青峰大輝は食べる物にこだわらない。

 それは小さい時からそうで、プロになった今でもそうだ。今日だって480円で安い牛丼の大盛りを食べる。頼んでから3分、店員がトレーに乗せた注文品を運んで来た。黒い塗り箸に手を伸ばし、チンケな出汁が聞いた牛肉と白米を口の中に詰め込む。

 聞き耳を立てている訳ではないが、隣のテーブルに座る二人の男性の会話が耳に入った。ギャンブルの勝ち負けだの、そんなくだらない話だった。オレも普段はあんなどうでもいい話してんのかな……と、心の中で隣の会話にケチを付ける。

 そんな時に携帯が彼を呼び出した。サブディスプレイに表示された名前を確認し、仕方無く通話を許可してやる。

『……青峰っち、あの』

「"さん"付け止めたのか?」

 表情ひとつ変えずに会話を始めた青峰は、箸を投げ食事をストップした。卓上にあったお茶のポットを握り、湯飲みに注ぐ。茶葉の渋い香りが鼻に届いた。

『ニュース……見たっスか?』

 黄瀬の切り出しから数秒、間が空いたのは青峰がお茶を啜ったからだ。男は予想外に熱い温度に、強面をしかめっ面にする。そうして彼は熱で持ちにくくなった湯飲みを置き、会話を再開させた。

「あぁ、紫原だろ? 先を越されたな」

 今朝のニュース。スポーツのトピックを賑わせたのは【日本人からNBAプレイヤーが出る】と云う目出度いモノだった。身長が2Mを超え、ダイナミックなプレーが評価された紫色した髪の彼は、眠そうな顔に似合わないスーツ姿で、移籍するチームのオーナーと握手を交わしていた。カメラのフラッシュが眩しく彼を照らす。今朝その光景を見て以来、青峰は一度もテレビを付けていない。

『……オレ、アンタが一番最初に海外行くと思ってた』

 携帯のマイクから、黄瀬の残念そうな声が漏れた。これは彼の本心なのだろう。青峰は微笑すると、「オレも、そう思ってた」と皮肉を返した。

 ――結局、高校を卒業しても一途にバスケの道へ進んだのは青峰と火神と、紫原だけだった。オンリーワンの能力に特化した他のメンバーは、各々の将来へ向けて進路を変えてしまった。バスケしか無かった青峰は、当たり前のようにこの道を選ぶ。輝かしい未来が手に入ると信じて……。

 力を入れ、床を踏むと膝が痛んだ。本当は転倒する前から膝は傷んでいたのだ。これを事実として認めたくはなかったし、誰にも知られなくなかった――。

 お互いそれ以上は何と言って良いのか分からずに、無言が続いた。相変わらず隣のテーブルでは、くだらない会話に盛り上がっている。耳障りに下品な笑い声が、青峰の鼓膜を揺らした。

「指導者になっかなァ?」

 無言を打ち止めしようとした青峰が、伸びをしながら呟く。その腑抜けた声と台詞に、黄瀬が『アンタが!? コーチ!?』と笑った。その声を聞きながら、青峰は更に冗談を飛ばす。

「あぁ、しかも野球の、な」

 元エースのいい加減な提案へ、電話の向こうに居た黄瀬は爆笑までし始める。せめても笑おうと冗談を言ってみたものの、やはり青峰の中には重油のような嫉妬がベッタリと貼り付いていた。今の青峰大輝の表情は、口角を上げただけのぎこちないモノであった。

「お祝いに花でも贈るか? "食べられません"の注意書が必要だな。……あぁ、でもこれでメッセージカードの内容が決まった」

 電話の向こうからまた笑い声が弾けた。

 ――絶対花なんか、送るもんか……。祝福してやりたいのに、醜いプライドが邪魔をして嫉妬心を生み出す。眩いフラッシュの中、さもここに居るのが当然と言った顔。そこに自分自身を当てはめようとした青峰は、虚しさを感じて止めた。

『落ち込んでないなら良いんスよ。ま、しおらしいアンタも見てみたいけど』

 強がる青峰が鼻で笑うと、通話は切れた。役目を終えた携帯を器の隣へ雑に放る。ソレは陶器にぶつかり、ガリャリと音を立てた。

 ――電話を終えた青峰の表情は、無だった。


 ……………………


【今日、黒子ときせと飲むけど来るか?:-)】

 ○○スマートフォンに、一件のメッセージが入る。差出人は【火神大我】。意外な人物からの誘いに、彼女は驚いた。――と同時に、メッセージにある黄瀬の名前が平仮名な事を笑う。お茶目な人なんだな、と最後に付けられた顔文字を見た。

 火神大我――逞しい身体に印象的な眉毛。その見た目で高校時代から"豪快で男らしい人"だと思っていた。それがあんな料理を作り出す繊細さを見せ付けられ、更にこのメッセージだ。○○は最後に、綺麗に片付いたマンションを思い出す。自信に溢れ、太陽のような人柄に『彼女になった人は幸せだろう』と思うのだが、先日聞いた黒子からの暴露を思い出し、顔が赤くなった。

 了解のメッセージを打ち、メッセージの送信をする。ふいに、あれから何も連絡が無い"ある男"を思い出し、胸の奥が痛くなった。

 授業中、彼との一夜を思い出し、下半身が疼いた事も少なくはない。その度に○○は、『何てはしたない女だろう……』と己を恥じた。

 別れた後に一度だけ、お礼を述べたメールを送った。未だガラパゴス携帯を愛用する彼との連絡手段は限られる。何度も何度も推敲して、やっと送ったメッセージ。……返ってきた返事は【あぁ】の2文字だけだった。


 ……………………


 PM6:30

 ○○は、エントランスから火神の部屋へ通されていた。時間通りに来たのに、室内に他二人の姿は無い。「遅れて来んだよ」と告げた火神を信じ、彼女は黒いレザーのソファーへ腰掛ける。それは初めて青峰に会った夜、彼が腰掛けていたソファーだった。

「悪ィ、もう来ると思って連絡入れなかった」

 火神から謝罪を貰いながら、ついでにお洒落なシャンパングラスを渡される。黄金色の液体は内部で炭酸が弾け、甘い香りを運んできた。

 少女が座る三人掛けのソファーへ、火神も腰を下ろす。一人分間を開けてくれる気遣いに優しさを感じた。サイドテーブルに乗ったリモコンを手に取った火神は、彼女にある確認をする。

「見たいテレビあんだけど、良い?」

 首を縦に振る○○に「サンキュー」と簡単なお礼を述べ、火神はテレビの電源を付けた。

「バスケ、見た事あるか?」

 今度は首を横に振る。ふぅん、と珍しいモノでも見るかのように赤毛の男は片眉を上げる。バスケについて一切の関わりを持たず過ごしてきた彼女は、青峰や火神がどれだけ秀でたプレイヤーであったかを知らない。

「――じゃあ、つまんねぇかもな。ま、でも知ってる奴出るから我慢してくれ」

 火神はチャンネルを弄り、選局をする。しばらく操作を続け、画面に一面のバスケットコートが映し出されると火神は、リモコンを元々合った場所へ戻した。

「火神君の知り合い出るの?」

 ○○はシャンパングラスを握り、質問をする。

「あぁ、それに優勝候補だからな。情報を知りてェ」

 火神はプロらしく答えると、シャンパンを煽った。

「――覚えてるか? こないだウチ来た時に駅まで送ってくれた色黒の、無愛想なアイツ」

 火神の説明と同時に、画面にはベンチで監督の指示を聞くスターティングメンバーが映る。ユニフォームに身を包んだ数名の選手達。膝に手を置き中腰になって指示を聞く者、ボトルで喉を潤しながら横目で戦略ボードを見る者……体勢は様々だが、全員が真剣だ。その中に、腰に手を置き無表情で指示を聞き入れる"ある男"の姿を見た。

 数度も見た顔も、何度も触れた腕も、今画面に映る彼のとは、全く別のモノである気がした。

 ――画面越しに見る、選手としての青峰は酷く遠い存在に感じた。脳裏に浮かぶ『下らないゴシップ』と言う単語が、少女を落ち込ませた。

 青峰の膝には黒いサポーターが巻かれていた。バスケットパンツから僅かに見えたソレに、火神は訝しげな表情を見せる。

 画面の横に映るポジションと選手紹介。バスケの知識がない彼女にその意味は判らなかったが、たったひとつだけ判るモノがあった。あぁ、漢字……こう書くんだ。名前の横に表示された身長を見て、自分との身長差を計算している事に気付いた少女は、浮かれ具合に頭を振った。

「火神君も、あんな感じにテレビ出るの?」

 その質問に肩をすかした火神は、足首のサポーターを見せ「治ったら、だ」と優しく答える。その返答が彼の精一杯の強さであると、彼女は知らない。

 試合が始まり、背番号6を掲げた青峰の姿を追う○○は、驚いた。彼女がバスケットボールと云う競技をキチンと観るのは初めてなのだが、そのモーションひとつひとつに釘付けになる。どれを取っても格好良かった。どの選手も動きがスマートで、ボールが広くも狭くもあるコートを自在に動く。

 その中でも、青峰は格別素敵に見えた。コートを駆け回りボールをまるで操るが如くシュートを決めていく。胸が高鳴った。画面に映る険しい顔と、ベッドの上で見せた切なそうな表情が重なった。黒子から「天才だ」とは聞いていたが、素人から見ても青峰のプレイスタイルは群を抜いているように見える。

 宙高くリングに向かって飛んだシュートを、"駄目押しだ"とダンクで叩き込んだ青毛の男に○○は興奮し、火神の腕を何度も叩いた。赤毛の男は苦笑いをすると「あんなモン、オレにも出来るぜ」と負け惜しみを言い放つ。

 火神は隣に座る○○と云うを見る。彼女は、試合を見たままに楽しんでいた。贔屓のチームが得点すれば喜び、相手のゴールが決まれば難しい顔をする。そして青峰が少しでも活躍すれば恥ずかしそうにこちらを見て来るのだ。競技を単純に楽しむ姿はくすぐったいように純粋で、小さい頃夢中でNBAのスーパープレイを観ていた火神自身と重なった。

 1クォーターが終了し、青峰のチームが大きくリードしていた。火神はそんな彼と、そのチームの動きを見て"やはり天才的だ"と唸る。

 だが、火神にはひとつ不安要素があった。……青峰の膝だ。サポーターを付けないと出られない程にまで進行しているのだろうか。彼の動きに昔見たキレが見出だせず、火神の不安を更に加速させた。

 ――火神が危惧していた事態は、2クォーターが始まって5分が過ぎた頃に突如やって来た。

 ゴール下でのポストプレーを委された青峰が手を伸ばし、その途中ふと立ち止まる。ボールは彼の横を通り抜けコートの外へ飛び出す。突然のストップモーションに口を開け、信じられないような顔をする褐色肌の男やチームを、カメラは映し出した。火神は青峰が立ち竦んだ瞬間から、前のめりになり難しい顔をし始める。

 ベンチに動きがあった。6と書かれた札を持ったチームメイトが審判に促されコートへと入ったのだ。札を差し出された青峰は身振り手振りで必死に抗議をするが、しばらくすると渋々ソレを受け取りベンチへと歩き出した。その姿は勇ましく、不満の色を濃く残す。カメラはそんな苦い顔した彼の姿を、ベンチまで追い続けた。

 似たような経験をした火神は、青峰が苦い顔を見せた理由を知っている。自身がそうであったように、あれは痩せ我慢だ……。選手としてコートに立つ以上、痛む膝を引き摺るようなみっともない真似だけはしたくない。青峰大輝は不調を周りに悟られないよう、歯を食い縛り痛みに耐えているのだ。

 試合は、青峰だけを取り残し再開された。『治るまでコートに立つな』――残酷な宣告をされベンチの最果てに座り、項垂れる青峰をもうカメラは映さない。

 まるで、華やかな舞台から引き摺り落とされた役者には興味が無いように、大衆の目から青峰大輝は消えた。


 ……………………


 第一戦が終わり、勝利を掴んだチームへ雑誌の記者が群がる。インタビューを狙うマスコミは、NBAにコマを進めた紫原について聞き出そうと青峰へマイクを突き出し始めた。誰一人、彼の体調を気遣う者は居ない。

 厳しい待遇かもしれないが、スポーツの世界はソレが当たり前だ。肉体と云う商品を壊せば、価値は暴落する。周囲から不良品の札を掲げられた青峰は、蓄積するフラストレーションから逃げる為に拳を強く握った。

 ――何を話せば良いんだ? 嫉妬にまみれ、膝に傷みを抱え満足にバスケも出来ないオレに、何を求めるんだ? 泣いて悔しいです、と言えば満足か?

 ふざけるな。オレはバスケットマンで、お前らの為に道化を演じるピエロじゃねぇんだよ。

 青峰は怒りに任せ、目の前の小太りな男性記者を乱暴に突き飛ばした。平均身長程しかないその記者は、その場に転倒する。痛みを訴える彼の横を通り抜け、青峰はまるで汚いモノでも見るかのような目線を送る。

 その舐め腐った態度とコケにされた悔しさに、怒りの沸点が超えた男性記者は青峰に野次を飛ばしていた。辛辣な言葉が通路に響く。

「いつまでも過去の栄光にすがってんなよ!! もうポンコツじゃねぇか!!」

 その周囲は、瞬時に静まり返ってしまった。厳しい言葉をぶつけられた青峰は立ち止まり、何も言わずにその場に佇む。一触即発だ……。野次った記者はたじろいだが、その選手は一向に動かない。彼の表情は記者からは見えない。怒っているのか、悲しんでいるのか。それさえ判らない。

 やがて他の選手がやってくると記者達はそちらへ向かっていった。青峰は何も聞こえなかったかのように暗い通路を歩み、控え室へと戻っていった。

 ――そんな彼を追い掛ける記者は、一人も居なかった。