それは風もなく蒸し暑い夏の夜で、倫敦から帰国したばかりのぼくは肩や腰に敷布団の感覚を思い出させる過程の途中にいて、とにもかくにも寝苦しかった。寝返りを数度打ち何度か眠りにつくもののすぐに解き放たれ、汗だけがじわりと背に広がる。ああ水でも飲もうかしらと起き上がり振り返ると、枕元のあたりに亜双義が座っていた。胡坐をかいたような格好でぼくを見ている。こんなに暑いのに、その居住まいはやけに涼しげだった。
「おまえも眠れないのか?」
「ああ。この時期の日本は暑くてかなわん」
ああやはり暑いのか、と胸中で呟く。亜双義も先日ぼくとともに帰国したばかりで、自国を身に思い出させている最中なのだろう。鈴虫の鳴き声も懐かしく耳に響く。亜双義の瞳が冷たく光っていた。そうだ、水。ぼくは当初の予定どおり、布団から這い出て水の在処へと向かう。
「おまえも飲む?」
「いや、いい」
そうか。言いながら水を入れる。湯呑を傾け喉を潤した。亜双義は、もぬけの殻となったぼくの布団を眺めている。かと思えばこんなことを切り出した。
「散歩にでも行くか」
「え。今から? 真夜中だぞ」
「そのほうが都合が、……いや、夜風に当たりたい。キサマもどうせ寝付けんだろう」
まあ、確かにすっかり目は覚めてしまっている。今から布団に入りなおしたところで瞼は下がらないだろう。ぼくはうなずいて、もう一度だけ水をあおった。
あらためて見ると寝間着がかなりよれよれで、いくら深夜といえど見栄えが良くないと亜双義に言われ渋々外出用の着物に着替えた。亜双義もぼくと同様に着替えを済まし、袖口に手を突っ込んで玄関の前で立っている。その姿、どこか違和感があった。
「何だか、おまえ。着方が少し違わないか?」
「……何を言う。合っているだろう」
確かにどこがおかしいのかと訊かれると答えられない。「ぼくの勘違いかな」と笑い、引き戸に手を差し向けた。外に出ようとひんやりしているなどということはなく、体にまとわりつくような熱気があたりに漂っている。夜風なんて少しも吹いてはいなかった。けれど亜双義は不快そうな顔ひとつ浮かべてはいなかったので、それでいいのだろうと得心する。あまり下駄の音を響かせてご近所さんを起こしてしまってはいけないと思い、気をつかいながら歩き出した。
「どこに行こうか」
亜双義は顎に手をやり、一瞬ぼくに視線を寄越したかと思えばすぐに地にそれを向けた。そうだな、と短く呟いている。
「このあたりに川はあるか?」
「ああ。あるよ。南のほうに小川が流れてる」
「では川に行こう。蛍の明かりでも眺めたい気分だ」
成程、蛍。確かに明かりのひとつもない夜道、あの光を見つけたい気持ちはあった。現実離れしているようでいてどこか安心をもたらす光だ。
「日本に帰ってきた、って感じがするな」
「……。そうだな」
真夜中の街はほんとうに静かだ。下駄の音がひとつ、からからと鳴る。亜双義は何も言わなかった。なのでぼくも今は何も言葉にはしなかった。
小川は緩やかに流れている。読み通りたくさんの蛍がその上を不規則に飛び交っていて、薄緑の明かりがすぐに消える絵のように空で軌道を描いていた。河川敷に座って、男二人でそれを見つめる。綺麗だな。ああそうだな。と、当たり前みたいな会話をした。ぼくは首筋に汗をかいていたが、亜双義はやはり涼しげにそこにいるのみだった。
「夏か」
「夏だな」
また夏が来たのか。口には出さずに頭で思う。またと言っても、今回も初めての夏だ。同じ夏なんて二度と来やしない。
「おまえと初めて話をしたのも夏だったな」
「弁論大会だな。あの日に関しては忘れたことはないぞ」
「根に持つなあ……」
低所得者層の老若男女、低所得者層の老若男女。まあそりゃあ、言いづらいだろう。さすがにぼくだってそう思う。ながむぎはどうかと思うが。ともかくあの日の弁論大会終了後、この男は鬼のような顔をしてぼくの肩を掴み「どうしてそんなにキレイにクチが回るのか」とぼくに問うたのだ。それがぼくたちの交友の確かなきっかけだった。もうずいぶん昔のことのように思える。
「キサマがあまりにも爽やかな笑顔で素っ頓狂な事を言うものだから、よりハッキリと覚えているんだ。あれにはおおいに面食らった」
「だから、趣味なんだから仕方ないだろ、早口言葉」
亜双義は眉をひそめてぼくに目をやる。ぼくも毅然と亜双義の視線を受け止めた。しばらくそのまま時間を止める。鈴虫の声だけが耳によくついた。蛍が一匹、ぼくの近くを飛んでいる。やがて沈黙を打ち破り、ぼくと亜双義はどちらからともなく吹き出した。そんなこともあったなと、回顧の定型句すら口から飛び出す。そこからはもう、思い出話が花を咲かせるばかりだった。
「大学の奴らと大勢で呑んでいた時、酔い過ぎた周りがあまりにもしつこいからと二人で煙草を吸いに外へ出ただろう」
「あれも夏だったな」
「西瓜の種の飛ばしあいに躍起になった」
「はは、それも夏だ」
そこまで長い期間を共にしたわけでもないというのに、意外に記憶が尽きることはなかった。作りすぎてしまったというくらいに、思い出はそこにある。ぼくはたまに腹を抱えたりしながら、ただずっと笑っていた。亜双義も大きく口を開けて笑っている。価値観の相違や人生観の異なりから生まれる齟齬を面白さに変えられる、そういう関係だったな。笑いながらぼくは蛍を見やる。疲れを忘れたかのように瞬きつづけている。
「なあ、亜双義。ぼくとおまえっていつぶりに会うんだっけ」
笑い声の余韻を残しながら、隣の男は「さあな」と返す。正解は分かっているが、言わないでおこう。川に浮かぶ月をここで初めて意識した。
「おまえも化けて出たりするんだな」
水面に映らない友は下駄を履いていなかった。足がないのだ、履きたくても履けやしない。涼しげな顔はいつまでも崩れなかった。あとは着物、違和感があるように見えたが、確かに間違っていたのはぼくだ。左前に合わせられたその着方は、今の友にとって完ぺきに正しい。
亜双義はやはり笑った。まなざしには、死者にそぐわない暖かさが宿っている。
「キサマの嫌いな『オバケ』というやつだな。怖いか?」
「驚きはしたけど、意外にそこまで怖くないもんだな」
「ならいい」
蛍が亜双義を通り過ぎ、ぼくの目の前を飛ぶ。亜双義は魂という形でぼくとともに帰国した。腰にぶら下げているこの刀が、その魂のひとつだった。そこに目を向け、魂本人は微笑む。そこに言葉はない。
「来年は来るのか」
「運が良ければ、としか言えんな」
「……そうか」
口に出したあと、喉の奥でも呟いた。反芻と実感、それに納得のための二言だった。水面の月は少しいびつに光を放っている。これすらも眩しい。
「さて」と言いながら亜双義が腰を上げる。ぼくは座ったままで友を見上げた。川のほとり、じっと立っている。何かを見つめているようでいて、何も見ていないようでもあった。長い沈黙があったので挟もうと思えば言葉を挟めたけれど、それはどうにも無粋に思える。そこまで要らない。望みはしない。
「朝が近いな」
「うん」
「オレは行くぞ」
そう言うので、ぼくはうなづく。そうしたら友はまたぼくを見た。らしくない視線を逸らさず受けていると、すっと手が差し出される。
「またな、相棒」
どこかで聞いた言葉だった。ぼくは手を伸ばして、亜双義と固く握手を交わす。確かにそこに感触はあって、もっと言えば、ぬくもりすらも存在していた。亜双義一真がそこにいた。ぼくをしっかりと見つめて、笑っていた。
解放された手を下ろし、川と蛍に目を向ける。水の流れはゆるやかで、けれど絶えることはなかった。蛍は変わらず鮮やかに輝きつづけ、命をけなげに光らせつづけている。
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