「成歩堂!」
亜双義がぼくに大きく手を振っている。振り返すと、にっこりと笑ったまま早足でこちらに駆けてきた。勢いのままきつく抱きしめられて蛙のような声が出る。
「ああ、会えて嬉しいぞ。思い残す事はもう無い」
「何だよそれ。死んじまうわけじゃあるまいし」
ばしばしと背中を叩く手は大きい。やがてようやくぼくを圧迫から解放した亜双義は、ぼくの手を引いてどこかへと歩きだした。どこに行くんだと訊いても答えない。傍目には桜や松の木が見える。花びらが肩に乗ったと思えば、それは雪になった。いつの間にか外套を着込んでいるぼくと亜双義の手は氷のように冷たい。亜双義の手には傘が一本握られていた。船の汽笛が遠くに聞こえる。港がすぐ傍にあるようだ。真夜中の黒く深い海をふいに思い出した。月明かりひとつない無人の港で、明日ここから船が出る、とおまえは言ったな。
銀杏並木を通過すると蝉の声がした。銀杏を擦る靴音が消え、コツコツと反響するような音に変化する。辺りの見覚えがはっきりとあった。大学構内の大ホオル、その中央に教壇のような大きな机がある。周りにもたくさんの椅子が置いてあって、亜双義はようやくぼくの手を離すとその中のひとつに座った。ぼくもその隣に座る。
「懐かしいだろう」
「ああ。ずいぶん前のことに思えるよ」
この弁論大会の会場で亜双義は初めてぼくのことを認識したそうだ。チョコザイなるなんとか、と失礼な印象を抱いたらしい。大会後に声をかけてきた時のやたらに真面目な顔は今思い出すと面白い。
床には桜の花びらが散っている。先刻ぼくが踏んでしまったのか数枚が潰れていたり木と木の間に入り込んだりしていた。
「人は死ねば何処に行くと思う」
何だか場違いな質問を一つされる。死んだことがないから分からない、と返すと大笑いされた。「その通りだな」と言ってぼくの肩を叩いている。
「なら質問を変えてやる。死んだ後、何処へ行きたい」
「それは天国だとか地獄だとかの話か」
「何処でも良い。好きな所へ行けるとしたら?」
ううん、と顎に手を当てて考える。天国地獄黄泉あの世、そういう宗教や概念で定められたところで無くて良いのなら、果たしてぼくは何処に行くのだろうか。理屈や手段を気にせずに何処にでも行けるとしたら。そうだな。呟いて、亜双義の目を見やる。
「とりあえず、本当に月にうさぎがいるのかどうかを確かめに行くかな」
言い終わるかどうかのところで亜双義が吹き出し、腹を抱えて笑いだした。ほんの少しは冗談のつもりだったから笑ってくれるのはおおいに結構なのだけれど、そうまで笑われるともはや恥ずかしくなってくる。笑うなよと言ったら余計に大きく笑い始めてしまった。今日はずいぶんよく笑うな。
「それは妙案だ!歴史に名を遺す偉大なる発見になるやも知れん」
「遺せないだろ、死んだ後なんだから」
亜双義が落ち着くのをいたたまれない気持ちで待ちながら、手持ち無沙汰に窓の外を見る。色とりどりの紙吹雪が雨のように降っていた。
目尻を擦りながら亜双義がまだ若干ひくつく口端をたずさえながら短いため息を吐く。
「なら、オレが先に死んだ時には兎を月まで見に行ってやろう。本当に兎が居たらキサマに知らせに戻って来てやる」
「縁起が悪いなあ」
「はは、歴史が動くぞ」
コイツなら地表どころか月を真っ二つに斬って中まで探してくれそうだ。想像したらやけに可笑しくなってつい笑ってしまった。ぼくにつられるようにして、亜双義もまた笑いだす。床の桜の近くでは蓋の開いた紫の洋墨が零れていた。ずっと気づいていた。
「なあ亜双義、月にはもう着いたか」
もう返事はしてくれなかった。
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