じゃあ行くかと明るく発せられた声にどうして僕はこんなに言いようもない焦りを覚えているのか。その意味を考える間もなく手は自然と百田くんの服の裾を掴んでしまっていた。しまった、と胸中で叫ぶも時すでに遅しという感じで、百田くんは律儀にも立ち止まってくれる。どうするべきか、いや、何を言えばいいのか。言葉なんて用意していなかった。
「どうした?」
こっちに振り返りもせず、絞り出すようにひとことは投げられる。どうしたんだろうね、本当に。僕にも全然わからないんだ。なんて言っても不審に思われるだけだ。何も言えずただ小さく苦笑していると、百田くんは低い声で「テメー」と呟いた。
「まさかいまさら怖じ気づいたんじゃねーだろうな?」
えっ、と思わずひきつった声を漏らしてしまう。怖じ気づく、というのはまあエアレースのことだろう。設定が設定だから場面の把握が頭から抜け落ちそうになってしまうんだよな。そう思いながら「違うよ」と短く否定を入れる。けれど残念ながらそれだけで百田くんの疑心が消え去ることはなかった。
「いいや、テメーは今ビビってやがる。このレースに勝てねえんじゃねーかって考えに囚われて、そうやって不安を体現してやがる。言わせてもらうが、そんなのは全然テメーらしくねえぜ」
「あ……そ、そうなの?」
「ああそうだ!テメーと戦いつづけてきたオレには分かる。あのな最原終一、テメーの自信は、テメーの今までの努力はこんなところで揺らいじまうほど生半可なモンだったか?」
違ぇだろ!と叫んだ百田くんは勢いよくこっちに振り返った。僕は急に服の裾から手が離れたことによって少しよろけてしまい、転びそうになる体を支えるため慌てて百田くんの腕を掴む。が、そこでちょうど足がもつれあってしまい、百田くんの腕を掴んだまま後ろに倒れこんでしまった。互いに「うわあ」とあげた悲鳴は運良く後方にあったベッドの柔らかさに吸収される。あとすこしずれていたら床だった、危なかった。なんて悠長に安堵していられたのはほんの束の間のことだった。
ベッドに横たわる形になっている僕が天を仰ぐと、そこには天井を遮って僕に覆い被さる百田くんの姿がある。彼は僕の顔の横に両手をついて、驚いたような顔をして僕に視線を降らせていた。端的に今の状況を説明すると、僕が百田くんに押し倒されているような形に、なってしまっている。
認識、それは一度してしまえばなかったことにするのは難しい。そう、僕は再度、ここがどこだか思い出してしまった。この状況はいわばこの場にとってしてみればおあつらえ向きだ。だって、ここはそういう場所なのだから。だからこそ本当に、本当にまずい。思わず大きな音を立てて唾を飲んでしまい、より精神の緊張が加速した。
「悪い」
と、ここで百田くんがそう一言を口にする。それはとても冷静な、いっそ拍子抜けするほど静かな口調だった。彼の表情は至って普通で、ああでも少し普段よりきびしい顔をしているかもしれない。僕が何も返せないでいると、百田くんは「すぐ退く」と呟いて僕の顔の横についていた手のひらをシーツからそっと浮かせようとした。
それをただ見守っているだけで良かったはずだった。そうすればこのあまりに気まずい状況もなんとか収束へ向かう。はずだったのに、ああ今日二度目だ。僕の体はまた僕の意識を無視してしまった。右手で百田くんの手首を掴んで彼の動きを制止する。百田くんの肩がすこし跳ねた。
僕は、やっぱり言葉を持ち得ていなかった。準備なんてとうていできていなかった。ただ百田くんの、微かに揺れる眼差しを見つめている。彼の瞳の中に映る困ったような顔をした自分を眺めながら、こんなの全然探偵らしくないな、と心の中で自嘲すらした。でもきっと僕はいま真実をこの手のうちに捉えている。逃すのが惜しい、そう無意識に自覚してしまっている。だからこうして彼を引き止めているんだ。ひそかに息を吸って、百田くんの手首に小さく爪を立てる。
「百田くんならいいよ」
百田くんの瞳がひときわ大きく揺れ動き、視線の強さがわずかに増した。僕が掴んでいるほうの彼の手が静かにシーツを手繰る。自分の手のひらに汗がにじみはじめているのを少し気がかりに思いながら、それらの微細な変化すべてをしっかりと見届けた。鼓動が体全体に響き渡ってとにかく騒がしい。それでもなんとか、百田くんの呟くような一言を聞き取ることはできた。
「本気か?」
普段では絶対に発せられない種類の声色だ。背筋に走る甘いしびれを感じながら、うん、と頷く。すると彼はしばらくの間僕を射るように見つめた。百田くんの背中から少しはみ出た天井の照明が目に眩しい。それでも彼の次の出方をただ大人しく待ちつづけていると、やがて百田くんは顔を片手で覆って大きな嘆息を漏らした。そしてまた手を元の位置に戻し、最原終一、と僕の名を呼ぶ。
「覚悟は決まってんだな」
「うん」
「男に二言はねえぞ。見逃してやれねえ」
「……逃げる気なんてないよ。今までだって、僕が逃げたことなんてないだろ」
たぶん、設定的にそうであるはずだ。半ば不安を感じながらそう告げると、その解釈は合っていたらしく百田くんは「そうだったな」と口端を歪めた。彼の真摯な眼差しが一心に僕に向けられていて、照明も相まってとにかく目映い。思わず目を細めると百田くんは僕に顔をよせて、そこですべての光は隠された。
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