風邪を引いて寝込んでいたら急に百田くんが部屋にやって来て、「風邪なんか宇宙でも見てりゃ一発で治る」なんてよくわからない理論を展開しながら小脇に抱えていたホームプラネットのスイッチを入れた。部屋の中が一瞬で薄紫の星空に塗りかわり、「な!」と彼が笑う。いや、な!と言われても、と内心でこっそり苦笑した。
「あの、百田くん。うつると悪いし、今日はもう……」
「おいおい、オレを誰だと思ってんだ?そう簡単にうつされるほど甘っちょろい鍛え方はしてねーぜ」
そう言いながら百田くんはこっちに近付いてくるとベッドに勢いよく腰掛ける。スプリングが軋んだのと同じ瞬間、かすかに石鹸の匂いが漂ってきた。いつもばっちりとセットされている髪が今は下ろされているし、先端も少し濡れているからきっと風呂上がりなのだろう。だから余計うつらないか心配なんだけど、再度言ったところで素直に聞いてくれるような雰囲気ではなかった。というか、百田くんって髪を下ろすと少し幼く見えるな。そんなことをぼんやり考えていると、彼は「あー」と短く呻いて自分の腕をさすりはじめる。
「ちっと寒いな」
「あ……湯冷めしたんじゃない?やっぱり早く戻ったほうが……」
と喋っている最中、その顔が僕に振り返る。そしてベッドに膝を乗せると、なぜか僕の被っている布団をめくった。え、と思わず口から漏れた一文字などに構う様子はなく、彼は体全てをベッドに上げると僕の布団へと潜り込んでくる。百田くん、と慌ててあげた制止の声も意味を為すことはなかった。僕の横にぴたりと寄り添った百田くんはこっちを向いて笑う。
「わりーな、入るぞ」
「……入る前に言ってよ」
腕と腕が触れあってくすぐったいし、横を向いたときの顔があまりにも近すぎる。僕はあまりパーソナルスペースが狭い人間ではないから、他人とここまで密着しているという状況にそうそううまく順応はできなかった。少しだけでも距離を取ろうと横にずれようとする。けれどそれは叶わず、百田くんはなぜか僕の肩を抱くと自分のほうへと力強く引き寄せた。動揺する僕に対して彼はあっけらかんとこう言い放つ。
「くっついてたほうが冷えねーだろ」
「いや、そういう問題じゃ……」
こう喋っている間も声を間近に感じて落ち着かないのだ。布団の中で籠る声はいつもより少し低く聴こえる。
「本当にうつっちゃうよ、風邪」
「大丈夫だっつってんだろ?心配すんな」
彼に譲歩する気は微塵もないらしい。じゃあもう僕が譲るしかないじゃないか、と助手の苦労を感じながらおとなしく百田くんの横に収まる。黒や紫に染まった壁に映る星々はひとつひとつが強い光を放っていて、普段はただ殺風景なだけの部屋が絵に描いたような美しい景色へと変貌している。百田くんはたまに大きな惑星や連なった星たちを指差すと、それの名称と逸話を教えてくれた。天文的なことにはまったく明るくないから、ほとんどの話が初耳だ。
「お、来るぜ」
不意に彼がそう言って、輝く瞳で天井を見やった。つられて上を仰げば鮮やかな彗星がいつの間にか現れていて、真下の壁には地球の表面が大きく映る。彗星がひときわ明るく輝くと、少しの間のあとにそれは地球の内側へ向かい、すっと一筋を通過させていった。そのひとつを皮切りにいくつもの流星が青い惑星の底に落ちるように流れていく。おそらく流星群だった。星の群れが地球に流れていくのを、僕たちは宇宙から見下ろしているのだ。非日常的な光景に視線が縫いつけられる。
「すげーだろ。最新機能だ」
弾む声に「うん」と返事をする。流線はひっきりなしに視界を埋めつづけた。隣を盗み見れば、百田くんの瞳の中で星が過ぎ去っていく。ひとところに留まらない輝きがはっとするほど綺麗だけど、下ろされた髪が邪魔をしてよく見えなかった。ほとんど無意識に彼の顔に手を伸ばす。頬に触れそうになった瞬間、その目が僕に向けられた。どうした、と問いかける声に返事はなぜかできなかったし、百田くんもそれ以上何かを口にすることはしなかった。どうして何も言わないのか。彼らしくない静寂が場に漂っている。
百田くんの無抵抗に甘え、その目にかかる紫を指先で払いのける。流星群は光の筋になって不規則に彼を照らした。遮るもののなくなった瞳は控えめに瞬いて、僕に向かってかすかに細められる。
「熱いな」
心臓がひときわ大きく早鐘を打った。胸の奥がじりじりと燃えて、呼吸を忘れそうになる。熱いというのは、彼の頬に触れている僕の手の甲のことを指しての言葉だろう。熱が上がっているから熱いのか、違う理由で熱いのかはわからなかった。百田くんの頬は冷たい。けれど、触れている肩や腕は暖かい。感情の読み取れないその表情を過ぎ去る光が少しずつ数を減らしていく。やがて流星群は最後の一筋を描くと、ぱたりと漂流を止めてしまった。
「……どうだ終一。もう治っただろ?」
パッと視線を僕から離した百田くんは、そのまま布団から出るとプラネタリウムのスイッチをオフにした。幻想的だった空間が一瞬にして見慣れた自室へと姿を変える。百田くんの瞳はさっきまでの密やかな様子が嘘だったかのようにいつもどおりの明るさへと還っていた。夢だったんじゃないか、あの一瞬は。そんなことを熱で火照る頭で考える。
「そんなに急に治らないよ」
苦笑する僕に「いーや治る!」とまたメチャクチャなことを言いながら百田くんは笑う。もうすっかり普段どおりの調子に戻った会話のなかで、僕だけがひっそりと名残惜しさを感じていた。触れつづけていた体の暖かさも百田くんの頬の冷たさも、まだはっきりとこの身に残っている。おそらく当分忘れられないだろうな。そう漠然と考え、僕のそういう感情に気づいているのかいないのか分からない百田くんに対して苦笑を浮かべた。

翌朝、すっかり熱が引いた僕に対して「オレのおかげだな!」としきりに豪語する百田くんはとても元気で、彼の言葉どおり僕の風邪など全くうつってはいなかった。安心しながらもどこか腑に落ちないような気持ちになってしまうのはいったい何故なんだろうか。
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