ED後
微妙にLA LA LANDパロ
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特に理由なんてなかった。ただ、ピアノのリサイタルに死ぬまでに一度は絶対に行っておかなくてはならないと思って、僕は春川さんを誘って一番近くのホールで開催されるリサイタルに足を運んだ。暗いホール内では多くの人が黙って席に座っている。大きな開演のブザーが鳴って、赤い幕が上がるのを眺めながら僕は隣の春川さんに「楽しみだね」と声をかけた。彼女からの返事は特にない。
幕が完全に上がり、広いコンサートホールの一番奥、照明に照らされた舞台の中央に大きなピアノが現れる。次に舞台袖から白髪のおじいさんが現れて、観客は揃って拍手をした。彼は四角い椅子の上に座ると一度大きな間を作る。そしてゆっくりと、魂を込めるかのように荘厳な動作でその手を上げた。


鍵盤が叩かれた瞬間から現実は塗り替えられた。さっきまでそこに座っていた伴奏者の姿がパチンと弾けて、代わりに椅子の上には、彼女が。赤松さんが座っている。僕ははっと息を呑み、目をみはって、気がつけば自然と席から立ち上がっていた。演奏に没頭していた赤松さんはふと手を止めて、ゆっくりと僕に振り返る。その目は迷いなく僕の姿を捉えた。彼女の口が6度、透明な仕草で動く。
「最原くん」
僕は舞台の上まで足早に歩き、たどり着いた先にいた赤松さんの体を強く抱きしめた。よろけた赤松さんの手が鍵盤を押してしまい、ばん、と綺麗とは言えない音が響いてしまう。けれど僕はそれすら美しい音色だと思ったし、赤松さんは僕の胸のなかで少し困りながらも幸せそうに笑ってくれていた。
拍手と祝いの言葉を浴びながら赤松さんと手を繋いで舞台から下りていく。大きな扉を開けて外に出ると眩しい陽の光が一気に僕らを照らして、その光のなかで赤松さんは僕ににこりと微笑みかけた。

止まらぬ勢いのまま赤松さんの両親に挨拶を終えた僕は未だ逸る心臓を服の上から押さえつけ、長く深い息を吐いた。隣から聞こえる声は楽しげに弾んでいる。
「最原くん、すっごいぎこちなかったね」
「まあ……ものすごく緊張してたから」
くすくすと笑う赤松さんにかろうじて苦笑を返す。彼女の両親が優しくて本当に助かった。慌てつづけている僕に対してもにこやかに対応してくれて、最後には「娘をよろしく」と手を握ってさえくれたのだ。しっかりとご両親に頷いた僕の横で、赤松さんは歯を見せながら照れくさそうに笑っていた。
「ふふふ」
赤松さんは上機嫌に笑い声をあげながら、じっと僕のことを見つめる。どうしたの?と訊いてみせると彼女の指が僕の頭のあたりを指差した。
「帽子かぶってた時もよかったけど、今の最原くんもいいなあと思ってさ」
「……そう?」
「うん。綺麗な目がよく見えるよ」
まるで口説かれているような言い回しにすこし照れてしまう。慌てて帽子の鍔を掴んで下にさげようとしたけれど、もうかぶっていないのだから手は当たり前に空を切った。僕を見ていた赤松さんはぷっと吹き出して、「最原くん可愛い」なんて呟いてにこにことしている。顔から火が出そうなほど恥ずかしかったけれど、不思議とまったく悪い気分にはならなかった。むしろ、こんなに幸せでいいのか、と考えたくらいだ。

赤松さんの名字が『最原』になった頃、彼女のお腹の中にはひとつの命が宿った。新居の一番広い部屋で彼女は今日もいとおしそうに膨らんだそこをさする。
「終一くんももうすぐお父さんだね」
「うん。赤松さんはもうすぐお母さんだ」
「……うーん。いい加減慣れてくれないかなあ。私はちゃんと終一くんって言ってるのに」
「……あっ、ごめん」
僕はなかなか彼女を『楓』と呼び慣れず、こうしてたびたび怒られてしまっている。赤松さんはもう赤松さんではない。それはきちんと分かっているつもりなのだが。しっかりしてよお父さん、と頬を膨らませながら言われてしまってはただ項垂れることしかできなかった。
なんとか機嫌をなおしてくれた赤松さんは、僕によく弾いて聴かせてくれるあの曲を口ずさみながらまたお腹を優しく撫ではじめる。
「この子はどんな子に育つかな?」
「優しい子になるよ」
「終一くんみたいに?」
「楓みたいに」
二人で顔を見合わせて笑い合う。この先僕たちの子がどんな風に育ってどんな風に生きていっても、僕らはそこに希望を見るだろう。いつか顔をくちゃくちゃにして泣くその子を赤松さんの柔らかな腕がそっと抱きあげる。ひとりで地に足をつけられるようになったその子に僕らは歓喜の声をあげる。僕たちはそうやって、有り余る喜びのなかで共に歳を取っていくのだ。決してはぐれないように、外れないようにしっかりと手をつないで歩いていく。もう赤松さんは誰にも連れ去られないし、僕ももうどこにも行かない。名前を呼べばいつだって振り返ってくれるのだ。彼女の明るい髪が、今日も眩しく陽に溶ける。


ポン、と鍵盤が強く弾かれたのを最後に、演奏が止んだ。少しの間を挟んだのち、勢いのよい拍手の集いがホール内に巻き起こる。はっとした僕は、大きなシャボン玉がパチンと割れたような感覚をおぼえた。同時に舞台の上にいた赤松さんの姿も弾けて、そこにはただ老人の姿のみが存在している。僕の赤松さんとの現実が願望へと反転した瞬間だった。僕の本当の現実は、赤松さんではない人が弾くピアノの音、そしてこのひとりきりで宙ぶらりんになった冷たい手だ。頭と視界がすうっと冴えていく。遠く聞こえていた拍手の音も、少しずつ耳が正確な大きさとして拾いはじめる。赤松さんはもういない。僕は彼女の手を掴んでいることができなかった、それが僕の生きてきた現実なのだ。つらく悲しく険しくて、それでも。たとえ彼女がもういなくても後悔ばかりにまみれても、地に足をしっかりと据えて僕はここまで歩いてきた。
伴奏者が深々と客席に頭を下げて、幕がゆっくりと下りていく。人々が次々に席を立っていくなかで、僕はじっと下りきった幕を見つめていた。隣で立ち上がった春川さんが僕の肩を叩くまで、義務のようにずっとそうしていた。
「最原」
名前を呼ばれて、間を置いてから横を見る。そうして僕は春川さんに微笑みを返した。ぎこちない笑みになっていないだろうかと、すこしだけ不安に思った。
「行こうか」
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