「ナルホドー、今日は中央刑事裁判所の近くまで出掛けるんでしょ?ついでに検事執務室にコレを届けさせろ、って渡されたんだけど」
そう言って茶色の封筒をぼくに押し付けてくるジーナさんに念の為どこの検事執務室かと尋ねる。すると満面の笑みで『アソーギ検事のとこ!』と返された。我が親友ながら人使いが荒い、と胸中で呟き苦笑する。しかし所用で久々に倫敦を訪れてから数日、まだアイツとは顔を合わせていなかったので丁度いい機会なのかも知れない。
「じゃ、アタシはアイリスとアイス食べに行くから」
「いってきますなの、なるほどくん!」
……着いていきたい気持ちを必死に抑え、二人を見送った少し後にぼくはすごすごと221Bを後にした。
検事執務室の扉の前に立ち一度だけ深呼吸をする。中に居るのが親友とはいえ、やはりここ一帯の重みのある雰囲気に慣れることは出来そうにない。二、三回扉をノックすると「入れ」と馴染みのある声が聞こえ、言われたとおり扉を開けて部屋の中を見回した。亜双義は一番奥にある椅子に腰掛けていて、その口からはよく来たなと歓迎の言葉が短く紡がれる。
「ほら、これ。人使いが荒いぞ、おまえ」
「ああ。すまなかったな」
封筒を手渡すと何故だか上機嫌な様子で謝罪を述べられた。アイスの誘惑を振り切って来たんだぞ、という恨み言もその表情を前にしては霧散してしまう。
亜双義はさっそく封筒から書類を取り出し素早く目を通す。仕事に対するきびしい眼差しと佇まいは、つい先刻とは打って変わって実に荘厳なようすだ。中央刑事裁判所の検事としての威厳を如何なく発揮しているその姿を思わずまじまじと見つめてしまう。確かに受け取った、そう口にした友は静かにぼくと視線を合わせた。
「……オレの顔に何かついているか?」
「ああ、いや。もうすっかり『検事さま』が板に付いてるなあと……」
「ほう。弁護士サマにそう言っていただけるとは光栄だ」
そう言って口を三日月に歪め、愉快そうに笑みを向けてくる。何だか不思議な心地だ。日本を立った頃とはずいぶん立場も状況も変わったけれど、ぼくらはこうして昔のように笑いあっている。当たり前のことがやけに嬉しいだなんて、少し感傷的だろうか。
「倫敦にはいつまで滞在するつもりだ」
「ううん、そんなに長居はしないな。用が終わればすぐに帰るから、一ヶ月も居ないと思うよ」
「そうか。……地に足をつけている時間よりも、海の上にいる時間のほうが長いというワケだ」
「はは。まあ洋箪笥に入らなくて良いだけ快適かな」
言うと、その目尻がやんわりと緩んだ。一等船室での短い日々を思い出しているのかも知れない、どこか遠い目は黒く穏やかに澄んでいる。そのまま考え込んでしまった亜双義は少しの間沈黙を部屋に招き、手持ち無沙汰のぼくはちらちらと執務室に目を配った。西洋式の剣が綺麗に手入れされた状態で傍らに据えられている。机に置かれた羽根ペンは窓から洩れる陽の光を受けて角度に寄っては虹色のようにも見えた。観察が少し楽しくなってきた頃、不意に成歩堂と名を呼ばれて思わず肩を揺らす。慌てて返事をしたぼくに対して亜双義はこう言った。
「時間は有限だ」
その一言の意図はよく分からなかった。戸惑いの末、そりゃあそうだな、なんて我ながらなかなかにボンヤリした言葉だけを返す。亜双義は特に呆れるでも笑うでもなくぼくを見つめていた。どういう感情なのかは表情だけでは読み取れない。
会話の流れが途切れ、そういえばコイツは仕事中ではないのかとふと考える。顔も見ることができたし、このまま長々と話すのは気が引けた。
「そろそろ帰ろうかな。用も済んだし」
「何だ、もう帰るのか。もう少し寛いでいけば良いものを」
「他にも行くところがあるからさ。それじゃあまた」
亜双義に踵を返し扉の前まで歩く。滞在しているうちにもう一度くらいは会えたらいいな。そんなことを考えながら部屋を出ようとしたその瞬間、背後から声を掛けられた。
「成歩堂」
振り返ったぼくに対し、亜双義はまた静かに口端を歪める。それも今までよりも少し、意味深に。
「時間は有限だ」
そうして再度その言葉だ。やっぱり意味が分からなくて、ぼく思わず首を傾げてしまった。鈍く光る眼差しでこちらを刺す男は、少しの間を空けたのち「ホテルバンドール」と一言、続けて何らかの番号をゆっくりと口にする。
「明日の十三時。そこで待っている」
緩慢に動いていた唇は、そこで閉じるとまた歪んだ。ぼくは亜双義をじっと見つめながら木偶の坊のようにただ立ち尽くしている。謎多き単語たちの乱舞に脳が混乱を来しているのだ。ホテル名と、番号ーーおそらく部屋番号と、時間。そして『待っている』の意味。それはつまり……何だ?
「え、ええと……?」
「何だ、わざわざ言葉にして欲しいのか。ニブいのか助平なのかどっちだ、キサマ」
助平という単語で頭の隅に存在した“まさか”が表へと引っ張り出される。ホテル、そしてその部屋番号。まさか、いや、そんなまさか。呪文のように同じことばかり唱える思考回路を打ち止めたのもやはり目の前の相棒が紡ぐ一言だった。
「つまり、『検事さま』直々にキサマを誘っているということだ。『弁護士サマ』」
予感は完璧に確信へと変わり、それを皮切りに一気に体中の熱が顔へと集まっていった。一瞬にして手のひらからどっと汗が噴き出す。もしやコイツ、最初からこれを伝えるつもりでぼくをここへ寄越したのか。楽しげにぼくを見やる表情からして答えは明白だった。
「まあ、来るか来ないかはキサマの自由だが。明日を逃せばこういった機会は今後なかなか無いだろうな」
「きょ……脅迫犯みたいな口上だな」
「十秒時間をやる。さあ考えろ」
ええ、とぼくがうめき声のようなものをあげるのも構わず亜双義は数字を呟き始める。十、九、八、と時間は順調に減っていった。が、実質それはぼくにとってあまり意味のないものだったし、絶対にコイツは分かってやっているのだ。ああ心臓の音が騒がしい。
「時間切れだ。答えろ」
言われて、熱いままの頬を掻く。泳ぐ目すら御せないままぼくは少しの間沈黙した。はあ、と吐いた息は微かに震えて部屋に漂う。
「十三時だったよな」
「ああ。そうだ」
「……待っててくれ」
ふ、と余裕たっぷりに笑うのが恨めしい。楽しみに待つとしよう、などとからかうように告げられてさらに体温が上がる。というか十三時って、真っ昼間じゃないか。目を逸らしながらそう言うと多忙な検事さまは「時間が空いていただけ良いと思え」と口にするので、異議を申し立てることもできずにぼくは閉口するのだった。
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