「潮時だ」
口に出して言ってしまえば何という事もない一言だった。口にするまでが厄介だった、ただそれだけの話である。へべれけに酔いつぶれ床に伸びている成歩堂は、寝返りをうったあとにまた規則的な寝息を立て始める。外では連日の雨が昼夜変わらずの様子で降りつづけていた。男の頬に触れれば場違いなほどの暖かさが手の甲へと返ってくる。瓦から落ちていく雨音がやけにうるさい。

「お邪魔します」
開いた引き戸から入ってきた成歩堂の服の裾はずいぶんな水を吸っている。絞るシャツからは何滴かの雫が落ちていた。それはオレも同じようなもので、水気を吸って体に貼りつくシャツがどうにも不快だった。部屋の奥に向かい手拭いを二枚手に取る。靴を脱ぐ成歩堂にそれを投げ渡すと、少々慌てた様子で受け取りありがとうと礼を寄越した。文机の前に腰を下ろし濡れた靴下を脱ぐ。ようやく靴を脱ぎ終わり頭を拭き始めた成歩堂も、オレの隣へと座った。はっくしょ、と大きなくしゃみをひとつしたあと、鼻を啜る隙間に「ごめん」と謝罪を挟む。
「傘に入れてもらったうえに、雨宿りまでさせてもらって……」
「まあ、途中から傘の意味はあまり無かったがな」
昨日から断続的に続く雨は今や土砂降りの様相を呈している。朝方はほとんど降っていなかったが、つい先刻から急にその勢いを増したのだ。傘を忘れて来た成歩堂と二人で一つの傘を差して帰っていたところだったので、すでに窮屈だったその中にもはや水からの逃げ場は存在しなかった。すっかり濡れ鼠になりながら何とかオレの家へとたどり着き、そして現在に至る。
「それにしてもキサマ、相も変わらず物忘れが多いな。朝にも雨は降っていただろうにどうして傘を忘れられるんだ」
「いやあ、降っていると言っても気が付かない程度だったし、夕方には晴れているだろうと……」
思っていたんだけどな。最後の方の言葉はほぼ空虚に消え入っていた。嘆息しつつ袖を捲り顔や首を拭う。水気によって体も冷えはじめ、一度脱いだほうが良いかと考ながら横を見やると成歩堂はちょうど靴下を脱いでいた。踝から踵、最後につま先の肌色が露わになってゆく。ゆっくりとそこから視線を外しつつ、徐々に激しくなっていく雨音に意識を向けた。ゴロゴロと雷鳴すら鳴りはじめている。果たして今日中にこの男を帰せるかと憂慮ばかりが募った。
雷の唸る音は少しずつ大きくなっていく。思っているよりも近いのかも知れない。「そろそろ一発来るだろうな」と隣に声を掛けようとした。が、言葉は突如に奪われた。
瞬きの間、息すら止まっていた。ある一点をおいての感覚はすべて鈍る。銃か何かに貫かれたかのように、心臓がぴしりと固まる。成歩堂の不条理に温かい手のひらが、自身のそれに覆い被せられていた。それは握り込むように動き、まるで逃げ場を無くすように指を強く食い込ませてくる。反射的に横を向くと、やたらに直向な瞳が愚直にオレを刺した。もし起爆剤があったとして、それが何かを察する事すら不可能だった。弁護士が言語を取り上げられる、そんなことがあっていいはずは無い。しかし声が表層を繕うことすら阻んだ。
「亜双義、知らないのか」
重ねられている手がいやに熱くなってくる。その五指の一本一本に明確かつ鋭利に体を支配されていた。外がひと際明るく光り、遅れて轟音が大きく響く。知らないのか、という言葉の縁は棘と化し、心臓を小さな針で擦り上げてくるようだった。目前の双眸に全てを奪われることをオレは今はっきりと恐れている。だというのに心の底からそれを望んでいるのも事実なのだから、折り合いなどもはや付けようがない。
手放そうと定めた直後だった。この男の未来のさらに先、果てを描かせる為に己の欲は消し去ろうと確かに決めた。この男も昨日まで確かに友の顔をしてオレの傍で眠っていた、というのに。いつ暴かれた。いつから針は刺さっていたのか。相手の顔すらよく見られないはずの夕刻の雨の日に、男の顔がこんなにもはっきりと見えてしまうのは、たまに光る雷のせいだ。……本当にそうなのだろうか?
「潮時ってさ、本当は好機って意味なんだって」

雷の音が弱く遠くなっていく。だというのに閃光ばかりがいつまでも馬鹿に明るかった。成歩堂の手がオレの体を無遠慮に這い、急くように触れていく。行儀も作法も何一つ成っていないというのに触れられるたび律儀に息は詰まった。その顎に伝う汗が稲光に照らされている。どうにも見ていられず顔を背けた。この男も背ければいいものを、こういう時だけは瞳すらすこしも泳いでいない。
「わざわざ、こんな日に」
「……こんな日?」
「夜なのは、良いが。……外が明るい」
生憎と整理などまだついていなかった。つい先刻まで友人の顔をしていたこの男が、本当にオレをこういった対象に見ているのかがここまで来てもあまり信じられていない。オレの体をはっきりと視認することによってこの行為を続ける気持ちを失う可能性は大いにある。それに、暗闇で何もよく分からない状態ならば今日の事は何かの間違いだったと誤魔化すことも易くなるはずだ。だのにこう顔がはっきりと見えてしまえば、この男にはすでに言い訳の余地はない。一度手に入ったものをわざわざ取り逃がす趣味もオレにはなかった。
「……うん。だからおまえがよく見える」
成歩堂はうわ言のようにそう呟く。そして言うのだ、「今日で良かった」と。不規則に揺らされる体がいやになるほどに火照った。吐く息すら熱に怯え震える。どうにかなるのではないかという感覚すら覚え何度も制止の言葉を吐いた。しかし、それはすべて水音や雷鳴に掻き消える。ままならないまま、その背に手を回した。もう舟には乗り込んでしまったのだ。雨も雷も、このまま一晩中つづいてしまえばいい。
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