静寂が身を強張らせ瞼のうまく下りない夜。不意に聞こえたパチ、という音につられ部屋を出ると、穏やかに燃える暖炉の前のソファにホームズが寝そべっていた。パチパチと音を立てる暖炉は我が友人を橙に染めている。ホームズは私に気がついたのか閉じていた目を開き、「やあ友よ」と常通りの軽快な挨拶をこちらに寄越した。
「こんな時間に会うとは奇遇だね。優雅気ままに夜更かしかい?」
「キミの優雅さには負けますよ」
ホームズは快活に笑った後、座りたまえよと呟き顎で向かいの椅子を示した。素直に応じ椅子に腰掛け、パイプを懐から取り出す彼を何気なしに見やる。薄暗がりに浮かび上がるくすんだ金色は微かに光っているように見えた。ゆっくりと吐き出される白い煙の先で友人はニコリと微笑む。
「何か悩みでも?」
「いや、そういうわけではありませんが」
「ふむ」
彼の精緻なまなざしがそっと私を捉える。私を『観て』いるのだろう。最初こそ息苦しく感じるときもあったが、今はこの視線も存外心地が良いものだ。普段ならここで彼の推理を待つが、しかし今夜は何故だか偉大なる名探偵の利口な相棒である気分ではなかった。彼が推理を披露するより前に私はそろりと口を開く。
「近頃、静かな夜が得意ではありません。……静けさが一等騒がしい」
「ほう」
なかなか詩的だね。そう呟きまた煙を吐き出したホームズは暖炉の火に目を向ける。つられてそちらに視線をやれば、赤くも白くも見えるそれは酸素を使いめらめらと弾けつづけている。じっと炎を眺めている間、どうしてかずいぶん昔のことばかりが頭を過ぎった。あやめの青白い手がわずかな力で私の無力な手を握り、痛ましくかさつく唇は愛娘の未来を案じていた。私は彼女の名を呼ぶばかりで、最後まで彼女に本当の安らぎを与えてはやれなかった。静かな夜が来るたび自責や失意が頭の奥で騒がしくがなりたててくる。
「つまり、夜を黙らせればいいわけだろう?」
思考の渦に飲み込まれかけていた私を掬いあげたのはホームズの一言だった。顔を上げると、橙に染まりきらないうす青い炎と視線がかち合う。彼はソファから腰を浮かすと緩慢な動きで歩き出し、やがて彼の相方、ストラディバリウスの前で足を止めた。愛すべき楽器を手に取るホームズは私に向かいにこりと微笑む。
「なら、夜を黙らしちまえばいい。ボクのコンサートにヤツをお客として招待してやろうじゃないか」
ホームズの瞳は楽しげに輝いていた。子供のような眼差しだが、童子と断ずるには精緻が過ぎる。「準備はいいかい、ミコトバ。ステージの始まりだ」
「今からですか」
「今弾かなくていつ弾くんだい?」
得意気に笑うその男、言っていることに含蓄はまるでない。しかしあまりに堂々と喋るので感情が飲み込まれてしまう。それにこの突飛な行動も、言わばきちんと彼の『論理』に基づいているのだ。ふつふつと込み上げてくる可笑しさに身を任せ笑い声をあげると、彼は今夜一番愉しげに目を細めた。壁際に添い、まだ物言わぬそれを持ち上げると弓を構える。
「相棒、何が聴きたい?……いや、キミの好きな曲ならだいたい分かるな。美しいロジックに基づいた、キミのための曲目を演奏してやるとしよう」
「人はそれを独断と言うのですがね」
「ハハ。夜の前にまずキミを黙らせなくちゃあな」
ホームズと私が交わす言葉の隙間に挟まる暖炉の燃える音がやけに心地良かった。ストラディバリウスの控えめな光沢が夜闇にくすぶり、彼の青い目も暗がりの中で光っている。
「いつ頃まで楽しませてくれるのですか」
そう問うと友人は口端をつりあげ、こう呟いてから宴を始めた。
「終わる頃には二人で朝日が見られるぜ」
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