大通りから少し奥張った場所にある最寄り駅。そこで○○を待っていたのはフォーマルなスーツに身を包んだ火神だった。、彼の後ろには白いエルグランドが駐車している。所有者は手を上げ、彼女へ挨拶をした。

 火神のフォーマルは少し崩れていて、ノーネクタイにジャケットは前開き。更にシャツを第二ボタンまで開けた彼は、珍しく髪をオールバックに纏め、凛々しく特徴的な目元を惜しみもなく晒す。男の大人びた雰囲気に、○○は精一杯身支度した自分が霞む気がした。結局髪は上手く巻けずに、いつものままだ。それが芋臭さを消せず、せっかくの綺麗なワンピースに負けている。

「何だよ、大人っぽいじゃねぇか」

 口を開けばいつもの火神だった。彼女の前に立つスーツの男は、上から下まで○○に視線を流すと、流暢な外国語で何かを呟いた。英語に疎い彼女は首を傾げる。

「……"いつもよりずっと綺麗だ"って、言ったんだよ」

 シラフであまり女性を口説かない火神は、恥ずかしそうに頬を掻いた。

「ホラ、乗れよ」

 彼は照れているのを隠すかの如くぶっきらぼうに言い放ち、サッサと運転席へ乗り込んでしまった。○○は突如出た歯の浮く褒め言葉に、顔が赤くなるのを感じた。

 その白いエルグランドは火神が趣味のサーフィンに興じる為のモノで、後部座席は全て倒され、サーフボードが窮屈そうに身を置いていた。車内は黒を基調としたシックな内装で、鮮やか過ぎる真っ赤なサーフボードは場違いな気がする。その近くにはスエットスーツが丁寧に畳まれ、カゴに入っている。

「オンナ乗せんのは初めてだ」

 火神は言うと、シフトレバーをパーキングからドライブへ入れた。

「ごめんね?」

「いや、窮屈で悪ィな」

 初めて乗る女性が自分である事へ謝る○○は、男から逆に謝罪される。

 外装からして高そうな車だ。レザー製のシートは高級感を醸し出し、ドレスアップした少女はお姫様になった気分になる。隣で真面目な顔をしてハンドルを握るスーツの男も、自分なんかよりずっとずっと年上に思えた。

「どこ行きたい? メシ予約してるけど、嫌ならキャンセルするぜ?」

 真っ直ぐ前を見ている火神にそう問い掛けられる。レストランを予約していると云う彼は、シンプルな店名を彼女に告げた。検索すると、いかにも高そうな高級感溢れる紹介サイトが出てきた為に、彼女は慌てる。

「こんなにお金持って無いよ!」

 少女がそう断りを入れると、火神は声を上げ笑った。

「奢りに決まってんだろ!」

 そうして笑いを引っ込めた火神は「……こないだのお詫びにな」と、元気の無い声で言葉を続ける。その言葉にワンピースの裾を掴んで握った○○は、俯いた。

 何で彼らは、自分に対しこうも良くしてくれるのだろうか。青峰も、彼女に『お礼だ』と言っては高いマフラーを押し付けてきた。結局、あの贈り物は身に着ける気にならず、クローゼットへ片付けてしまった。

 気持ちを伝えるのに巧い台詞も言えず不器用な彼らは、身に余る金銭でしか"他者への感謝"を伝えられない人間だ。その事に気付かない○○の心中には、申し訳無さだけが積もるのだった。

「……化粧、オレはソッチの方が好きだ」

 彼女はフォーマルな格好に負けないよう、化粧も念入りにしてきた。長い付け睫毛も貼り付け、その重たさに目蓋が下がる。皮肉にもそれは、愛しい彼に「好きじゃない」と否定されたメイクとまるで同じだった。そうやって○○は何気無しに青峰を思い出し、その度に胸が痛くなる。先の褒め上げに何も言わない○○を、照れているだけだと誤解した火神は「すぐ照れるんだな、○○は」と彼女の名を口にした。


 ……………………


「かしこまらなくても、普通の店だ」

 信号を待つ間、ネクタイを締めながらそう言った火神の言葉を信じていた。……が、彼の車はいかにもなグランドホテルの駐車場へ滑り込んだ。そりゃ相手も『ドレスアップして来い』と言う訳で、二人は入った事も無い豪華絢爛なエントランスを通り、チカチカする位に高度な場所までエレベーターで進む。

 ガラス一面に浮かぶ夜景は、寒さで澄んだ空気が街中で光る多種多様なライトを更に眩しく見せた。


 ――――――――


「ディナーコースで良いよな。選ぶにも分かんねぇだろ」

 まるで機械のように落ち着いたウェイターから提供されたメニュー。火神は、固まった○○の代わりにウェイターへ「彼女にコースを」と告げ、自分は恐ろしい程に難しいメニューを、恐ろしい程大量に頼み出した。その止まらないオーダーに、どこか機械的だったウェイターは、たじろぎ出す。

「……沢山食うからエンゲル係数ヤバいんだよなァ」

 メニューを下げられ、テーブルにマットとコースターのみが置かれた。纏めた髪に手を置き項垂れる火神から、エンゲル係数なんて小難しい単語が出た事に少女は笑う。そして高校時代、目立つ彼を話題に出し「火神君って……いつも何か食べてるよね」と笑ってた友人達を思い出した。当時の友人達は、ボーッとしながら質量のありそうな惣菜パンを貪る火神を見て、からかっていたのだった。

 ○○の前にワインが注がれた。綺麗な深い赤は、発酵した果物のツンとする香りを出す。火神は氷水が入った素っ気ないグラスを傾け、乾杯をする。ジャズ調の落ち着いたBGMとほんの少しの雑音に、二つのグラスが触れ合う軽い音が響いた。

 ――そこからの彼は凄まじかった。○○の前に綺麗に盛り付けられた前菜が運ばれた。感動で写真を撮っていいのか迷っていると、火神の前に次々と料理が運ばれて来る。彼女はその皿の量に驚いた。二人分にしては広かったテーブルが埋まっていく。火神はそんな目を丸くした彼女を気にも止めず、色鮮やかで眺めても楽しい料理を片っ端から口に運び、顔を上げる事なく放り込んでいった。

 前菜をかじった程度にして目を丸くする○○へ、火神はモゴモゴながらに声を掛けた。

「ちゃんと食えよ。そんなに痩せちまって」

 彼は自分を見ていてくれていた。――その気遣いに嬉しくなった○○は、再び料理に手を付ける。

 不快にならない程度のテーブルマナーを駆使し、豪傑に食事をする火神を、周りの客は視界に入れたがる。そんな視線を気にもしない彼の自信に満ちた佇まいは、"自由な御曹司"を彷彿させた。そんな火神に徐々に周りの人間は興味を無くす。男の大胆な姿で○○の緊張は解け、少しだけ居心地が良くなった気がした。

「しばらくは車だからトイレ行っとけよ」

 食後にコーヒーを啜る火神へそう促され、少女は化粧室へ向かった。そして、その間に会計を済ませていた火神のスマートさに『何で恋人が居ないのだろう?』と疑問を持つ事になる。

「……スゲェヤベェ」

 ……だが、二股に分かれた眉をしかめる相手に見せられた領収書。彼女はそこに提示された金額に、『これは恋人が出来ないかもしれない』と失礼な感想を持ってしまった。


 ――――――――


 お詫びにしては贅沢過ぎるディナーを終えた二人は、帰路に立つ。それはあっという間の時間だった。凡人の彼女にはもう縁が無い世界なのだろう。

 男の車は街中を走り、いつもの下界に戻った○○は、普段目にする高さでイルミネーションに彩られた街を楽しんだ。

 全長5M程のクリスマスツリーは、様々な電飾で身を飾っていた。その鮮やかな姿に興味を示した彼女は、火神へそれを教えたかったのだ。しかし、彼女の口から出た言葉は別の人物を呼ぶ。

「見て、アレ! 綺麗だよ"青峰君"!!」

 青峰の名前を呼ぶのが癖になっていると気付いた彼女は、何も言わない火神へ謝った。

「……ごめんなさい、間違えて」

「忘れろって。青峰なんか」

 前の車がブレーキを踏み、赤いランプで停止を知らせる。ブレーキペダルを踏みながら、火神は彼女へそう声を掛けた。○○は何も言わずに、窓から見えるクリスマスツリーをただ眺めた。

「……アイツ今、好きな奴が出来たって浮かれてるよ。今日だって、その好きな奴と過ごしてんだろ」

 火神は、追い討ちを掛けるかのように残酷な事実を彼女に告げる。

 ……言うつもりは無かったが、どうせ諦めなければいけない恋なら早く処理してやった方が向こうの為だ。火神のその優しさは歪で、一歩間違えたら相手を悪戯に傷付けるだけだった。

「……ああいう奴は無駄なんだよ。好きになるだけ」

 エンジン音に掻き消されそうな声で火神は呟く。男の辛辣な一言に触発されたのか、涙だけが○○の頬を滑った。

 彼女が思い出すのは、その男の色香ある声と、逞しい腕に厚い胸元だった。だけど今はもう朧気で、体温さえ覚えていない。

 ――その場所に今、別の女性が身を埋めているのかもしれない。きっと彼に愛されているその女性は、自分と正反対なのだろう。モデルのように綺麗で、余裕のある大人な女性で、彼の全てを理解出来る要領の良さを持ち合わせているに違いない。彼女の中に、激しい劣等感が生まれた。

 こうやって自分の全てを焦がしながら彼と過ごした僅かな時間は、寒さと一緒に消えていくのだろう。眠りに付けば夢の中にいつも彼が居た。少女は起きて着信が無いかを確認して、非情な現実に打ちのめされる。それでも、眠りの世界には逃げられない。

「……もうやだよ。辛い……」

 無意識に下腹部を押さえる。そこを庇うかのように身体を曲げると、シートベルトが胸部に食い込んだ。それでも彼女は身体を小さく折り畳み、嗚咽を漏らす。膝に目蓋を付け、泣きじゃくった。ストッキングが濡れ、押さえ付けた目の前がチカチカした。

「それでも、青峰君が……わたしを、忘れるのだけは、嫌……」

 ワガママかもしれないが、せめて彼の意識の一部に自分が居てはくれないだろうか……。彼女はそう願う。

 彼が他の女性を抱いていても、愛していても、誰かと一緒に笑っていても泣いていても怒っていても――○○と云う存在を少しでも感じて欲しかった。そして『アイツは可愛かったなぁ』と、思ってくれないだろうか。

 神様が居ると言うのなら、彼をもう一度自分の方へ振り向かせてはくれないだろうか……――。

 上手く喋る事も出来ずにしゃくりあげながら、彼女は必死に言葉を紡ぐ。火神は、それをただ黙って聞いていた。

 整理されていない。
 理屈も何もない。
 感情だけがただ垂れ流された言葉だ。


 ちゃんと愛されたい。もっと愛されたい。時間を自由に操れるなら、彼と過ごした幸せな時期だけを延々に繰り返したかった。

 ○○は初めてあそこまで人を好きになった。【寝ても覚めても】……この言葉に当てはまる事が本当にあるなんて、少女はずっと信じていなかった。


「……名前間違った罰に、キスしろよ」

 火神は、泣いてぐちゃぐちゃになった彼女にそう命令した。国道と国道が交わる大きな交差点は信号待ちが長く、時間は充分にある。シフトをニュートラルに入れ、真っ直ぐに彼女へその視線を向けた。

「ほら、ココで良いから」

 火神は人差し指で自身の左頬を叩く。○○は鼻を啜りながら、涙で溶けた目を瞑り、火神が差し出した頬に唇を近付けた。彼の頬が近い……――。

 火神が待っていた頬を素早く左へずらすと、唇と唇が触れ合った。その急なキスはいきなりにも強引で、上手く合わせられもしない不恰好なモノだった。

「……ヒドイ顔だな」

 運転席から身を乗り出した火神は、彼女の頭を抱え身体をこちら側へ誘導した。そして再度唇を合わせ、少女の口内に舌を入れる。アイドリング中のエンジン音と、舌が触れ合う水っぽい音が車内を満たし、○○の意識をその間だけ支配した。

 ――背後の車がクラクションを鳴らす。いきなりの警告音に二人は驚き、唇を離すと信号が青に変わっていた。下手くそな笑顔を見せた火神は、首に回していた手を外しハンドルを握る。そしてハニカミながら国道を塞いでいた大型車を発進させるのだった。


 ――――――


「この後どうするか、○○が決めろよ。このまま自分家に帰ってメソメソ泣くか。……それともオレん家に来て、下らねぇバラエティーを一緒に観るか」

 待ち合わせた最寄り駅に着くと、火神はそう問い掛けて来た。デジタルの時計は【22:07】と時間を教える。

 きっとこのまま家に帰ったら"青峰が誰かを幸せそうに抱いている光景"が浮かび、苦しくて死んでしまいそうになるだろう。青峰大輝は「付かねぇな」とニヤケながら、その人の首元や鎖骨、肩周辺にも下手くそなキスマークを付けるのだろうか……。

 鞄からスマートフォンを取り出した○○は、母親に電話を掛け「今日は大学の女友達の家に泊まるね」と嘘を告げるのだった。