「少し待っていろ」と紡がれた声が未だ耳の中で遊んでいる。ぼくは今亜双義の家、亜双義の部屋にいて、胡座をかいて天井や畳に忙しなく目を泳がせていた。染みも目ももう幾度数えたか分からない。両の手は汗でしっとりと湿っていた。ああ、いつまで経っても落ち着きはしない、こんな夜は。焦れた心が鼓動として逸り、口内にたまった唾を何度か飲み干す。
夜だ。亜双義の家に呼ばれる夜。……そういう話だ。ぼくはこれから亜双義を抱き、亜双義はこれから自らをぼくに抱かせる、いつものように。今日は銭湯帰り、暖簾をくぐりながら亜双義は「家に来い」とぼくに言った。まだ少し濡れた髪から途端に色の香りがした。家に着くと、亜双義は必ずぼくを部屋に通して着替えを手渡してからこう告げる。『少し待っていろ』。戸を閉めて過ぎ去っていく足音を聞きながら、ぼくは一度大きく息を吐く。いつもこの後、寝巻きに着替えた亜双義が酒を盆に乗せて持ってくる。机にそれを置いて、静かに二人分の酒を注いでくれる。それはもはや合図だった。ぼくはいつも酒に手をつけることなく、その体を求めてしまう。
少しの間手持ち無沙汰に待っていると、やがて廊下の向こうから音が聞こえてくる。規則的に鳴る音はぼくの鼓膜をひっそりと、しかし確実に揺らした。それは空気に身をさらす亜双義の足が床に乗せられる音だ。ぺた、ぺた、と緩慢に鳴る。亜双義が此処に近づいてくるという証拠だった。手のひらの汗を寝巻きの袖で拭う。その湿りを帯びた足音、ああそれさえもはや、合図のように色めいている。裸足の色情がやってくる。今、戸の前で止まった。
引き戸が開けられ、細く月明かりが忍び入る。何となく、顔ではなく足元を見た。誠実に光る足の爪がきれいだ。なあ、きっとおまえも今、汗をかいているだろう。果たして舐めたらどんな味がするのだろうか。
「成歩堂」
少し掠れた声で名を呼ばれ、上を見る。そうしてぼくは今日も酒の味を忘れてしまった。
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