何があったわけでもないのにもうおしまいだと叫びだしたくなるほど心が打ちのめされた夕暮れ、開けっぱなしの窓から差し込む橙すら冷たい色にしか感じられなかった。電話線を抜いて部屋の端にうずくまり、頭を抱えながら床をじっと眺める。バラバラに散らばった仕事の資料やどうでもいいチラシが視界に入るだけで悲しくなった。
どれくらいそうしていたのか、気がつけば橙は色をなくし部屋は真っ暗闇に包まれていた。ふと誰かの気配を目の前に感じる。でも顔を上げる気力すらない。
「終一」
聞き覚えのある声は気楽に僕を呼びつけた。ちょっと近くまで来たから寄ってみた、そんな雰囲気の声だ。返事すら返さない僕に彼は続ける。
「海行かねーか」
ようやく顔を上げた僕に、百田くんはにかりと笑った。連れていってやる、なんて当たり前のように告げられて腕を引っ張られる。百田くん、と名前を呼んだら「おう」と返事にならない言葉を投げられた。ああこういうメチャクチャなところ、全然変わらないな。

連れていくと言ったのは彼なのに、車を運転したのはなぜか僕だった。バタン、と助手席の扉を閉めた百田くんは静かに目前の景色に目を向ける。 僕もシートベルトを外して運転席から降り、砂浜の向こうに広がる真っ暗な海を視界に映した。飲み込まれてしまいそうなほど濃い漆黒は伸びやかにただ地平で横たわっている。波のひとつも立たない水面は、時が止まっているような錯覚すらこっちに起こさせた。百田くんが砂浜へと歩き出し、僕もゆっくりと後を追う。風ひとつない生ぬるい春の夜は当たり前のように僕と彼を柔く包んでいた。
砂浜に着くと、百田くんは早々に靴を脱ぎ片手に携える。裸足で細かい砂の粒を踏みしめながら彼の足はずんずんと海へ向かった。その背を目指して僕も小さな砂漠を進む。ふと視線を逸らすと、遠くの空で飛行機か何かの赤い光がちかちかと瞬いた。前方からは弾んだ声が陽気に響く。
「終一、なに靴なんか履いてんだ。早く脱いでこっち来い!」
足先で海水を跳ねさせながら百田くんは僕を急かす。苦笑しながらも言われたとおり靴と靴下を脱ぎ、素足を水にそっと浸けた。想像していたより冷たくなくて少し驚く。春の海なんてまだまだ冷たいはずなのにな。そう考えて、途端にやけに寂しくなった。水面はおぼろげに揺らいで僕の姿も彼の姿もうまく映していない。
ほどよい静寂に身を任せぼんやりとしていたとき、ふいに水音が響いて、「おら!」と勢いをつけるような声がした。それらを脳が処理する直前、ばしゃ、と一際大きな音が鳴る。次の瞬間僕は頭からびしょ濡れになっていた。犯人はもちろん、目の前の彼だ。悪びれもせず太陽のように明朗に笑っている。
「どうだ、さっぱりしたか?」
濡れそぼって額に貼りついた髪を横によけて、百田くんの笑顔を正面から見つめ直す。いつもより視界が広くなったからだろうか、確かに少しずつ気持ちが晴れていくような感覚がある。うん、と返せばその目尻が柔く解けた。
「海は身近な宇宙みてーなもんだ。ここに来ればたいていの悩みは水に流せる」
そう言って、百田くんは遠くに据わる光に目を向けた。もう微かにしか見えないそれは夜の終わりを告げようとしている。
僕はすうっと息を吸い込んだ。夜のかさついた空気は胃には流れ込まない。いつまで経っても冷えない体と足先もあらゆる事実と感情をこっちに自覚させた。たとえば潮のにおいがひとつもしないとか、ここに来るまでの道筋をこれっぽっちも覚えていないとか、どれをとってもすべて決定打だ。
「百田くん」
「これは僕の夢だよね?」
だってキミは死んだ。語尾の掠れた言葉は彼には届かなかったようだった。いや、届いていたかもしれない。来たときよりも薄く白んだ空は、それでも彼の心まで透かすことはできなかった。手を伸ばしても果たして触れられるかわからない。夢くらい、都合のいいことが起きればいいのにな。僕にはどうしても彼の正確な気持ちを知ることはできない。
ちぐはぐなグラデーションの空に百田くんの輪郭が溶けている。きっと朝はもうすぐ隣にいるのだ。波の鉤裂きのようにまとまらない感情を抱えたまま、目の前の彼の名前をそっと呼んだ。どうした、とすぐに気楽な言葉が返ってくる。
「また会いに来てくれるよね」
いつもどおりの着方をしているその上着が風に揺れて、僕の毛先もかすかに揺れ動いた。僕をまっすぐ射抜いていた百田くんの視線がほんの一時水面に移り、次に真横へ移動する。そしてまた僕のほうへと帰ってきた。「おう」と彼の口は動く。あ、今。嘘をついた。
「また来ようぜ」
当たり前のように浮かぶ笑顔は違和感だらけだ。けど、指摘はせずにわからないふりをする。僕の無知という嘘はきっと昔よりうまくなっていた。きっと、もう彼よりも上手だ。
太陽の頭頂が海からせり上がり、目映い光を無遠慮にあたりに撒き散らしはじめる。不思議な色の雲は控えめに夜空と朝焼けの中間の景色で浮かんでいた。少しずつ白に縁取られていく百田くんは、一歩だけ僕に近づく。足元でバシャリと水が跳ねた。
「見えるか。夜明けだ」
「……うん」
見えてるよ。言ったらまた満足気に笑うんだろう。少し悔しくて、密かに唇を噛んだ。これから僕がどれほど悩んでもキミはここには来てくれないだろう。僕は今日のこの夢を何度も何度も馬鹿みたいに反芻して生きていくのだ。それが果たして残酷なのか優しいのかはわからなかった。
朝焼けの橙が少しずつ百田くんの表情を隠していく。僕を呼ぶその声はどんどん朧気になる。一番最初に忘れる記憶は声だって、いつかテレビで聞いたことがある。
「またな」
また嘘をついた彼を僕は最後まで暴かなかった。代わりに笑ってみせれば、視界が徐々に朝靄の色に変わっていく。百田くんはただ笑顔のままそこに居た。


固い床の上で目を覚ました早朝、体を起こした僕はすぐに家から出て車に乗り込んだ。たどり着いた先の海へ踏み入り、砂浜に腰を据える。潮のにおいがつんと鼻をつき、裸足の足裏を細やかな砂粒がくすぐった。ごみや木片の散らばる海は、夢で見たほどきれいではない。けれど夢で見たよりも確かに大きかった。膝を抱え、ひとりの名前を呟くように呼ぶ。返事の代わりに乾いた風が頬を撫でた。もう大丈夫だ、また歩いていける。
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