兄を真似て振るってきた剣の先から赤い雫がいくつも垂れていく。此処は透き通る湖が美しいと妻は言っていた。この場所であなたとエルと細々と暮らしていけるのならば、それだけでいいのだと。弱々しく彼女は笑っていた。妻の幸福はあまりに些細で、それなのにどうしようもなく儚いものだった。血の臭いばかり立ち込める此処は、彼女が好きだと言ったそことはまるでかけ離れている。ラル、ああ、許してくれ。この湖の透明を、俺は今から奪わなくてはならない。こんなにごろごろと死体が転がっていては、エルが怖がってしまう。そんなに叫ばなくても大丈夫だよ、ラル。そう、そうしてエルをしっかり抱き締めていてくれ。すぐそっちに行くからね。想いを込めて、妻に微笑みかける。「いや!人殺し!」……怖がらせてしまったね、ごめんよ。
死体のひとつに手を触れる。その表情、苦渋の色に染まっている。一体一体放り込むには骨が折れそうだ。考えながらかつての仲間を担ごうとしたその瞬間、背後から音が聞こえた。何かはすでにわかっている。ゆっくりとそちらに振り向き、その姿を見定めた。
ガイアスは額にたくさんの脂汗を浮かべ、足をおさえて蹲っていた。荒い呼吸から相当苦しいのだということがわかる。それはそうだろう。足を潰したんだ。男は俺をじっと見ていた。すぐ傍に、いつも使っている長刀が落ちている。拾う気力すらないらしかった。俺は彼に近づき、その目の前で足を止める。彼を見下ろす。彼は、俺を見上げている。俺は緩慢を意識して、地に片膝をついた。
「ガイアス王、私は貴方を殺しません」
ガイアスは、驚きも怒りもしなかった。何も変わらぬ表情で俺を見詰める。
「貴方は優秀な王です。今貴方がいなくなれば、世界は混乱に陥る。それによりもしこちらに疑いの目が向けば、こちらにとってはあまりにも不都合だ」
「貴方には今までどおり生きて政を治めていただかなければ困る。貴方も、こんなところで死ぬのは本意ではないでしょう。生かされなければならないはずだ。ただし、私が貴方を見逃した暁には、私達家族のことを今後一切口外しないと約束して頂きたい」
ガイアスの目は何の感情も映していない。それこそまさに、彼が王である証だった。彼は人である前に王だ。そう定めて生きている。そんなことは俺ですら良く知っていた。
「ガイアス王。これは温情です」 
そう告げ、言葉を切る。彼の額から流れた汗が顎を伝い落ち、いくつもの水滴を地面につくりだしていた。視線が逸らされることはない。俺たちは随分長い間、そうしてそこに据わっていた。今この場には物言わぬものが多すぎる。ほとんど完璧な静寂。泣き叫ぶ妻と娘の声すら、静寂の一部だ。ああ兄と父の死体をどうやって担ごうか。途中、そんなことを考えた。
「恩に着る」
やがて生まれた音は、その一言のみだった。彼はとてもゆっくりと立ち上がり、俺に踵を返す。このウプサーラ湖の出口へと歩いていく。その背中は俺が共に旅をしてきた男と比べるととうてい小さく見えて、けれどきっと誰よりも大きいそれだった。置いてゆかれた長刀を拾い上げ、彼の背中を見つめつづける。
世界で一番貴方らしい行動だ、ガイアス王。けれど、あんまりにもあんたらしくない言葉だな、アースト。あんたがあんたとして生きるのならば、きっとそんな言葉は用いなかった。俺はアーストを殺したのだ。手の中に収まるこれは、遺品だ。
ルドガー、と俺を呼んだあの声を思い出す。あんたほど愉快な友達は生まれて初めてだった。どうかあんたに、幸あらんことを。……ラル、エル、今行くよ。庭のものを片付けるから、少し待っていてくれ。
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