ダイジェストネタ
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目の前に男が座っている。その男の顔には目と鼻がなく、しかし口だけはきちんと付いていた。ぼくを見て楽しげに笑っている。良いことでもあったのだろうか。
「あの、どこかでお会いしましたか」
訊けばその男は一度閉口したもののまた愉快そうに口端を吊り上げた。いずれ思い出す、と波紋のように声があたりに広がる。ぼくの手元、白いテエブルクロスの上に置かれている鶏肉にはまだ誰も手をつけていない。一緒に食べないかと尋ねると男は静かに首を振った。ひどく頭痛がする。
席を立ったぼくらはあてもなくあたりを歩く。遠くに大きな船が見える。汽笛の音に少し驚いたぼくを一瞥して男はあっはっはと笑った。笑うなよ、と言おうとして、男の名前が思い出せないのを歯痒く思った。
「成歩堂。キサマ、なかなかの物を腰に提げているではないか」
言われて、指された指先をたどり自分の腰を見ると立派な日本刀がひとつぶらさがっていた。その鞘には赤くたなびくハチマキが巻かれている。ああ、とぼくは短く呟く。
「狩魔という名前の刀なんだ。とある人から譲り受けて」
そう口にしたものの誰から託されたものなのかはなぜだか思い出せない。靄がかかったように記憶が不鮮明なのだ。「大切なものなのだろう」と男は言う。ないはずの瞳が三日月の形に歪んだように見えた。ぼくはきっとこの男をよく知っている。
「亜双義」
口のなかで生まれた言葉をそのまま音にすると、いっそ不思議なほど舌にするすると馴染んだ。男はやっぱり静かに笑っている。「亜双義一真」「そうだ、おまえは亜双義一真だ」「ぼくの親友だった、司法留学生に選ばれるほど優秀で、大英帝国に行くことが決まっていて」「一緒に来ないか、とぼくを誘った」「亜双義、おまえ、どうしてこんなところにいるんだ。おまえ……」
死んだだろう、と口にすれば男の目と鼻はますますくっきりと浮かび上がってくるのだった。代わりに口がさっぱりとなくなっている。ぼくを見る目はいやになるほど穏やかではないか。一歩踏み出すと、目の前の男に託された覺悟がぼくの腰元でかすかに音を立てた。亜双義はもう何も言わない。けれど確かに今、笑っている。
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