久々に会った春川さんと夕食を共にしていたとき、二人の携帯電話が同時に鳴った。確認すると差出人は不明で、文面は二人とも同じく「希望ヶ峰学園、正門前で待つ」というものだ。いたずらか何かじゃないかと苦笑した直後、それはまるで稲光のように僕の頭を撃ち抜いた。探偵の直感、いや助手の直感だ。ああ、そうか、彼が帰ってきたのだ!
「春川さん、行こう」
「は?ちょっと、何……」
戸惑う春川さんの手を引いて僕は居酒屋を後にした。タクシーを掴まえて簡潔に場所を述べ、目的地にたどりつく。ほぼ深夜なのもあって校門はぴっちりと閉じられ校舎からは光のひとつも漏れていない希望ヶ峰学園、その前に彼は立っていた。息を呑む春川さんの代わりに僕は彼の名前を呼ぶ。ーー百田くん。
「おう。終一、ハルマキ、久々だな!」
その声を聴くのは約20年以来だった。比喩でもなんでもなく昔と少しも変わっていない。声だけでなく顔も体も何もかも、20年前とひとつも変化していなかった。高校生の姿のままの百田くんは僕らに向かってにかりと笑う。僕はすぐさま得心した。彼の体は、宇宙で僕らの時間を追い越したのだ。

「オメーら、ウラシマ効果って知ってるか?SFなんかでは有名な用語だけどよ。まあ簡単に言ったら名前のとおりのモンだな。宇宙飛行士が宇宙船で光速にちけースピードを出して移動したあと地球に帰ってきたら、地球では宇宙飛行士が宇宙で経験した日数よりも長い年月が経ってた、っつー現象のことだ。宇宙空間ってのはそういう常識はずれみてーなことが日常茶飯事で起こりやがる。おもしれーだろ?オレが宇宙から帰って来たときには、オメーらもじいさんとばあさんになってるかもしれねーな」
宇宙に向かう数日前、百田くんは僕らにそんなことを話してくれた。その時は現実離れした話だなあなんてぼんやりと考えただけだったけれど、実際こうして目の当たりにしてしまうと納得以外の道は塞がれる。今30代後半の僕の横に並んでいるのは、10代後半のあの頃の百田くんなのだ。宇宙とは彼に似てメチャクチャな場所なのだ、と嫌でも実感する。
「さすがにじいさんとまではいかなかったな」
「あはは。本当だね」
「地球観光に付き合え」という彼の命に応じ、二人で町をぶらぶらと歩く。宇宙での彼にとって半年ほどだったらしい地球での20年は、町並みになかなかの変化をもたらしているらしかった。適当なファストフード店に入りハンバーガーを咀嚼している百田くんは地上の発展についてとても興味深そうに話をしてくれる。サンドイッチをちびちびと食べる僕は彼の言葉を聴きながら笑ったりうなずいたり相槌を打ったりしていた。
しばらくそうして歓談を楽しんでいると、ふと携帯電話が着信により震えだした。電話の相手は仕事の依頼主だ。
「出ろよ」
そうやわらかく彼が言うので、ごめんねと一言断り電話を取る。通話中、百田くんは静かな目でじっと僕を見ていた。視線は携帯電話を持つ左手に向かって注視されている気がする。ああ、そうか。言い忘れていた。
「結婚したんだ」
通話を終えて第一声、僕は彼にそう言った。そうか、と彼は呟く。
「ガキはいんのか?」
「うん、二人」
「上等だ」
ふっと百田くんが笑う。僕の気のせいだろうか、その目尻が何かを懐かしむようにちいさく歪んだ。
「助手の成長っつーのは早えーもんだよな」
「……うん」
「終一、オメー今幸せだろ」
「わかるの?」
「目を見りゃ全部わかる。幸せだっつーことも、一人前になったっつーこともな。今日までよくやってきたじゃねーか。さすがはオレの助手だ」
「……あはは。そんなのさすがに、そこまで」
わからないでしょ、と言おうとしたけれど、言葉が詰まって出てこなくなった。いろいろな感情が急に形を成しはじめ、哀愁や懐古、安堵などに変わってツンと鼻をつつく。今日までの日々で起こった辛い思い出、そのほとんどが意味のあるものとして輝きだしてしまった。ああ本当にこの感覚、すごく懐かしいな。そう感じたときにはもう涙はテーブルに次々と落ちてく。男なら涙はしまっとけ!だとか言われるかな、と思ったけれど、意外に百田くんは黙ったままでただ僕を見ていた。備え付けの紙で涙を拭っている最中、そういえばまだおかえりを言えていないことに今さら気がつく。どうしても震えてしまう声で、百田くん、と彼を呼ぶ。そしたらすぐに返事をしてくれた。
「今さらだけど」
「おう」
「おかえり」
「……おせーな!」
ぶは、と彼が吹き出したのを見て、僕もつられて笑ってしまった。


しばらくは地上にいられるのだろうと思っていたのに、彼の多忙は僕の想像を超えていた。残酷なことに、あと一ヶ月もすれば百田くんはまた地球を去ってしまうらしいのだ。次に帰ってくるのはいつなのかと問いかけても明確な答えは返ってこない。すぐに帰る、という言葉を素直に受け止められないくらいには現実というものを分かってしまっていたし、彼のことを知らないわけではなかった。次に百田くんが帰ってくる時、僕はついに老人になっているかもしれない。いや、会えるならまだいいけれど、もしかしたら僕はもう彼に会えないという可能性だってあるのだ。
見晴らしのいい丘の上で百田くんはじっと星空を見つめている。今日は流星群が見える日だという。地上に帰ってきても彼は空の先のことばかりだ。
「あんまり心配すんなよ」
「……え?」
「ボスが大丈夫だっつってんだぞ?助手はただそれを信じて待ってりゃいいんだよ」
僕の前に立つ彼は振り返らずにそう言った。ずいぶん冷たい風が吹いて、その特徴的なジャケットが揺らめく。大きな背中はずっと変わらない。何年経っても僕はただ彼の言葉に支えられる存在なのかと、少し寂しくなる。
「百田くんは……」
不安じゃないの? そう問いかけようとしたけれど、ためらいが邪魔をした。それに答えなんて訊かずともわかっていた。だって僕は彼の助手だ、ボスの言いそうなことなんてすぐにわかる。
「来たぜ」
そう彼が発した直後、流星群は次々と空を流れていった。
浦島太郎の孤独というものをずいぶん真剣に考えながら帰路につく。竜宮城から帰ってきたら、知っているものは誰一人としていなくなっていた。それは果たしてどれほどの孤独なのか。 例えば今僕が家に帰ったとき、当たり前に待ってくれている家族が忽然といなくなっていたら。ある日突然、全員が僕の名前も才能も顔も知らない世界になったら。僕は世界にとって何になるのか。
(まるで異星人だ)
暗く大きく開いた穴の中を覗きこんでしまったような気持ちになり、思わず拳を強く握りこんだ。星を見ていたとき、不意に僕に振り返った百田くんの確かな輪郭を何度も反芻する。彼の笑顔は地球でうまれた。僕らはそれを知っているのに、いつか彼を証明できなくなる。手のひらに汗が滲むのを静かに自覚していた。季節は冬のさ中だった。

またな、とロケットの前で手を上げる彼に多数の歓声が投げつけられる。僕は仕切られたスペースの中で百田くんを見つめている。横断幕やクラッカー、何故かライスシャワーまで持ち出され現場は応援ムード一色だった。
「終一」
大勢を掻き分けるように名指しされ、落としていた視線をそっちに向ける。目が合うとその口角がにっと上がった。
「帰ってきたらまた土産話聞かせてやる。オメーもおもしれー話題、星の数以上用意しとけよ」
「うん、ずっと待ってるよ」
百田くんは笑って僕に親指を立てる。やがて体を翻すと勇敢にロケットへ足を踏み入れた。反射的に身を乗り出し、ロケットに向かって叫ぶ。
「キミの故郷はここだ、僕らはずっと待ってる」
「キミの星は僕が守るから、だから絶対、ここに帰って来て」
まとまらない言葉たちを彼の背中に投げる。百田くんは僕に振り返ると、言葉すべてを受け止めるようにまた笑顔を浮かべた。そしてぱくぱくとその口が動く。けれど、何を言っているのかはわからなかった。聞き返そうとした直後彼はロケットに乗り込む。発射準備のアナウンスがあたりに響いて、周りの人々は皆一様に色めき立った。ああ、行ってしまった。


「宇宙飛行士の知り合いがいるんだ」
そう話すと幼い孫は興味深そうに相槌を打ってくれた。名前は百田解斗といって、高校生くらいの年齢で。今も宇宙のいろんなところを旅しているすごい人なんだ。ただ言うことはメチャクチャだしオバケが苦手だしギャンブルにのめりこんじゃうところがあったりする、ちょっと変な人なんだけどね。言うと、孫はけらけらと笑っている。
「いつか彼が地球に帰ってきたら会えるかもしれない。その時は温かく迎えてあげてほしいな」
うん、と大きく頷いてくれた孫を見て少し安堵した。これで彼の存在はまだこの地球に残ると思った。僕はもう先が長くないのをわかっていた。
無機質な機械の音が病室に響いている。あちこち機械で繋がれベッドに寝かされている僕は最近天井ばかりを見ていた。といっても、目が霞んでそれすらろくに見えていなかったが。もう自力で呼吸すら出来ない。終わりが近いのだなと深く実感する。ガラ、と病室に引き戸が開く音がしても振り向くのにそれなりの時間を要した。足音がベッドに向かってくる。目の前の椅子に座って僕の手を握った、それが一瞬誰だかわからなかった。
「終一」
「百田くん?」
「おう」
久しぶりだな、と言って目尻だけで笑う。霞む視界をぐっとこらした。彼はまだ10代を続けているようだった。僕はすっかりしわがれたそれで彼の手を握り返す。
「今度こそおじいさんになっちゃったね」
「ああ。待たせちまったな」
「でも会えた」
ぐ、と持ち得る力すべてで手を握ると、百田くんは感情がない交ぜになった曖昧な笑みを浮かべた。
「土産話、山ほど持ってきてやったぜ。オメーもボスに報告したいことが腐るほどあるだろ?次の宇宙までまだ時間はあるからな、いくらでも聞いてやる」
ありがとう、と僕は返す。「でもその前に、お願いしたいことがあるんだ」
「おう、なんだ?なんでも言えよ」
彼は上体を傾けて僕の言葉に耳を澄まそうとしてくれる。僕は言葉を選ぶこともなく、ただありのままを彼に伝えようと決めた。うまく吸えない酸素をなんとか取り込んで、ゆっくりと口を開く。
「ずっとキミの助手として生きてきて幸せだった。でも最後に一度だけ、キミの友人として話がしたい」
「キミが今何を考えてるのか、どういう嘘をついてきたのか、その全てを知りたいんだ」
「百田くん、僕はキミの弱音を聞きたい」
すべてを言い終わると、僕の言葉を静かに聞き入れてくれていた百田くんは困ったように微笑んだ。眉の間に少しだけ皺が寄せられている。生意気言うようになりやがったな、なんて呟きには無音の笑顔で返した。伊達に何十年もこの口を酷使してきたわけじゃない。
彼はしばらく言葉を発そうとはしなかった。長く息を吐き、頭をがしがしと掻く。
「知らねーほうがいいこともあるんじゃねーのか」
「僕は探偵だ。知らないままの真実があることが一番怖い」
「……そうかよ」
僕の目を見て、彼は諦めたようにそう呟いた。ずいぶん衰えたこの眼差しにも未だ炎はともっているようだ。百田くんは僕の手を強く握り、しばらくの間何かを確かめるかのように指や手の甲をさすっていた。廊下からかすかに足音が聞こえてきて、部屋の前を通過するとそのまま遠ざかっていく。窓の外では鳥がちいさく鳴いていた。すべての音が止んだ瞬間、百田くんは口を開く。
「……オメーもハルマキもいなくなったら、ここはもう歴史だけでしかオレを知らねー人間だけの星になる」
「宇宙人を探しに行ってる間に、自分が宇宙人になっちまうんだ」
「なあ終一、オレはここにいていい人間か?」
そう言うと、百田くんはまた笑うのだ。けれどそれは今まで幾度となく目にしてきたものとは違っていた。そんな笑いかたは初めて見る。死を目前にして胸の奥に芽吹いた新たな光を眺めながら、大丈夫だよ、と僕ははっきりと言った。根拠ならある。
「今まで、家族にキミの話をたくさんしてきた。教科書にも記念館にも書いていない百田解斗を知っている人間が、少なくとも数人いる。キミがどういう人間かを分かっているのは僕と春川さんだけじゃないんだ。『この前』言ったじゃないか、キミの故郷はここだって」
ひゅ、と言葉尻が掠れる。視界の靄は少しずつ濃さを増した。限界が近いのだろう。けれど不思議と苦しみはなく、身体中がふわふわとした浮遊感に包まれていた。ああ、ようやくだ。ようやく、僕は彼を暴いた。百田くんは絡まった糸がほどけるようにゆるりと破顔する。
「オメーがそう言うなら、大丈夫ってことなんだろうな」
「うん、信じてくれるよね?」
「信じるに決まってんだろ。オメーを疑ったことなんか一度もねーよ」
「うん」
少しずつなくなっていく体の感覚に戸惑う気持ちはなかった。いつの間にか流れていた涙に気がついて、彼の前では泣いてばかりいるな、と胸中で苦笑する。百田くんはやっぱり何も言わずにそれを見てくれていた。百田くん、と名前を呼んだけれど発せているのかわからない。でもすぐに返事をしてくれたので、届いているのだと安堵した。百田くん、今さらだけど。
「おかえり」
「だから、おせーんだよ」
彼の笑い声が遠くでかすかに聞こえた。もう体はどこも動かなかった。そこで僕は最期、意識をなくした。
「……おし、終一。お待ちかねの土産話といこうぜ。今回の宇宙もすごくてなあ、普通ならありえねーようなことが山ほど起こりやがる。例えば終一、オメー、宇宙ひも理論っつーのは知ってるか?あれはな………」
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -