「ドッペルゲンガーって知ってるか?」

俺の正面で目を丸くする幸せボケした『俺』は、え、と間抜けな声を出して紙袋を抱えた両手に力を込めた。紙袋のてっぺんにはトマトが鎮座していて、そのてっぺんを支えているものもトマトだ。おそらくその紙袋の中身の大半はトマトなのだろう。今日の晩飯はなんだっけ、確かお前トマトソースパスタって言ってたっけ?はは、兄さんの喜ぶ顔が目に浮かぶよ。幸せそうだなあお前と兄さんは。幸せそうだなあ、ほんとうに。こんな分史世界があるなんてもっと早くに知っておけば、……。ところでお前、質問の答えはどうなんだ?とぼけた面晒してないで早く答えろよ。時間がないんだ。

「なんで俺が、もうひとり」

いるんだ、と、なんにも知らずに今も生きている分史世界の俺は途切れ途切れに言った。答えている暇なんて今はない。もうすぐここの兄さんが帰ってきてしまう。『俺』のトマトソースパスタを食べることを楽しみにしている兄さんが、帰ってきてしまうではないか。早く作ってやらなければならないというのに。
俺は兄さんを殺したくなかった。いや、殺せない。どうしてもだ。あの人が俺のために死ぬというならなおさらに。俺には兄さんが大切すぎた。ただ兄さんに、もう少しだけ傍にいてもらいたいという、それだけの話なのだ。こんな汚らしい罪悪によって得た幸福なんか長く続くはずはないが、けれど、それでいい。ほんの少しでいい。そのためなら『俺』の命なんて犠牲にしてやれる。お前には悪いが、俺には兄さんしかいないんだ。あの人だけなんだ。そういう風にして、ここの分史世界の宿に泊まって一週間が過ぎたときに俺はここの『俺』を消す決意を固めた。そしてここで兄さんの隣にいると決めたのだ。滑稽だと笑われても裏切り者と罵られてももう俺にはこうするしかなかった。もう俺たち以外のことはどうでもいい。嘘じゃないさ。
しばらく目を瞬かせていた『俺』は、不意にこの場にとって不釣り合いなくらいの真顔を貼り付けた。その奇妙な変化に一瞬困惑を覚える。なんだよお前、その全部理解したみたいな顔。幸せボケしたなんにも知らないバカじゃないのかお前。どうしてその瞳に切迫した俺を映すことができるんだ。おかしな話だが、一瞬自分自身にひどく恐怖した。時間がない。

「そうか、お前も、兄さんの傍にいたいのか」

はっと息を呑んだのは俺なのかお前なのか、この言いようもない悲しみを知覚したのは果たしてどちらなのか。少なくともいま俺の瞳に映りこんでいるのは、微笑みをたたえた『俺』だった。俺は気づいてしまったのだ。こいつは生きる世界が違おうとなんだろうと、兄さんのことが大切すぎる俺そのものだということに。頭では理解していたつもりだったそれを、いまやっとこの身すべてで理解してしまった。なんだか無性に子供のときのように声をあげて泣きじゃくりたかった。

「兄さんと一緒にいたいんだ」
「俺も」
「そのためなら誰を犠牲にしたって構いやしない」
「俺もだ」

だからこいつは大人しく俺に消されようとしている。兄さんの傍にいたいという、俺とまったく同じ意思を持ち合わせるからこそ、奴は逃げようとしないのだ。俺は『俺』だから。俺と『俺』の違いなんて、真実を知っているか知っていないかぐらいのものだ。だから俺は『俺』を消して、兄さんの傍に寄り添うよ。あのひとのためならこれくらい造作もないことを俺たちは知っている。二人にとっての互いの理解などそれで充分で、ああもしかしたら、充分すぎたのかもしれない。頬に涙が伝う感触があって、その直後に鏡合わせのように目の前の人間は泣いた。兄さんをよろしくと奴は言うので、救いなどどこにあるのだろうかと迫り来る終焉の淵で思考はかなしく回り続ける。『俺』は確かに俺のはずで、そのことに変わりがないことはわかっていながらも、俺は『俺』を悼みたくて仕方がなかった。
トマトの彩色が目に痛い。
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