を考え始めた。彼さえ良ければこのままこちらへ恋心を向けるのも悪くないな……と思いながら、眠気に身体を支配される。火神は、うとうとする彼女の頭を引き寄せ「眠ィのか?」と肩を貸す。頭をもたげられた男は、もう一度だけ彼女に問う。

「……オレにしとけよ」

 甘い台詞に相手の反応が無い事を確認した火神は、すぐさま行動に移す。彼女から慎重にキャミソールを脱がせ、ドレスの傍に投げた。そして下着姿になっても尚寝息を立てる○○を抱き、お姫様だっこで寝室へ連れて行く。

 ――愉快そうに口笛を吹きながら。

「起きてられっと色々面倒なんだよ、悪ィな」

 ベッドに寝かせた下着姿の女性。火神はブラジャーのホックを外し、オマケに首筋にキスマークを付けた。そして破ったコンドームの袋をベッドサイドの小さいテーブルに置く。使用しない避妊具はティッシュに丸めて捨てた。彼女が風邪を引かないように布団を掛けてやれば、向こうは気持ち良さそうに寝返りを打つ。

 Tシャツを羽織り、グレーのボクサーパンツ以外を脱いだその瞬間、玄関のベルが家主に来客を知らせる。火神は口元を歪ませ、寝室を後にした。

 キッチンのゴミ箱に投げられた睡眠導入剤の袋。それを、空になったオレンジジュースの紙パックが押し潰していた。深い睡眠で身体を早く治したいが為に処方して貰ったソレは、悪戯好きな彼の"遊び道具"へと姿を変えたのだった。


 ――――――――


 シャワーを浴び軽く髪を洗った青峰は、灰色のニット帽で頭を包んでいた。乾かすのすら面倒で大雑把な男は、時間短縮を優先させた。

「……まだ居んじゃねぇか」

青峰は玄関に置いてある華奢なパンプスを見て眉を上げる。出迎えた火神は、Tシャツにボクサーパンツと云うラフ過ぎる格好だった。

「寝室でグースカ寝てるぜ」

 家主はそう言って、寝室を親指で示した。青峰は見せ付けるかのように置かれた女性モノの靴の横に、自分のスニーカーを脱ぎ捨てる。

 リビングに通されると、ソファーには脱がされたのだろうパーティードレスと白いボレロ、オマケにキャミソールまでが掛けられていた。

「ヤらしい光景……」

 来訪者は、さっきまで情事に耽っていたような部屋に文句を付けた。

 ソファー近くのテーブルに置かれたホールケーキからは苺が2個消えていて、それと指を突っ込み生クリームを掬った後が見えた。火神は何気無く問い掛けた。

「食うか?」

「いらねぇよ」

 青峰はそう言いながらも、赤く熟れた苺をひとつ頬張る。噛み締めると、果物独特の甘酸っぱさが口に広がった。


 ……………………


「……んだよソレ、死ねよ」

 青峰から膝の病名を告げられた火神は、予想通りの回答を返した。心配していた分辛辣な発言をした赤毛の男は、残っていた酎ハイを飲みきって青峰に尋ねた。

「何か飲むか?」

「ビール」

 火神は素っ気なく答えた彼に、コンビニで買った発泡酒を出してやる。青峰は機嫌悪そうに口を曲げた。

「……青峰、用はそれだけか?」

「明後日からリハビリだ。毎日毎日プールでスイミングだぜ? 水泳選手にでもさせる気かよ……」

 発泡酒のプルタブを開けた青峰は、口を付けて泡立った液体を少し含むと不味そうに苦い顔をした。

「オレなんて断食だったぜ? 腹減ってミイラになるかと思った」

 火神はそうおどけながらも、粉砕骨折した当初を思い出して溜め息を吐く。運動しなければ筋肉が脂肪へと変化する火神は、安静一ヶ月の間、食事制限を強いられていた。その時の彼はまるで別人のように生気が無かったのだった。

 逆に適度な運動がないと急激に体重が減り、痩せてしまう体質の青峰はこの数週間で体重が三キロも落ちていた。高校時代から「バスケしねぇと食っても食っても痩せちまう」と愚痴り、その度に隣に居た桃井にバインダーで叩かれていた。

「……フラれた」

不味い発泡酒にチビチビ口を付け、青峰はそうぼやいた。

「――そうか」

 相槌を打った火神は、キッチンへ戻るなり冷蔵庫から金色なボディーが眩しい少しだけ値が張るビールを彼の前に出した。

「最初ッからコッチ出せよ!」

 そう文句を言いながらプルを開け、ビールを喉へ流し込む青峰を火神は頬杖を付き眺めた。

「お似合いだったんだけどな、お前ら」

 肩を竦めた火神は、青峰が残した発泡酒を手元に引き寄せ自分はソレを飲み始めた。

「……ざけんなよ、アイツ。マジで!」

 一人で居る時はヘロヘロして眠りの世界に逃げていた青峰は、誰かの前だと強気になれた。頭を掻いた褐色肌の男は、桃井が昨夜、前の彼氏と夜の街に消え、今朝は昨日と全く同じ服装で自宅前まで来た……と説明をした。口笛を吹いた火神は「大胆な奴だなァ」と素直な感想を述べるのだった。その台詞が気に食わなかったのか、青峰は言葉で噛み付いた。

「今のお前には絶ッ対引き合わせねぇからな! 何するか判らねぇ!!」

「少しは信用しろよ、オレを」

 以前も黒子に似たような事を言われた火神は、口を曲げて拗ねる。

「どうせ、オレに彼女なんか出来ねぇよ。……っつーかいらねぇし。めんどくせぇ。エッチさえ出来れば何でも良いんだよ……」

 ズルズル愚痴る恋愛に不器用過ぎる青峰は、そんな自分の情けなさに項垂れテーブルに突っ伏した。未だに誰も好きになった事が無い火神は、身を裂くような失恋を知らない。

「大変だな、お前も」

 火神は項垂れる青峰へ、それっぽい言葉を返す。

「……アイツの事も、傷付けるつもりは無かったんだけどよォ。さつきの事で頭が一杯で……」

 頭を上げる事なく青峰は、後悔を口にした。それが何を指すのか判った火神は、空になった発泡酒の缶をテーブルに置く。それはカツン、と軽い音がした。

「……お前から連絡して、出ないなら無理に責任取る必要ねぇよ」

 フン、と鼻で息をした火神は遠回しに『責任持って連絡しろよ』と告げる。

「連絡して優しくされたら、また甘えるんだよ。……オレはそういう人間だからな」

 もう酔ってしまったのか、青峰は珍しく弱音を吐いた。そんな弱気な彼を見た火神は「珍しいな」と思ったままに茶化す。

「……なら甘えろよ。案外待ってるかもな。相手からの連絡を」

 火神の優しい言葉に、青峰は顔をゆっくりと上げた。

「有り得るかよ? 1ヶ月近くシカトしたんだぜ?」

 しかし、青峰も青峰で頑固な人間だ。彼は、またネガティブで弱い部分を見せる。

「……普通待ってるだろ。どんなに酷い事されても、ソイツの事が好きならな。一途に電話待ってるもんだよ」

 火神のそれはアドバイスにしては生優しく、相手を甘やかすだけの言葉だった。しかし、抉れた心を持つ青峰を一時的にも救った事には間違いない。

 ――青峰が本音を言えば、今はもう○○に甘えたくて仕方なかった。また彼女に救って欲しかった。真っ直ぐに、こんなエゴにまみれた汚い自分の為に泣いたり笑ったり、文句も言わずに居てくれた。きっと彼女は今まで自分だけを見てくれていたし、これからもそうしてくれるだろう……。

 ○○は、今の青峰大輝しか知らない。青峰からしたら、過去の自分も、他の男も知らない"酷く都合が良いオンナ"だ。

 ――だが同時に○○は、彼にとって"凄く良い女"でもあった。そんな、正直タイプにも該当しない彼女に恋をするなら、一途に自分だけを愛してくれる部分に惚れるのだろう。

 桃井を引き摺る今はまだ彼女に恋をしそうに無いが、夢に見たあの心地よさはきっと……――。

「……火神、お前良い奴だな」

「明日、槍が降るな。窓補強すんの面倒だからやめろよ、そういうの」

 突然の素直な褒め言葉に、火神の顔が歪む。素直な青峰を心底気味が悪いと思っているに違いない。

「――待ってると良いな。……一途に」

 そうして火神は青峰に笑い掛けた。それは彼の心からの本音だ。

 青峰はジーンズの定位置に入っている古臭い携帯に手を置いた。明日3つ同じ数字が続くあのオンナの番号へ電話を掛けようと、ぼんやり考える。

 謝ろう、許してくれないかもしれないが……。青峰は身に刺さった棘が抜けるのを信じ、神に祈った。


 ――――――――


「……んじゃオレは、お前のお姫様でも見て帰ろうかな?」

 ――それは彼のほんの気紛れだった。よせば良いのに青峰は、自らを崩壊させる道を知らずに進んでしまう。運命の悪戯は彼に容赦が無かった。

 肩がピクリと動いた火神は口元を覆う。

 まさか……お前から提案するなんてな――。

 手で覆わなければ、ニヤけた口元が相手にバレてしまうだろう。火神は、何も知らずに寝室へ向かう青峰の背中を眺めながら、彼に声を掛けた。

「……手ェ出すなよ?」

「お前と穴兄弟になる気は無ェよ」

 火神の牽制をスカして鼻で笑った青峰は、寝室のドアを開ける。暗い室内の中央、そこに大きなベッドが鎮座していた。白い清潔そうな掛け布団は盛り上がっており、誰かの存在を認めていた。

 青峰は、火神の相手がどの程度のレベルなのか一度で良いから見てみたかった。美人なら嫌味を言うつもりだったし、ブスならブスで今後のネタに出来る……。そりゃ希望は後者だが、ソファーに投げられていた服を見れば太ってはいなさそうだ。

「……ホント、よく寝てんな。どんだけ激しかったんだよ」

 青峰は、小馬鹿にしながら布団に手を掛けた。テーブルに置かれた中身の無い避妊具の袋を視界に入れながら、ゆっくりと布団を捲る。


 ――青峰はソコに居た、美人でも不細工でも無い、"普通の少女の顔"を見た瞬間に固まった。

 少女は幸せそうに眠り、ずれた下着を直そうともせず、彼が何度も触り撫でた小振りな胸を晒す。首筋には綺麗なキスマークが付いていた。目の前に置かれた避妊具のゴミが、逃れられない証拠になる。

 青峰は顔を覆い、フラフラとベッドから離れる。見間違いかもしれない……。考え過ぎてダブらせてしまっただけだ……。こんなオンナどこにでも居る――そう言い聞かせて意識を保とうとした。

 しかし、青峰はベッドの中の少女を再度確認するのが堪らなく嫌だった。そして堪らなく吐きそうになる。そんな混乱している男に、戸口にもたれ掛かった火神は声を掛けた。

「知り合いか? ……あぁ、お前金借りたんだっけ?」

「――火神、テメェ!!」

 青峰は、しらばっくれる火神のTシャツを掴み、首元を捻り持ち上げた。怒られる筋合いの無い火神は、溜め息を付き青峰を見下す。

「手ェ出すな、って言ったよな?」

 青峰が捻り掴んだ火神の襟首が、更に歪む。

「……青峰。オレにも、だ」

 火神から至極冷たい視線と声で責められた青峰は、『何でコイツがココに居るんだよ!!』と叫びたくなったのをグッと飲み込む。男はたった今、ひとつの希望を失ったのだと、その身に感じた。

 全ての事から逃げたのは結局自分だった。強烈な野次を飛ばされ、悔しく寂しい思いをした時に誰も着信に出なかった事を思い出す。

「忘れたいってさ……。良かったな、肩の荷が下りて」

 火神に肩を叩かれた青峰は、乱暴に掴んでいた手をずるりと離した。俯いた顔は、暗闇で強気の笑みを作る。

 ――子供時代から愛した女性に裏切られた気になり、初恋を終わらせた。そうだ、終わらせたのは他でも無い自分だ……。

 逃げた彼を待ち受けていたのはこの凄惨な結果だった。青峰は、傷心した情けない自分を包んでくれるであろう○○と云う存在さえも失った。

 明けない夜は無い。

 ……彼らを乗せた地球は、相変わらず自転を繰り返し朝を運んで来る。だが、太陽の無い"彼の世界"では、この深い闇を切り抜ける為、光を求めて走り出すしか無い。

 そんな単純な事にさえ気付かない青峰は、世界が終わったその場所から動けずに……ただ立ち竦むのだった。