彼は俺の第2の愛だった。俺の美しい世界をゴミ溜めだと言い捨てた神だった。考えてしまえばそれまでのことで、窓に当たる雨はしとしとと俺に愛をさせるばかりなのだ。本当は何もかもすべて、ここに行き着くのですね。あのひとはきっともう俺のことをとっくの昔に愛していた。思えば3周ほど前の彼は俺の嫌がる顔が見たいというだけで自らのこめかみに銃を突きつけたのだから、それはもう、いっそ俺は魂の奥底まで彼の歪曲された愛に浸っていたのだ。ちゃぷちゃぷと、沸騰しているかのようなぬるま湯に満たされていた。

(ああ……)

何事にも気づくのが遅い、あなたに関しては特に。そう思った。霧に覆われたあなたって輪郭さえ見いだすことが俺には困難なんですよね。いつだって困っている。あなたのことが、…あなたのことを愛しているんです。だから何もかも壁に見えるし感じるし思う。でも、俺たちの間には何もありませんね、本当は。本当に何も、障害なんて呼べるほどのものさえ。むしろ壊せる壁が欲しかった。そうしていつかあなたの形をなぞる希望を持ちたかった。世の中ってもしかしたらあなたが言うようにクソなのかもしれませんね。よくわからないけれど。俺の常套句だ、よくわからない。よくわからないけれどあなたのことが愛しいですよ。と言ったら彼はどうするんだろうか。嘘だ、そう言って笑うんだろうな。そうです、嘘だよこんなものは。だって俺の愛にはちゃんと理由があるもの。前述の通りあなたは俺の第2の愛だ。俺の第1の愛を否定した初めての違和。つまりそういうことです。
クリスマスの夜に会おうと彼に告げた。体温で暖かく震える携帯電話はいいよという肯定を俺に届けた。夢のような死刑宣告だった。クリスマスの夜に、あのひとと俺は会う。他のどんな日でもない、あの最高で劇的な日に俺たちは2人っきりで会うのだ。本当に夢かもしれない、ああドキドキする。どんな服を着よう、どんな靴を履こう、この日のために香水を買ってしまおうか。布団に丸まっていろんなことを思考する。頬がじわじわ熱を持った。これじゃまるで恋してるみたいだ。俺は彼を愛しているだけなのに、へんなはなし。さあ今日はもう寝てしまおう、やり残しを片付けるのは明日からでもいい。時間はまだ有り余っている。

腕時計に目をやり、面会時間の終了が迫っていることに気づく。菜々子の頭を撫で、叔父さんにじゃあ行ってきますと告げると帰らないのかと返された。だからこれから足立さんとデートをするんですと返事をしてみた。唖然として言葉も出ないらしい叔父さんに軽く手を振って足早に病院を抜ける。ちらちらと空から降りてくる白は制服に落ちてすぐ水になった。さんざん悩んだ末に、今日の格好はこれに決めてきたのだ。靴もいつもと同じものにして、香水もつけてこなかった。足立さんに初めて出会ったときの俺で足立さんと終わろうと思ったから。とても大事な、特別な日だからこそいつもどおりでいようとする俺の心の機微を彼は察してくれるだろうか。まあ恐らくどうでもいいと呟いて鼻で笑うのだろうけれど。ざくざくと雪を切る靴は真っ白な地面にたくさんの足跡を残していく。ここにできた軌跡があのひとへ繋がっているのだなと思うと、こんな足跡さえ愛せる気がした。馬鹿みたいでしょう、どうぞ誰でもお好きに笑って。霧にまみれた世界で繰り広げる俺の猿芝居は、曇りの中でいっそう滑稽に光る。


「10分遅刻だよ」
「すみません」

遅れたらコーヒー奢るって約束覚えてるよね、と足立さんがこっちを厭らしく見やった。俺はそう来ると思って予め買っておいたコーヒーを得意気に手渡す。意外そうな顔をした彼はプルタブに手をかけながら優秀で結構、なんて一言を嫌味のようなニュアンスで呟き、缶に口をつけた。その動作ひとつひとつに愛情らしき感情を覚えてしまう。このひとがいとおしいのだ。だから全部捨ててクリスマスの今日にこんな赤い世界まで来た。

「あれ、そういえば君、なんで制服なの」

コーヒーでひと息ついた足立さんがおもむろに俺を眺めそう訊いてくる。期待していたことだったものの、正直服装なんて気にしてもらえないだろうと思っていたのでなんだか驚いてしまった。すこし照れつつも微笑んで、今日というあなたとの時をこの服で過ごしたかったんですなんて言ってみると、彼はすごくどうでもよさそうにふうんと呟き俺と制服から視線を外してコーヒーをごくり。もう少し構ってくれてもいいんじゃないか、なんて思ったりもしてしまうものだが、いっそこれくらいが彼らしくていいとも思える。こんな思考を抱けるなんて幸せなことだなあ、なんて足立さんの横顔を眺めながら今の喜びを強く噛み締めた。こんな気持ちで終わらせることができるのだから、今までの苦しみの半分はこれでチャラになったなあ。なんて言っても大袈裟ではないくらいだ。その後、足立さんは必要以上なほどゆっくりとコーヒーを胃に流し、俺は黙ったままそんな緩慢な時間を目で追い続けていた。しかし、緩やかな終末の謳歌も空になった缶が地面に置かれたことを皮切りに静寂共々打ち破られる。

「今なら帰っても遅くはないんじゃないの?」

俺の心の穏やかに守られた部分がざわざわと派手な音を立てた。何を言っているんだこのひとは。俺がここまで来た意味を、未だ理解していないとでも言うのだろうか。俺にとってこれは、次へ進むための大切な一歩なのだ。決別への儀式、と言ってもいい。それをここで帰ってしまっては、なんの意味もなくなってしまうじゃないか。今までの俺だとか、これまでの彼だとか。そういうものすべてが、また振り出しに戻ってしまう。リセットならまだしも、無意味にそうするのはもう避けたい。この思いは、足立さんだって抱えているはずだろう。それなのにどうして、こんな話を。
…いや、わかっているんだこのひとは。もうきっと全部、俺より深く俺より先に気づいている。だからこそその言葉を選んでいるのだろう。これは霧に覆われた彼なりの優しさだ。とんでもなく大きな愛の凝縮、その中の輝かしいひとかけらなんだ。ああやっと、彼のことをほんのちょっぴりだけ、理解できたような気がする。これはわかったつもりだなんていう宙を掠めるものではなく、形を成した彼そのものだ。俺はついに蕾をつけて確信めいた。初めて月面に着陸した宇宙飛行士のような感動を胸に詰めて足立さんに振り返る。その気配を感じ取った彼は俺を見るや否や少し後ずさった。なんなんですかその反応は、と心の中で呟きつつ彼の手に自分のそれを近づける。重ねると即座に振り払って逃げられそうだからやめておいた。

「あなたがそう言ってくれるうちは、俺は絶対に帰りません」
「なにそれ、まったく意味がわからないんだけど」
「わかってるくせに。本当は全部理解しているんでしょう?」

瞳の中いっぱいに彼を閉じこめる。そこに俺なりの恋をそうっと添えておいた。幽閉された自分をしばらく見つめてからばつが悪そうに舌を打つ彼は、近いんだけど、と俺から距離をとろうとする。手を引いて、尻をずるずる後退させた。だから俺はその分また彼に近づいてみせる。手をぴったり横につけて彼に笑いかけた。あなたのそういう引きつった笑顔好きですよ。
ここはいつか美しい愛の砦。俺たち2人っきりですよ、昔から。俺が謳う救済策にかぶせるように、あなたは音の外れた交響曲を朝のアラームとして奏でていた。いつだって耳を塞いだのは俺で、当たり前を疎んだのも俺でしたよね。それでもあなたは俺を見てくれていた。そんなあなたに愛してもらったいちどかぎりの幸せを忘れたことなんてありませんでした。一緒にいこうと手を差し伸べたあの日の残像、舞い落ちる回答に霞み潤む世界の灰色はいつだって俺に微笑みかけていたのだから。愛だ愛だってバカみたいに繰り返し続けましたけど、安っぽくなってしまっているかもしれないけれど、それでも俺はやっぱり足立さんのことを愛しているんだなあと、降りしきるいつかの雨に誓いたい。とりあえず足立さん、野菜フィルター弱っちゃいましたね。そう言うと彼は「はあ?」と吐き捨てながら俺を睨んだ。しあわせ。


わたくしの檻
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