「三ヶ月は大人しくしてね! 全く、こんなになるまで放っておいて! 馬鹿なの!? アンタの人生よ!?」

 白い診察室に、白衣を着た女性の激が飛ぶ。目線より少し上にはレントゲンの写真が数枚貼られ、被写体は一応気まずそうにしているが、デカイ図体を椅子に投げ出していた。

 チーム専属のスポーツドクターは、綺麗だが痩せすぎてどこか骨々しい年配の女性だった。アイシャドウが青く、それがまた厳しさを生んでいる。

「……リハビリ、年末からあるからサボらないで。給料泥棒になりたくないならしっかりしなさい」

 甘えの一切が無い言葉に青峰は頭を掻いた。病名は【膝蓋腱炎(しつがいけんえん)】。医者が言うには、骨に抵触する程まで伸びきった神経は手術の必要も無く、自然に戻る見解だ。

「……何だよ。ただのジャンパー膝じゃねぇか」

 こんなにもアッサリ心配事が無くなるなんて、もっと早く来りゃ良かった……と青峰は後悔した。足首の粉砕骨折をした火神に伝えれば「死ね」と言われるかもしれない。

 窓口でリハビリの予約をする青峰の横には、一緒に付いてきた桃井さつきが立っていた。彼女は、自身が望んでいる将来の仕事を間近で見る事が出来て興奮している。

「あの人格好良いよ! 大ちゃん!」

 幼馴染みはそう騒いで、男の太い二の腕をバシリバシリと叩いた。

「お前があんなんなると思うとゾッとするぜ……」

 青峰が溜め息を付きながらそう言う。彼の頭には『給料泥棒』と云う刺々しい台詞と、女医の強烈な三白眼が浮かんだ。

 今日は朝から冷え込み、外にはチラホラと雪が舞っていた。冷たい北風が二人の身に凍みる。青峰はサッサと帰って寝ようと思った。昨夜は診断への不安と桃井に会える緊張で眠れなかったからだ。しばらくコチラに居ると言う彼女とは、別に今日過ごさなくても良いだろう。面倒臭い。

 ――今日がクリスマスイブだと知らない青峰は「じゃあな、オレ寝るから」と病院を後にしようとした。そんな彼のダウンジャケットを、華奢な腕が掴む。

「買い物、付き合って。明日給料日でしょ?」

 桃井の可愛らしい笑顔の裏には、財布と荷物持ちを頼もうとする悪どさが明け透けていて、青峰の口元は引き吊ったのだった。


 ……………………


 イブで賑わうファッションビルは、年末セールで華やかだ。通路には自店で開催しているセールを元気に叫ぶ低身長の店員。青峰は通りすがりに、そのエネルギーが小さい身体のどこに入っているんだと疑問さえ持つ。

「コートが欲しいな、大ちゃん」

 ショーウィンドウを指差した桃井は、男に可愛くオネダリをした。

「やっぱお前……その気で連れて来たのか」

 拒否出来ずに項垂らした巨体の男を尻目に、桃井はキラキラした店へと入って行く。

 彼女の選んだショップ店内はダイヤを散りばめたように輝いていて、男の青峰には酷く居心地が悪かった。周りの女性が、背の高過ぎる自分を見てヒソヒソ何かを話す。男は完全にアウェイなこの場所から、早く姿を消したかった。

「ねぇ、この帽子可愛くない?」

 青峰は仕方無く、嬉しそうに小物の試着をする桃井を目を細め眺めた。店内の女性で一番可愛く、スタイルの良いオンナを連れ歩くのは良い気分だ。そんな高揚感と共にやって来た"眠気"が彼の身を襲い、青峰はお洒落な店内で欠伸をする。意識がぼやけ、目蓋が重く感じた。

――それは彼からしたら無意識の生み出した単純な台詞だった。ぼうっとした頭脳は、考えるより先に反射的に口を動かしてしまったようだ。

「タグ付けて歩くんじゃねぇぞ、○○」

 ――自分が何を口走ったのか理解出来たのは、目を丸くして驚きコチラを見た桃井と目が合ってからだった。青峰は状況を理解してすぐ、頭を殴られたような衝撃を受ける。

「……タグ付けて街歩く馬鹿が、居たんだよ」

 何も言わなくなった桃井へそう告げた男は、彼女が持っていた帽子を引ったくるとレジへ足を運んだ。

 会計している間、青峰の頭の中は混乱していた。何故だ、何故だ、何故だ……。答えが見付からない自分への疑問が、青峰の思考を支配した。

 随分前、投げ遣りに渡したプレゼント。一人の少女はタグを付けて嬉しそうに笑った。その滑稽な姿がふと浮かぶ。

「……名前、始めて呼んだ」

 ボソリと口に出た彼の低い言葉に、店員は首を捻った。


 ……………………


 空も暗くなり、辺りがクリスマスらしくライトアップされている。「キレイ!」とはしゃぐ幼馴染みを抱き締め『自分のだ』と主張したくなった青峰は、咳払いで会話を始めた。

「――さつき、お前さ……この後どうすんだよ」

 彼の心臓がバクバクと音を立てた。何も自室に呼ぶのなんて、昔はしょっちゅうしていた事だ。当時の自分からしたら緊張するのも馬鹿馬鹿しい。

 ……だが、彼女への淡い恋心がある今は違う。そんな彼の変化を察したのか、桃井は恥ずかしそうに問い掛けた。

「――大ちゃんは、どうしたい?」

「……帰したくは、ねぇな」

 青峰は、彼女のチークで紅く染まった頬に触れた。柔らかくてキメが細かい肌は、もう離したくない位に皮膚に吸い付く。周りにはキスをしているカップルも見られる。

 ――だって今日は、クリスマスイブだ……。

 心臓は皮膚を突き破りそうな程に跳ねて、呼吸が乱れ息苦しい。桃井が静かに目を閉じる。青峰は今までの彼女を思い出した。青峰は、長い年月自分の傍に居てくれた彼女を、滅茶苦茶に抱きたいとまで思っていた。

 ――そんなキスまで近い彼等を、突如男性ボーカルの歌が引き裂く。そのくすんだ声は、桃井の鞄から流れていた。

「……ごめん。待ってて」

 バッグからスマートフォンを取り出した桃井さつきは、ネオンに紛れ何処かへ行ってしまった。着信を取る彼女は嬉しそうで、口元が緩んでいる。楽しそうな彼女と対照的に、通話を優先された青峰は、行き場の無い不信感を抱えた。

「用事が出来たから……行かなきゃ」

 戻ってきた桃井が、寂しそうにそう告げる。「あ、あぁ……」と空返事しか出来ない青峰は、先まで頬に触れていた左手をポケットに突っ込んだ。

「駅に、友達迎えに来てるから……」

 気まずい雰囲気になった少女は、この場でサヨナラを告げる。名残惜しい青峰は「駅まで送るよ」とだけ言い、無言のまま大通りを歩いた。先日のように彼女の3歩後ろを、見守るように。

「ココで良いから! ありがとっ」

 駅に着いた瞬間、桃井はそう言いロータリーに停まっていたよく磨かれた赤いレクサスの助手席へと乗り込んだ。運転席に座っている男性は、夜なのにサングラスを掛けて大人びている。まるでドラマのような二人は、一度も青峰の方を見る事もなく夜の街へ向かって車を走らせた。

 ――あぁ、オレ……免許も持ってねぇや。

 そんな情けない事実に気付いた青峰は、勘で今の運転席に居た男が【別れた前の彼氏】だと悟った。そして……今しがた自分を裏切った彼女の行動が、何週間か前に自分が○○へ取った行動に酷似している事にも気付き、独りネオンの中を歩くのだった。


 ――――――――


 毎月固定に近い金額が通帳に振り込まれる。それが現在の彼を精神面で支えていた。そして、彼は通帳を見る度に『お前の居場所はココにしか無いんだ』と告げられているようで悔しかった。記帳を終了した火神は、天に向かって溜め息を吐く。

 十二月二十五日。天気は曇ってぐずぐずしているが、電飾が街を華やかに彩り、夜になればライトアップできらびやかになるのだろう。店先でホールケーキの販促をしているサンタの格好をした女性が、今日が何の日か教えてくれる。昨日から続くお祭り騒ぎも、明日になれば全てが撤去されまた来年と手を振るのだ。

 火神が再度溜め息を付くと、目の前が呼気で白くなる。身長の高い彼は、どんな格好をしていても目立つ。プロ入りした時に買った海外ブランドのジャージで身を包み、凍える寒さに耐えた。そうしてスマートフォンを取り出した火神は、電話帳からある人物を探し出し、通話ボタンをタップする。耳元では軽快な男性ラッパーの音楽が流れ、その歌が彼女のイメージに繋がらずに少し可笑しかった。

 やがて音楽は途切れ、『……おはよう』と目覚めの悪そうな声が聞こえる。火神は、チラリと曇った空を見て話し出した。

「モーニン、良い朝だ」

 電話の相手は、彼のそんな冗談にも無言だった。


 ……………………


 ――その少女は、連絡が付かないのがこんなにも不安になるとは思いもしなかった……。火神に嘘を付き心配掛けたその日から、青峰が彼女を呼び出す事は一度も無かった。火神は何も彼に伝えなかったのだろうか……。

 そうは思いたくはないが【ヤリ逃げ】と云う言葉が○○の脳裏をよぎる。

 ○○がベッドにその身を投げ出していると、着信が入った。画面に表示された名前と、未登録のアイコンが少しだけ意識を覚醒させる。

「……おはよう」

 思った以上に不機嫌な声が出て、○○は相手に申し訳なく思った。時計を確認すれば十時を超え、朝では無い事を示している。だが、相手も彼女の時間概念に乗っかり『モーニン、良い朝だ』と、向こう側で元気な声を出した。窓を見ると、空は薄く灰色掛かった雲で一面が覆われていた。

「どうしたの?」

 誰とも話したく無い○○は、世間話もせずに早急に用件を伺う事にした。

『……泣いてると思って、だよ』

 火神のストレートで飾りっ気が無い理由に、○○の目頭が僅かに潤む。彼は普段から単細胞が服を着て歩いている男だ。こういう弱っている時、その真っ直ぐさを武器に狡い程に心へと入り込んで来る。

「……大丈夫だよ! 昨日ケーキ、食べ過ぎて気持ち悪いけど!」

『そんな理由なら、安心したぜ』

 男が電話の向こうでハハハと笑う。その声が少しだけ不安そうで、○○は震える声で「大丈夫だよ」と呟いた。

 火神は笑い声を引っ込めると、至極優しい声で彼女にある予想を告げた。

『あぁ……。でもお前、あと一分したら泣くだろうな』


 ――――――――


 二人の間に少しだけ、無音が流れた。そうしていると『何でそういう事、言うの?』と少女の声に泣きが混じる。それを聞いた火神は「一分も要らなかったな」と、肩を竦めた。

「――今日、何してんだよ?」

 ジャージの襟首に顎まで突っ込み身を丸くした彼は、少女に本日の予定を伺う。奇しくも今日はクリスマスで、街行く人々は幸せそうに見える。明るいイベントに全体が輝く、クリスマスマジックだ。そんな期間限定の魔法に掛かりもしない程ドン底に居る○○は、『寝てる、かな』と寂しく呟いた。

「オレも独りだよ。銀行に行くしか予定がねぇ。それもさっき終わった」

『黒子君達は?』

 うぅん……と少し考えた火神は、自分の交友の狭さを実感しながらも、彼女の質問に答えてやる。

「黒子は家族と過ごすだろ? 黄瀬は撮影で、あと青峰は…………」

 最後の名前を出した瞬間、火神は息を飲んだ。しかしそのまま押し黙るのも失礼だと思った男は、何事も無かったかのように言葉を続けた。

「病院だよ、アイツは。リハビリ中」

 火神は髪の毛を掻き乱した。いつもこうやって余計な事を言ってしまう自分に苛立ちさえ感じているからだ。

 青峰は、リハビリになんか行かないで大好きな馴染みと過ごすのだろう……。もしかしたら昨晩から泊まって、愛を確かめ合ったのかもしれない。

 火神のその"優しい嘘"は○○を救う事も無ければ、傷付ける事もしなかった。ただ、現状を膠着させただけに過ぎない。

 火神は『乗り掛かった船だ』と、ずっと気になっていた質問を彼女へぶつけた。

「……まだ、青峰から連絡無ェのか?」

 そう訊ねると、彼女は『……そうだね』とだけ口にした。それ以上は相手を罵倒する事も無く、ただ黙り込んでしまう。その気丈さが余計自分を"惨め"にさせている事に、恐らく彼女は気付かない。

「だからやめとけって言ったんだよ。バカだな……」

 そう相手を批難した火神は、泣き出した相手が落ち着くまでずっと……寒空の元、立ち尽くすのだった。

 弱い彼女をフォローしなくてはいけない。泣きじゃくる○○の声を聞いていると、そんな気がした。火神には何の関係も無いのに、彼は首を突っ込み出す。そうやって、自分の中の父性本能に似た何かを感じた。

 彼女は、オレが守る……――。火神は、聖なるクリスマスにそう誓った。

「夕方から出掛けようぜ? オレと二人で良いなら。好きなトコ連れてってやるからよォ」

 向こうが落ち着いてきた頃に、彼はクリスマスの予定をお互いで埋めようと提案した。

「クリスマスだし、ドレスとかあんなら着て来いよ」

 せっかくのイベントを彼なりに楽しもうとしているのだ。従姉に貰った白いボレロと、シャンパン色したパーティーワンピースがクローゼットの隅にあるのを思い出した○○は、火神の提案に賛成をした。


 ――――――――


 一晩経ってもモヤモヤが続く青峰は、桃井の誘いを「オレは、車もねぇから」と嫌味で断り、ベッドに寝そべっていた。今更『二人で出掛けたい』だなんて、どんな風の吹き回しだろうか?

 ――悪い事じゃねぇ。別に気にしなければ良い。アイツを呼び出す着信も、メッセージも……。いちいち律儀に返信をしたり電話に対応するのは交友を深める為、当たり前に必要な事だ。そんなの自分が我慢をすれば良い。モテる彼女だと、自慢すれば良い。

 そう考えた青峰だったが、アレだけは……見せ付けるかのようにレクサスに乗り込み、夜の街に消えた彼女の姿だけは、どう処理すれば良いのだろうか。今朝、桃井から連絡が来たので【前の彼氏と元サヤに戻る】と云う事は無さそうだ。

 しかし、今日会ったら前の彼氏と比べられそうで、それが堪らなく厭だった。

 枕代わりにしていた左腕から感覚が無くなっているのに気付かない青峰は、ウトウトと微睡み始める。ぼんやりした意識の中に居たのは、桃井とは正反対の"モテる"と云う事とは無縁そうな少女の顔だった。彼からしたら、口元だけがお気に入りの……たったそれだけの……――。

 青峰は大きく溜め息を付き、左腕を支えに身体を起こそうとした。だが、痺れて感覚を失った腕は上半身を支えきれず、軸が傾く。結局また寝そべる羽目になった青峰は、ジンジン痺れる左腕で目元を隠した。

「……何してんだ? オレ」

 何であの場面……桃井とのショッピングで、"彼女"の名前が出てきたのだ? 何で本人にさえ名前で声を掛けた事が無いのに、その名を口にしてしまったのだ?

 驚いた桃井の顔が脳裏にフラッシュバックした。忘れようと思えば思う程に、後悔として身に染み込んで来る。刺さった棘は茨になり、身動きする度にその身を傷付けた。

 例え○○との関わりを忘れたとしても、世界は何も変わらない。忘却は己だけしか救済しない。

 チャイムが彼を呼び出した。青峰が面倒臭そうに立ち上がり、部屋に備え付けられたモニターから外を覗く。すると、昨日一緒に病院へ行った美少女が映っていた。風呂にさえ入っていない青峰は、だらしない格好に少しだけ躊躇したが、寝間着のまま玄関へと向かう。

「……迎え来たよ」

 コイツは昔からそうだ。こうやって強引にもオレを連れ出そうとするんだ。

 ――昨日までなら、こういう変わらない部分が嬉しかった。しかし、全身が茨に囲まれた今の青峰は、素直に喜べずに居る。

「……で?」

 男は冷たい口調で彼女を突き放した。ナンバーワンにもオンリーワンにもなりたい贅沢な彼は、些細な裏切りにも厳しく当たった。

「昨日の彼氏にでも構って貰えよ……。今まで一緒居たんだろ?」

「大ちゃん……!」

 桃井は何かを言おうとしたが、そのまま口を結ぶ。彼女は昨日と同じ服で、同じ靴で、同じバッグを抱え……知らない匂いを身に纏っていた。こちらを気遣いもしないのか、朝帰りさえも彷彿させるその格好に憎々しさすら感じた青峰は、更に桃井を問い詰める。

「何で来たんだよ。知ってんだろ? オレのメンドーな性格位。……帰れよ」

 彼女に『己の全てを悟れ』なんて贅沢な事を言うつもりは無い。――でも、あんな光景見せて、更にそんな格好で来るなんて……。こちらがどう思うか位は考えて欲しかった。断る彼女を「駅まで送る」なんて言わなければ良かった。……見なければ良かった。

 さつきは多分、まだ前の彼氏を引き摺っている。好きだからこそ苦しい。愛しているからこそ許せない。

「――好きな人と会っちゃ駄目なの……?」

「…………は?」

 桃井の口から出た"好きな人"が、どちらを指しているのか判別出来ない青峰は、思わず固まった。そして心臓が大きく跳ねる。僅かな希望に期待した胸が、この身の鼓動を早くする。

 ――だが、彼女の唇は残酷な答えを用意していた。

「……別れても、好きだったから」

 愛しいとまで感じた幼馴染みの大きな瞳が潤む。その泣き顔さえも整っていて、水滴は頬に真っ直ぐな軌道を描いた。何も付けなくとも長い睫毛に涙が溜まり、キラキラと反射する。

「……ざけんじゃねぇよ」

 怒鳴りたい気持ちを押さえた青峰は、小さくそう呟いた。肩を震わせ泣き始めた桃井から目を逸らし、玄関のドアを閉める。

 鉄の板越しに泣き声が聞こえた。せめてそれが聞こえなくなるまでは……と、光の当たらない薄暗い玄関のドアに凭れ掛かった青峰は、目元を手のひらで覆う。

 ――青峰は先程の一言により、明確に"自分の恋が呆気なく終わった"のだと実感した。

 比べられる所か……誰かの身代わりにだった虚しさが、闇に紛れ彼を襲った。