主人公:来栖暁
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キャンパスの白を意味に変える。筆を取れば此処は俺だけの世界だ、掻き消えた雑音の反響を辿るように、白を一心に見つめる。そこから先は有と無も失せた、全ての根源を探るためだけの旅だった。お前の名は何だ、と絵は俺に語りかけてくる。少し、ペルソナとの対話に似ている。
どれくらいそうしていたかは分からない。一段落つき筆を置いた俺を、不意に誰かが呼んだ。振り返ると部屋の主である男がコーヒーを乗せた盆を持って俺を見ている。視線が合うと、眼鏡の奥の瞳が細められた。
「コーヒー飲む?」
「いいのか?すまないな」
「今日はアレンジしてみたけど、口に合わなかったら言ってくれ」
暁は俺に近づいてコーヒーを手渡してきた。足元に敷いた新聞紙がガサガサと音を立てる。湯気の立つそれを受け取り何度か息を吹き掛け、一口を啜った。常とは違った風味が舌に溶け、思わず頬が綻ぶ。
「美味い」
「なら良かった」
男はふっと微笑み、自らもコーヒーを啜る。満足気な顔をしているあたり自己評価も良いのだろう。
「しかし本当に良かったのか?ここで絵を描かせてもらっても」
「いいよ。静かなところで描きたかったんだろ?」
ソファーに腰掛けながら暁はまたマグカップに口をつける。ここで描かせてもらえるのは本当に有難い。今回のものは特に集中して描き出したかったのだが、どうにも寮内は騒がしくて集中できなかったのだ。その点ここにはこの男とモルガナしか居ない。妙な雑音もなければ口出しもしては来ないし、多少音があろうと息を抜くのにちょうど良い塩梅だった。さらにこうしてコーヒーすらご馳走してもらっては、もはや感謝する他はない。
「でもここだって下は店だし、そんなに静かじゃないんじゃないか?集中は出来てたみたいだけど」
「……そうか?」
そうだろうか。ここはまるで何かに隔離されているかのように静かだと、前に泊まった時から感じていたのだが。しかし言われてみれば確かに、階下からの音だってそれなりに聞こえてはくる。
コーヒーを啜り、部屋を見渡した。軋む板張りの床に剥き出しの梁、埃の積もる窓。どことなく懐かしく、少し苦しい。だがもちろんそれだけではなかった。浮遊感や高揚感のような感情が骨と骨の隙間から流れ込んでくる。そしてそのすべてを包むように、部屋中に安寧の水が張っていた。その水の在処が果たしてどこなのかは分からない。ただひとつ分かるのはこの部屋が存外居心地が良いということだけだ。
「また来てもいいか?今度は映画を観よう」
言うと、暁はゆるやかな素振りで静かに目を細める。ほんの少しの動作すらやけに丁寧な男だと思った。
「いいよ」


夏の盛りで学校も長期休暇へと突入し、その休みを利用して最近はルブランをよく訪ねていた。サユリがあるということも大きいが、ともかくあそこは妙に落ち着くのだ。しかしいざ行こうと決めた日に限って毎度のように雨が降る。それは今日も例外ではなく、寮を出たときは晴れていた空が電車に乗った途端に曇り始め、あっという間に雨粒を降らせた。普段よりはまだマシかと考えていたが、窓の外を見つめているうちに傘を失念した事実に気がつく。四元茶屋に停車した電車を降り改札を抜けて、駅の外で地面を濡らす雨を眺める。服の手持ちがあまりないので無闇に濡らしたくはないのだ。さてどうしたものかと思案しながらあたりを見回す。そこでふとある人影が目に留まった。
あああれは暁だ、と見た瞬間に認識出来たはずだった。その手が持つ深い青色の傘がばつんばつんと粒を弾いている。こちらを見据え真っ直ぐに歩いてくる男の、いっそ呪いのように体の奥底に絡みつく視線を、俺はただ立ち尽くして享受する他はなかった。息の仕方を忘れる。居もしない神に時間でも止められたかのようだ、水流越しに捉える彼は毒のように辺りに香った。頭の奥で何かが跳ねる。絵が、飛び出したいと俺の中で叫び声をあげている。男は俺に微笑んだ。すべてを惑わせるかのように重たげな睫毛が揺れ動く。祐介、と容易に開く唇が、悪魔じみて光った。咄嗟に指でフレームを作る。
「雨だし、今日も来るかと思って迎えにきたんだけど……。……何してるんだ」
「動かないでくれ、フレームからはみ出る!」
「……とりあえず移動しようか」


ある日ルブランで絵や暁のことを考え嘆息していると、ちょうどその場にいた杏と真が「悩みがあるなら相談に乗る」とこちらを慮ってくれた。なので俺は思っていた事をそのまま言葉にすることにした。
「……ずいぶん不思議な心地なんだ。彼の姿を見ると線が、彼と視線が合うと色が、彼が俺に笑いかけると題名が、次々に頭に浮かんで溢れ返りそうになる。彼は俺の着想の泉だ。彼といると頭の中を塗り替えられるような感覚がしてたまに恐ろしくなる。こんな事は初めてで少し戸惑っているんだ。こういった感情に何か心当たりはないか?」
全て言い切り二人の顔を見渡すと、彼女達は唖然とした様子でこちらを見つめていた。双葉もいちおう場にはいるがどうでも良いといった様子でパソコンをいじっている。杏と真が俺に背を向けひそひそと話を始めた。内緒話のつもりなのだろうが内容は案外こちらに筒抜けている。「まさかそういう悩みとは思わなかった」だの「相手は誰なのか」だのと真剣に話し込んでいるが、何のことなのかさっぱり分からない。
「……ていうかさ。彼って言ってるよね?」
「『彼』ってもしかして彼のことじゃ……」
「ちなみに『彼』というのは暁のことだ」
びくっ、と杏と真の肩が大袈裟に揺れる。ぎこちなく振り返った二人は気まずそうにこちらに視線をやった。
「女子同士の会話に聞き耳立てないでよ!」
「本人の前で内緒話もどうかと思うんだが」
杏と真は俺から目を逸らすと互いの顔を見合せ、ほぼ同時にううんと唸った。眉を下げ、複雑そうな表情で頷きあっている。双葉は変わらずキーボードを叩きつづけていた。
「……まあ、個人の自由よね」
真がそう呟くと杏はやけに神妙な面持ちでゆっくりと頷く。何の話をしているのだか露程もわからなかった。キーボードの音がうるさい。
「ああ、悩みといえば身体面でもう一つある。最近動悸や震えがよく起こってな、それが不思議にも彼の前でだけ起こるんだ」
杏と真はさらにぴしりと体を硬直させた。双葉が「おイナリ死ぬんじゃね?」と至極てきとうな合いの手を入れてくるが無視しておく。杏がなぜか頬を赤らめながらため息を吐き、ぽつりと呟いた。
「……熱烈だね」


スクランブル交差点を進む人間はいつも通りそれぞれの歩調で違う目的地へと歩いていく。ラジオを聴く者やスマホを見ている者、人々はそういう風に干渉という言葉に無関心なままそこにあった。しかし全く関心がない訳ではないのだと思う。ああ今サラリーマンがハンカチを落とした女性を追いかけ始めた。
地獄のような風景へと化していたクリスマスの渋谷はもはや跡形もなく、膝下まで流れ込んでいた水も至るところから突き出ていた骨も今では夢だったのではないかとすら思えてくる。ここは何の変化もなかった。変化がないということは、人間の可能性にまだ果ては見えていないということだ。 神は死んだ。きっとそれで良い。
「お前またそれかよ」
いつものように指でフレームを作り脳内で風景を切り取っていると、竜司が横から俺を覗きこんできた。はっきり言って邪魔だ。いや、これはこれで悪くはないか?日常の象徴、という題目と考えれば友人などうってつけの題材とも言えるのではないだろうか。「ダメだコイツ聞いてねえ」「熱中してるんでしょ、ほっといてあげなよ」そうだ、次のコンクールに出展する絵のテーマは『普遍』にしよう。日常にこそ美術は宿る、それを表現することが出来たなら新たな世界の幅が広がるのでは、
「祐介くん!」
後ろから背中を叩かれ、次に声が聞こえた。どうやら呼ばれているようだ。振り返るとそこには春がいた。ねえ、と丸い瞳で俺を見上げる。
「暁くんに最後の挨拶した?」
「……ああ、昨日した」
「ちゃんと言いたいことは言えた?」
「すべて言ってきた」
『お前も笑って生きろ』『いつかそれを描いてみたいな』そう言った。それが俺の今使える言葉のすべてだった。言葉は絵よりも不自由だ。使い勝手は筆よりはさほど良くない。春は「そっか」と呟き、渋谷の街に目を向けた。つられるように同じ方向に視線をやる。
「お、来た来た!」
竜司がひときわ大きな声をあげた。遠くから見慣れた人影が歩いてくる。癖毛に黒縁の大きな眼鏡、ポケットに両手を入れた猫背の男。
車に乗り込み男がこちらに来るのを待つ。フレームを作り、窓越しにその姿を収めた。視界が開いていくような感覚をおぼえる。脳細胞が、神経がばちんと弾けた。どんな絵よりも絵のような男だ。渋谷が極彩色に染まる。
「美しいな」
思わず口から出た言葉に杏が反応し、なになに、と俺の視線を追う。しかしすぐに頭にクエスチョンマークを浮かべた。
「……いつもの渋谷でしょ?」


『喜多川祐介殿 貴公は何ヵ月も俺に会わないという大罪を犯した。したがって○月×日、その心を頂戴しに行く。 来栖暁より』
あまりにも雑な予告状もとい東京来訪を知らせる手紙が届いたのは一ヶ月前のことだった。もう少しなんとかならなかったのかと電話で苦言を呈すると、回線の向こうで男は笑っていた。しかし紙の裏に描かれた怪盗団マークはなかなか上手いのだから謎である。
久々に会った友人は何も変わりがなく、強いて言えばまた美しくなっていた。彼は東京の大学を受験し、先日合格したばかりだ。春からはまたルブランで居候を始めるらしい。
「けっこう頻繁に会えるようになるかも」
「それはいい。またお前のカレーとコーヒーをご馳走になりに行かなければ」
「マスターの作るやつのほうが美味しいと思うけどなあ」
「いや、お前の作るものにはお前らしさがあっていいんだ。特にあのアレンジを加えたカレーはとてもいい」
「……え、あれ気に入ってるの?」
軽妙な会話を交わしながら目的地へとたどり着く。それは都内で貸し出されているアトリエだった。今日のためにあらかじめ借りておいたのだ。
中に入り、すぐに道具の準備を始める。暁は中央に置いた椅子に腰かけて俺をじっと見つめていた。その視線は相変わらず鋭く光っている。
「それにしても、まさか予告状を出される側になる日が来るとはな」
「ドキッとしただろ」
「ふふ、悪趣味な余興だ」
すべての道具を用意し終え、暁の正面の椅子に座る。傍らにキャンパスを置き真っ直ぐにその目を見据えた。
「じゃあ、約束通り描かせてもらうぞ」
「うん。よろしく」
返答を聞き、すぐに筆を取る。此処からは俺と暁だけの世界だ、掻き消えた雑音の何と心地の良いことだろう。その日、君を描きたいんだが構わないか。電話で告げたその頼みを暁は二つ返事で快諾してくれた。どうしても今、彼を描きたかったのだ。今、彼でなければならないと思った。言葉より雄弁な線を色を名前を、このキャンパスに表さなければならないのだ。使命のような衝動が身を引き裂かんと暴れている。有も無も内包したまま根源へと駆けていくのだ、俺の中の『普遍』を形にするために。すべてを研ぎ澄まして対象を見つめる。男は美しい、嗚呼とても。水は静かに部屋に満ちていた。俺はひたすらに描いた。すべてを絵にしたかった、思い出にも歴史にもしてしまいたかった。焦げ付くような焦燥と歓びを同時に体感していた。
どれくらい経ったのかは分からない。額に滲んだ汗を拭って立ち上がる。キャンパスは絵に染まっていた。描き終えたのだ。癖毛に黒縁の大きな眼鏡、そのレンズの向こうの睫毛の長さ。瞳は普段より少し細められて、目尻が柔く融けている。通った鼻に控えめに上がる口角、唇の厚さ。男はキャンパスの中に居た。俺に微笑みかけている。いや、俺がそれを望んでいるのだ。それに気づいた瞬間、俺はついに根源にたどり着いた。確信ではなく確定だった。
「暁」
「うん?」
「どうやら俺はお前の事が好きらしい」
溢すようにそう口にした俺に、暁は可笑しそうに笑ってみせた。絵と同じ笑顔だった。いとおしそうに俺を見ている。
「ちゃんと予告しただろ?心を頂戴するって」
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