誤魔化しの口付け







春の匂いがする。

目と鼻を嫌と言うほどに刺激する花粉も、時折暑く感じられるほどの日差しも。

もう春はとっくに訪れていて、晩春すら近付いていると言うのだから驚く。

白くほの溶いたような霞む青空には、桜が余白のように散らばっていた。

ざあっと強く風が吹いて、目の前を楽しげに歩く姫の黒髪をさらう。

明るい栗色とは違う、墨を溢したような美しい漆黒だ。

ふと気がつけば、その黒髪には…偶然だろうが、一輪の桜が引っかかっていた。

当の本人は気が付きもせず、振り返って空を指さす。

「一樹さん、上見てて」

「ん?なんだ?」

「いいからっ」

言われるがままに首を伸ばして空を見上げた。

もう一度、木々の間を駆け抜けるように風が吹いた。

咲き乱れる桜の木々から、巣立つように花びらが舞っていく。

数え切れないほどの花びらが一斉に青空を埋めて、その光景に溜息が漏れた。

「…綺麗だな」

「ね、綺麗だよね」

「ずっと上みて歩いてたのか?」

先程からふらふらと覚束ない足取りで歩いていたのは、そのせいらしい。

笑顔で頷くその頭に手を伸ばして、くしゃりと撫でる。

柔らかい毛が指に絡んで、少しくすぐったい。

ぐしゃぐしゃになる、と眉間に皺を寄せる表情さえ、自分の頬を緩ませるには充分で。

「前もちゃんと見ろよ?お前なら木にぶつかりかねないからな」

「そんな鈍臭くない…」

漫画じゃあるまいし。

髪に未だに絡む桜は、漫画のようなのだが。

「ははは、そんなに皺を寄せるな。跡がつくぞ?」

人差し指と中指の先で、ぎゅっと寄せた眉根をほぐす。

すぐに困ったような、嬉しいような表情に切り替わって、まるでお面を見ているようだ。

喉の奥から笑うと、また表情が変わる。

「一樹さんのほうが、先に皺つきそ う…」

悪戯っぽく笑って、細い指が伸びて額に触れた。

「生徒会は気苦労が絶えないみたいだから」

「…翼がもう少し、大人しくなってくれればいいんだがな…」

大袈裟に溜息をついてみせれば、可笑しそうにくすくすと笑った。

春休みであり、帰省する者も多いこの時期。

こんなにじゃれあっていても、見物する者など殆どいない。

人前でも二人きりでも恥ずかしがるような純情な姫が、こんなに明るく振舞うのは珍しかった。

春の雰囲気に酔っているかのようだ。

そんな考え事をしていると、いつの間にか姫は手の内をするりと抜けて、先へ駆けて行ってしまった。

途端に遠く離れる距離を、少し切なく感じる。

「一樹さんっ」

自分から先に行っておいて、早く早くと急かされる。

振り回され気味だ、と自分でも思う。

我侭な彼女も、そりゃもちろん愛おしく思うが、男の身としては少し悔しいわけで。

急かされるままに隣にたって、彼女が口を開く前に抱き寄せる。

「わっ」

小さく驚く声など無視して、腕をしっかり回して抱き締めた。

姫が見せたがる景色は、全て見ておきたいけれど。

少しだけ、彼女の視界を自分で埋めてもいいだろうか。

青空を埋めた花びらのように美しくはないかもしれないが、大人しくしているところを見れば、

どうやら悪くはないようだ。

姫の肩越し、というよりは、身長のせいで頭越しに見える甘い桜色の渦。

出会う前よりも美しく見える桜は、一瞬であろうと確かに姫がくれた景色だ。

未来でも過去でもなく、長い時間をかけて今を見つめられるようになったこの目に、しっかりと焼き付けておく。

この腕の中の温もりに勝る宝はないが、彼女がくれる色とりどりの景色は、同じくらい大切だから。

「ありがとな」

小さく小さく、風にかき消されるほどの本音。

しっかりと彼女の耳には聴こえたようで、数回瞬きをして首をかしげる。

わからなくていい、と笑えば、わかりたい、と返されて。

どう返していいかもわからず、伝えるには言葉が足りな過ぎる。

どうしたものかと考えあぐねて、結局姫に引き摺られているのだと気がついた。

漏れる溜息は本日何度目になるのだろ う。

原因である本人はまだ見つめてくる。

主導権というわけでもないが、こうも無自覚に振り回されては、「男の沽券」に関わるというものだ。

最後の手段とでも言おうか、姫を黙らせるたった一つの方法を使う。

こんなに自分を振り回せるのは、きっとお前しかいないだろう。


誤魔化しの口付け


髪に絡んだ桜が、ぽたりと足元に落ちた。

真っ赤に染まる頬が愛おしくて、両手で包んでもう一度、と唇を寄せる。

風が呆れたように、軽く吹いた。

-------------------------------
哉太くんを生け贄に頂いた一樹さん。
mine.の管理人さんであり、Twitterで仲良くしてくれる天様の作品です♪
桜がこんなに似合う男の人は私の中では一樹さんだけじゃないかな、って錯覚しちゃうくらい素敵で。
天様のサイトの爪を切る一樹さんもかなり私のツボなので、気になった方は是非っ!




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -