おそらく他のどの高校よりも特異であるだろう希望ヶ峰学園にも意外に体育祭や文化祭などの普遍的な行事は存在していて、となれば修学旅行だってきちんと存在している。旅先で皆各々にはしゃぎ疲れて、旅館に着いた頃にはほとんどのクラスメイトは眠そうに目を擦っていた。春川さんと共に百田くんに連れ回された僕にとってもそれは例外ではなく、温泉から出て寝床に入った途端に眠気はあっさりと瞼にのしかかる。五人部屋という雑魚寝体制の部屋の端で布団に潜って睡魔に身を任せ、いつもとは微妙に違う高さの枕ややけに冷たく感じる布団、嗅ぎ慣れない畳の匂いに旅の実感を強く認識しながら、僕は少しずつ眠りに落ちていった。……はずだったのだが。
みし、と床が軋む音でまず浅く意識が揺り動かされた。みし、みしと断続的に聴こえるそれによって、誰かが廊下を歩いているのだと察する。やがて足音は止まって、引き戸が擦れる音がした。どうやらこの部屋の中の誰かがトイレか何かから帰ってきたようだ。納得して、また意識を布団に離そうとした。明日も早起きだし起きれるようにしないとな、とぼんやり考えながら目を閉じる。が、その眠りは意外な形で妨害されることになった。
急に背中の辺りで籠っていた熱が剥がされて、冷たい空気が布団を越えて入り込んでくる。直後、何か明らかにおかしな動きが背後で感じられた。端的に言うと、誰かが布団に潜り込んできたような感覚だ。え、という呟きを反射的に声に出しながら慌てて後ろを振り返ると、ちょうど人影が掛け布団の半分をかぶって寝床に就こうとしているところだった。もぞもぞと動きながら眠る準備をするその人影、それはどう見ても、百田くんだ。動揺に全身を支配され、硬直したまま小さく彼の名前を呼ぶ。
「も、百田くん?」
「………」
百田くんは返事もなしに布団の中に押し入ると、ぼんやりとした瞳のまま布団をしっかりとかぶる。とは言ってもすでにそこには僕がいるので、ぎりぎりはみ出すかはみ出さないかくらいの面積だ。僕はどうすればいいのかわからず、ただ呆気に取られながら間近に迫る百田くんの顔を見る。彼は枕の隅に顔を乗せるとゆっくり瞼を下ろしはじめて、そのまま、まるで自然の摂理であるかのような緩慢さで目を閉じた。そして、当然のような流れで健やかな寝息を立てはじめる。僕は少しの間じっと体を固まらせ、やがてすうっとクリアになる思考のもと、脳内であるひとつの結論を組み立てた。
ーー寝惚けている。そう、百田くんは完璧に寝惚けて寝床を間違えているのだ。このままここで寝付かれると狭いし落ち着かないしでさすがにとても困る。彼の体を揺すりながら、百田くん、とその名を何度か呼びつけた。
「布団、間違えてるよ。百田くんの布団は僕の向かいだよ!」
「……」
努力も虚しく返事はない。聴こえるのは規則正しい寝息だけだった。早く安眠につきたいので諦めず何度も揺すり声をかけつづける。そのたび百田くんの眉間に皺が軽く寄ったり短く返事にもならないうめき声をあげたりはするのだけど、完璧な覚醒までにはあまりにも遠かった。何分間かそうした挙げ句疲れきった僕はいったん手を止め、困り果てながら百田くんの寝顔を見つめる。……さてどうしよう。百田くんに起きる気配は微塵も感じられないし、もうこのままこうして一夜を過ごすしか手はないのか?
考えを深めつつ、視線はその閉じたままの瞼やひそかなまつげに吸いついていく。寝ているんだからそりゃ当たり前なんだけど、かつてここまで静かな百田くんが存在したことがあっただろうか。怖い話を聞いて意気消沈している時ぐらいしか見たことがない。それに温泉でぺたりと崩れてしまった髪や少し生え始めている口回りの髭、帯の緩んだ浴衣姿とか、すべてがあまりに新鮮で、時間が経過すればすれるほどなんだか何もかもが照れくさくなりはじめてしまった。熱くなる顔と逸る鼓動によって焦りが増していく。本当にこのまま朝を迎えるのか。なんというか辛いだろう、これは。それにこの状態を朝誰かに見られるのもとても困る。
悩み果てつつ周囲をきょろきょろと見回し、そこで僕は実に簡素な解決策にようやく気がついた。そうだ、僕が百田くんの布団に移動すればいいのだ。それならお互い一人分のスペースで眠ることができる。思い付いた瞬間気が楽になり、ほっと胸を撫で下ろす。そしてすぐ実行に移そうと布団から出ようとしたのだが、ここでまさかの事態が僕に起きてしまった。
突如百田くんの腕が僕に伸び、肩を抱き寄せるようにがしりと掴む。僕の体に腕を乗せる百田くんは、そのままぴたりと静止した。……静止してしまったのだ。つまり、百田くんに抱きつかれた状態のまま、僕はなぜか身動きを封じられてしまった。
「……も、百田くん!」
慌ててまた名前を呼ぶものの、当たり前のように返事はない。その手をなんとかどかそうとしても存外の力の強さによって希望は打ち砕かれた。まさか退路が塞がれるだなんて誰が予想しただろうか。
「あの、困るよ百田くん、ねえ百田くん!」
小声で叫ぶ、という神経の使う作業を繰り返しながら百田くんの体を揺する。めげずになんとかそれを続けていると、やがてようやく百田くんに新たな反応が現れた。んん、と呻くと眉間の皺を濃く刻み、その瞼がゆっくりとした動作で持ち上がっていく。ーーああ、突破口が見えたか!
百田くんはいかにも眠そうな顔のまま僕を見据えると、そっと口を開いた。
「……終一」
「うん、そうだよ。ここは僕の布団だよ、百田くん」
寝起きの頭に言葉の意味はなかなか入りづらいのか、ぼんやりとした眼差しは長い間僕をじっと捕らえつづける。気恥ずかしさを堪えながら次の動きを辛抱強く待った。百田くんはただ僕を見つめたまま、……見つめたまま。しばらくののち、静かに瞼を下ろしていった。そしてまたしても順当な流れで寝息を立てはじめる。
「も、……百田くん……!」
なんということだろう。絶望は終わらなかった。それどころか、ここでついに僕の睡眠という名の安息は完全に不可能を約束されてしまったのだ。百田くんは心地よさげな寝顔を最大級の無防備をもって僕に見せつけてくれている。その顔はやっぱり驚くほど近いし、腕がのしかかって重いし、おそらく夜はまだまだ長い。百田くんがこっちに身を寄せるたび肩を跳ねさせながら、僕はどうしたら思考を放棄することができるのかをただひたすらに考えつづける羽目になった。


朝らしい、爽やかな小鳥のさえずりが外から聴こえてくる。部屋の中はもうすっかり青白く早朝のにおいを纏わせていて、ただただ眩しくて仕方がなかった。けっきょく一度もその帳を下ろさなかった瞼を含め全身があまりにも気だるい。じっと天井の梁を見つめていると、すぐ横から「んん」とうめく声が聴こえてきた。視線をそっちにやれば、間近で百田くんが緩慢に目を開けていく様子が窺える。
「百田くん、おはよう……」
僕がかろうじてそう言葉を絞り出すと、百田くんは昨夜と同じようにうつろな目でじっとこっちを見た。いったん目をこすると、また僕を熱心に見つめる。なぜかその瞳はどんどん怪訝の色を含んでいって、やがて百田くんは一言、僕にこう言い放った。
「終一。オメー、布団間違えてねーか?」
「……百田くん!!」
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