キスしたいってね、なんと俺から夏樹に言った。それも今でこそひとはいないけど、普段はちらほらひとの通りがある細道でだ。どうしてしまったんだろう、どうして俺はこんなことをこんなところで言えてしまったんだろう?だって好きだっていう魔法の言葉も俺はぜんぜん口にできなくて、けっきょく身動きのとれないまま夏樹に魔法にかけられてしまった。あの夏樹が、顔真っ赤にして、俺に「好きだ」って!向こうがあんなに勇気を振り絞ってくれたのに、情けない俺はただ強張った顔で「俺も」という言葉を絞り出すのみで、男として本当に最悪だったと思う。けど今の局面ではどうしてこんなにもすらりと言えてしまったのかわからない。俺は俺でしかないはずなのに、どうして時折俺じゃあないような言動をとってしまうの。いつだって自分をコントロールするのに成功したことなんてなかったけれど、好きなひとを前にするとまともな思考回路がハンドルごとどこかに吹っ飛んでってしまう。ああ、いくら俺たちが恋人の関係に収まっているからって、こんなに唐突にこんな場所でそんなこと。夏樹だっていやに決まってる。現に俺のひとことを聞いた途端にすっかり足を止めてしまって、ずっと黙りこんでいるじゃないか。慌ててごめん、なんていう言葉で場を取り繕ってみせようとしたけれど、夏樹は眉間に深い皺を刻みこむというだけのアクションを見せて、なおも口を閉ざしてしまっていた。もしかして嫌われたのかもしれない、いや完全に嫌われた。これでもう一緒に昼食を食べることも一緒に帰ることも一緒に釣りをすることも、全部おしまいになってしまうんだろうか。やだなあ、そんなの絶対いやだ。でももう嫌われちゃったんだからしょうがないのかな。俺はまだ夏樹がとっても好きなのに。キスしたいくらい好きなのに。海面は着々と上昇を始め、俺を海の底で眠らせようといやらしく目論む。息ができない、死んでしまいそうだ。ああなんで俺は泳げないんだろう?生まれ変わったら魚になって海を自由に泳ぎ回りたい。あ、でもそれじゃ釣りできないや。やだなあそんなの。

「早くしろ」

止まることなくぐるぐる回るマイナス思考の流れを差し押さえたのは夏樹のひとことだった。しかも俺がさっきまで想像していた、嫌だとかキモいとかいう類の返答とは少し違っていたのだ。慌てて夏樹の顔を見ると、そこあったのはなんだか不機嫌そうに彩られた表情。でも空が全体で背負っている夕焼けの赤は、夏樹の顔にもきちんとそれを反映させていた。怒ってる、いや、照れてる?

「ひと来るぞ」
「え、えっ」
「すんの、しねえの。どっち」

夏樹は細めた目で俺を見つめ、そうやって急かすようでいてきちんと返答の時間を与えてくれた。待ってくれているんだ、きっとずっと。ほんのすこし震えるまつげに、途方も果てもないだろういとおしさが募る。俺はいったん深呼吸をしてからそのきれいな黒を瞳に映して、する、ってやたらと大きな声で夏樹に言った。ああ顔が熱い、きっといま自分の顔は夕焼けや夏樹のそれと同じ色に染まっているんだろう。夏樹はすこし表情を綻ばせてから、きれいなほど優しく目をつむった。そうして俺は初めて自分の唇で、ひとの唇にふれるのだ。
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