紅鮭
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「最原君、おはようございます。それと、すみません」
昨夜適当に転がり込んだビジネスホテルの洗面台の前で、天海くんはそう言って僕に頭を下げた。僕は目をこじ開けるために顔を洗った直後で、起き抜けのまとまらない思考のまま彼のつむじを見つめていた。けれどなんとなく、言いたいことはわかっていた。
「今日起きて急に全部思い出したんすよ。俺の記憶は多分ほとんど作り物で、12人の妹たちはきっとこの世に存在すらしてないと思うんっす。俺は何者で、俺という人格は本当に俺が築き上げてきたものなのか、それすらも今はよく分からなくなってます。……寝惚けてる、って思うっすか」
自虐的に笑おうとする天海くんの口角は上がりきっていなかった。いろんな地を二人で回ってきたけど、彼のこんな表情は初めて見たな。そう冷静に考えている自分がなんだか可笑しかった。僕も今、彼と同じような顔をしているんだろうな。
「思わないよ。だって僕も今日思い出した。……僕は本当に、最原終一なのかな」
言い終わってすぐ、目覚まし時計が鳴り出した。早朝5時、外は薄暗くまだ夜を引きずっていた。僕は昔に比べて早起きが上手くなっていた。

それから数日の間、ろくに会話もしないまま淡々と現地を巡るだけの旅が続いた。別に険悪な空気だというわけではなくて、僕も天海くんも、考えていたのだ。自分はどういう存在なのか。これからどう生きていきたいかを。
「最原君」
町から少し外れた森の中で、すっかり更けた夜の寒風から身を守るために火を起こした後のことだった。パチパチと音を立てて燃える炎の前に座った天海くんは向かいの僕の名前を呼ぶ。それは静かで柔らかく、でも強い意思を持っているような、微妙なトーンだった。
「この旅に意味はあると思うっすか」
そうしてその定まらない刃を使って、思ったよりも早く核心を攻めてくる。皮肉にも涙が出そうなくらいに今日の夜空は綺麗で、吐く息はそこに近づこうと白く昇っていった。厚着をした天海くんの肩が少しだけ震えている。久しぶりにまじまじと彼を観察してみると、初めて会ったときとは変化しているいろいろな事柄に気がついた。耳のピアスの数がいくらか減って、穴もほとんど塞がっている。鼻筋や頬の痩け方からだんだん幼さが削り取られてきていた。あとは、笑顔だろうか。昔より親しみが増して、無防備で可愛いげがあって、嘘があまりなくなっていた。そういうところをすべて、何も知らない少年だった頃からずっと僕は見てきたのだ。そしてこれからも見られるのだと当たり前のように思っていた。
「もうこの旅からゴールは消えました。キミはどうしたいっすか」
天海くんの言葉だけが空気の中で振動して、しんと響いていく。火で橙色に染まる表情をじっと見つめた。僕がこうやってキミの顔を注視するとキミは必ず困ったように笑って、でも決して目は逸らさないことを僕は知っている。……ずいぶんいろんなことを知ってしまった。
「天海くん。キミはどうしたい?」
「……キミの意見から聞かせてほしいっす」
「どうして」
「……」
「先にキミの意見を聞いたら、僕がそれに引っ張られてしまうって思ってるんじゃないのか」
天海くんは僕から視線を外し、そのまま俯いた。長い睫毛も橙に染まりながら少しだけ震えている。火の粉がひとつ飛ぶたびに沈黙は重みを増していった。でも僕はそれをいつだって撃ち破ることが、今はできる。天海くん、と声をあげることができるのだ。
「僕はそこまで弱いかな」
はっとしたように顔を上げた天海くんの瞳の中には光があった。見たことがないようなものを見るような、けれどどこか懐かしんでいるような視線がじっと僕に刺さる。ああ、天海くんの鼻の頭が赤い。
「……最原君。依頼内容を変えてもいいっすか」
「うん」
「なんにもなくなっちまいましたけど。……なんにもなくなっちまったんで、俺は次は妹じゃなくて自分を探さなくちゃならなくなりました。もしキミがそれを手伝ってくれると、助かるっす。すごく。最原君、これからも俺と世界を回ってくれませんか」
はっきりと言い切った天海くんへの答えは、彼が話し出す前からもう決まっていた。
「もちろん。超高校級の探偵として、引き受けさせてもらうよ、その依頼」
そう言って頷く。そこから少しの間、静寂が訪れた。脳裏にこれまでの旅の記憶が甦ってくる。むせかえるほどの発見と意味と、朝起きたときコーヒーの匂いがするとか、多分そういうことでいいんだろう、と思う。繰り返してかき集めればきっと立派なキミと僕になるのだと、真っ直ぐに信じることができた。
やがて、はは、と天海くんが吹き出す。つられて僕も笑ってしまった。この話はもう終わりだ。
「明日の朝ご飯、何にしようか」
「そうっすね。景気付けに蟹でも食いますか」
「あはは、朝から?」
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