玖月弐拾参日

夏の茹だるような暑さも少しばかり控えめになり、シャツの釦を窮屈に感じることもだんだんとなくなった。ちょうど過ごしやすいくらいの気温なので助かっている。ぼくと亜双義はいま図書室で黙々と本を読んでいるが、ここは日照りが良いので少し前なら読書どころではなかっただろう。時おり窓から吹き込んでくる風は生ぬるく亜双義の鉢巻と髪を揺らした。その様をなんとなく盗み見ながら、手元の文字を目に追わせる。ぼくが今読んでいるのは、亜双義から借りている通俗小説だ。決して綺麗なだけじゃない男女の恋愛がやけに克明に綴られている。愛情が深ければ深いほどその裏返しも恐ろしい、か。情念とは摩訶不思議だ。
「おまえもこんなの読むんだな」
「まあ、たまにはな」
律儀に返事は返ってくるけれど、視線がこちらに向けられることはない。その涼しげなまなざしは分厚い書物に留まったままだった。古ぼけた表紙には法のなにがしと書かれてある。相も変わらず勉強熱心だ。
残りの頁数は十か十五といったところだった。あと数回程めくればこの本を読み終えてしまうだろう。物語は終わりに向けて風呂敷を畳んでいる最中で、終わってしまうのが名残惜しいような早く最後まで読んでしまいたいような、相反した気持ちが揺れ動く。
「面白いよ、これ」
「そうか」
なら良い、と指先で紙を擦りながら亜双義は答える。ぼくは文字の群れに目を戻し、一度二度三度、頁をめくった。ぼくと亜双義の紙を弄る音が少しずつずれて空間に響いている。あ、今、ぼくのほうが音が早い。目前の親友はいま何かの項目を熟読しているのだろうか。そう考えつつも、また一つ頁をめくる。
そこから数頁はまさに引き込まれるという表現がぴったりな出来だった。言葉の意味を一語一句丁寧に噛み砕きながら指を動かす。最後の頁をめくったあと、ぼくは「ふう」と息を吐いて本を閉じた。いやあ、世の中にはこんな読み物があるのか。そう感心してしまう。亜双義は面白いものをよく知っているんだな。
瞼を強く閉じ、いったん大きく伸びをする。その後亜双義に本を返そうと正面を見た瞬間、何故か視線がばちりとかち合った。書物に落とされていた切れ長のまなざしが静かにぼくに向けられている。何か言おうとして小さく口を開いたけれど、言葉は霧散の一途を辿った。
「読み終わったか」
亜双義はそう口にした。慌てて「ああ」と答えてから本をそっちに差し出す。
「本当面白かったよ。ありがとう」
「なかなかだったろう」
「うん、最後なんて凄かったな」
軽く感想を交わし合いながら亜双義はぼくから本を受け取り、傍らに音もなく置いた。そしてまた手元の本に目を落とす。伏せられた瞳に睫毛がそっと寄り添っていた。それを眺めながら、何となく忙しなく動く心の理由を考える。
今日ここで亜双義と会ったのは偶然だった。それぞれ目当ての本を小脇に抱えた状態でばったりと出くわして、せっかくだからと同席したのだ。この時ぼくはちょうど亜双義から借りていた読みかけの本を持ってきていて、亜双義も長居をするようだしこの場でそのまま返してしまおうか、と考えてこうして小さな読書会を開いていたのだった。けれどぼくは今、何故か些末な後悔を感じている。自分でもよく理解できていない不確かな感情なのだけれど、その視線を浴びた途端に胸の端あたりで確かに感じたのだ。ああしまった、次会う理由を減らしてしまったなあ、と。
「亜双義」
呼ぶと、亜双義は静かに顔を上げる。ぼくはしばらく口の上で言葉を転がした。見つめる先にある感情は茶というよりは緑だ。新緑の中に据わる男の思考を視察したけれど、まだこれだけで会話できる程ではなかった。だからぼくは言葉を使う。
「また何か借りてもいいかな、おまえのおすすめ」
言葉を聞いた亜双義はじっとぼくを見つめた後、「ふむ」と呟き顎に手をやった。そして、しばらく何事かを思案する。やがて手がほどかれると、顔を綻ばせてぼくに視線を戻した。少しどきりとする。いつもの快活な笑顔とはまた違った雰囲気の、柔らかい微笑みだった。
「よし。キサマの好みに合うかは知らんが、また持ってきてやろう」
亜双義はどこか上機嫌にそう言った。ぼくは何となくほっとしながら、ありがとう、と告げる。ほぼ自然に頬が綻ぶのが自分でよくわかった。
すっかり暗くなった窓の外はぼくたちの別れを示すように辺りを暗くした。じゃあまた、と互いに軽く手を上げて、廊下の真ん中で分かれる。亜双義に踵を返してそのまま床を軋ませた。が、同じく軋む音を響かせていた向こうの友人の足音がぴたりと止まる。少し気になり足を止めて振り返ってみると、ばちりと目が合った。立ち止まった亜双義はぼくを見ている。
「またな」
投げられた言葉はそれだけだった。特に言い忘れがあったというわけでもないようだ。「うん」と返事をひとつして、ぼくはもう一度亜双義に踵を向ける。歯の内側のあたりが何故だかうずうずと疼いていた。明確な次があるというのは、なかなかに楽しい。


拾壱月拾日

たった短期間で亜双義とは随分仲良くなったと思う。今年の夏に(亜双義曰く)衝撃的な出会いをしたばかりだというのに、今ではすっかり互いの下宿に泊まりあうまでの仲になったのだから。亜双義はぼくの下宿に来るたびに酒を持ってきて、「手間代だ」などと言ってぼくにそれを注がせる。これがまた注がれる姿がやけにしっくりと来るのだ、この男。その儀式とも呼べる行為は今日も例に漏れず行われて、ぼくは燗を傾けて亜双義の持つお猪口に酒を注いでいる。満足気に頷いて水面をちいさく揺らしてみせる親友はとても寛いでいるようすだった。まるで自分の家にでもいるかのような顔をしている。
「最近結構頻繁に来るよな、おまえ」
「迷惑なら控えるが」
「いやいや。大家さんがおまえを気に入っちゃってさ、逆に来てくれないと怒られそうだ」
「……ハハ、そいつは難儀だな」
そう言って亜双義は笑った。酒のせいか頬がうす赤く染まっている。へえ、意外に顔に出るんだ。そんなことをぼんやりと思った。
他愛もない話を肴に杯を少しずつ傾ける。一時間程だらだらと話をしていると、やがて憂国論議に熱くなった亜双義が傍らの刀を手に取り胸の前でそれを掲げた。
「つまり!この国の腐った性根を叩き直すには、まず誰かが司法を変えなければならんのだ!」
階下にまで響きそうな声量でそう言ってまた刀を握り込む亜双義の拳には青筋が浮いていた。ううん、長くなりそうだぞ、これは。今まで亜双義の話を聞いているうちに朝を迎えていたということがそれなりにあるので、そうなる前にいったん話題を逸らせないかとあたりのものを目で探る。刀を握る手に再度視線を帰らせたとき、ふと気づいた。
「おまえって手が大きいよな」
「……うん? そうか?」
「うん。何か、頼もしいというか……」
その動きと舌が大人しくなる。刀を傍らに置いて、亜双義は自分の手を見つめた。次にその視線はぼくへと移る。机の上に置いていた右手の手首を不意に掴まれ、突然の事にすこし体が跳ねてしまった。亜双義のもう片方の手がぼくのそれに合わせられる。
「キサマの手も大して変わらんだろう。ほら」
「……あ、ああ」
確かに、ぼくの手と亜双義の手の大きさに顕著な違いは意外と見られなかった。ほんの少しだけ亜双義の爪の先がはみ出ているくらいだ。合わさった手から熱がじわりと伝わってくる。
「本当だ」と言おうとして触れあう手から視線を上げると、今度は目が亜双義と触れあった。亜双義はぼくを見ていた。酒のせいか微細にぼやけた瞳が目前にあり、頬はやはり少々赤らんでいた。と言っても、至近距離でないとわからない程の赤みだ。それくらい今亜双義が近くにいる。目が泳ぐほどの余裕や緊張は、何故だか今この場にはありはしなかった。途切れた会話を補うかのようにただ視線だけが交差する。何がどうなのかは自分でもよく理解していなかったけれど何となく、「今」なのではないかと思った。けれど、その不確かを口には出すことはできなかった。
「今日泊まるだろ?」
手を合わせたままそう問う。声が忍ばないように少しだけ気を払った。亜双義はそれでもまだしばらくぼくに眼差しを送って、やがてようやく頷き、微笑む。この問答も最近少しずつ定着してきてしまったな。なんて思いながらゆっくりと手を離した。
隣同士に敷いた布団の間隔はいつもどおり拳二つ分程だった。おやすみと言って背を向けた亜双義のうなじを静かに見つめる。先刻まであんなに賑やかだったのに、今は互いの呼吸の音くらいしか鼓膜を打ち付けるものはなかった。
「なあ亜双義」
「もう一度、手を合わせてみないか」
そう声をかけようとして、止めた。


壱月弐拾日

満杯になった腹をさすりながら学生街を後にする。牛鍋美味かったな、なんていつもどおりの会話を繰り広げながら進む夜道はきんと冷えていた。亜双義の歩く速度は少し早くて、ぼくは半歩後ろを着いて歩いている。冬の外気は無遠慮に体の温度を下げ、吐く息は白く暗闇に伸びていった。夜は深く辺りには疎らな人影がちらほらと点在するのみで、たった二人分の靴音はやけに大きく響いているように感じられる。夜空を見上げると澄んだ藍色のなかにたくさんの星が散りばめられていて、その隅に半円より少し円に近い月が鎮座していた。
「じきに満月だな」
ぼくの呟いた一言を受けて、亜双義は顔を上に向ける。ああ、と発する口からぼくと揃いの白が零れ出た。
「そうだろうな」
「楽しみだ」
「ああ、存分に吠えられるぞ。良かったな」
「……ぼくは犬か何かか?」
こうして実の無い会話で常々遊ぶ。忙しいだろうに、亜双義は日が経つにつれぼくとの話の中での無駄を好むようになった。最初の頃は早口言葉のコツについて、なんていう事ばかり訊いてきたのに。それくらいぼくたちは仲が良くなったということか。
……本当に、驚くほどに仲良くなった、とは思う。知り合う前から亜双義の事は風の噂で幾度も耳にしていたけれど、住む世界が違うのだろうな、きっと話も合わないのだろうとぼんやりと考えていた。それがまさかこうして頻繁に会い冗談を嗜む仲になるだなんて、予想なんて出来るはずがない。ああそういえば秋の初め頃は、会う口実を得るために本を借りたりしていたな。もはやずいぶん懐かしく感じられる。どうしてぼくはあんなに、亜双義にまた会いたいと思ったのだろう。
この間降った雪は未だ溶けず少しずつ道に残っていて、足を踏み出すたびに控えめな音を鳴らした。冬の寒さとは毛色の違う目が覚めるような空気を吸い込む。酔いが覚めていく。気づけばどちらからともなく喋ることを止めていて、会話はぱったりと途切れていた。残雪だけがよく話す。指先の痛みがより鮮明な感覚として伝わり、ぼくはひっそりと両手を擦り合わせた。目前にある亜双義の背中、いったい何を考えているのだろう。そこは何も語ってはくれない。
そう思っていた矢先だった。前方の足音がゆっくりと止まる。亜双義が静かに立ち止まった。つられてぼくも立ち止まり、そのまま静寂がやって来る。亜双義は何の言葉も紡がない。
「亜双義?」
そっと名前を呼んだ。返事はない。どうすることも出来ずに、ただ閉口する。長い時間の中にいた。相変わらず体は寒いのに、早く帰ろうとは何故だか言えなかった。亜双義の吐息もやはり白いのに 、ぼくと同じで「帰ろう」とは発しない。
「成歩堂」
今度はぼくが名を呼ばれる。感情を噛み締めているかのような、緊張や覚悟すらはらんだ声色だった。わけもなく体がこわばる。息が、止まりそうになる。やがて月光に照らされた輪郭が、白くぼくを振り返った。その姿をやけにゆっくりと脳が処理する。亜双義の表情をこの目で認めたその時、瞳を風が通るような、言いようもない感覚を覚えた。ああ、これは。どうしようか、と思う。途端、目前の月じみた男との数ヶ月が脳裏にぶわりと甦りはじめた。
十一月、合わせた手のひらは熱かった。あれはぼくだけの体温、高揚ではない。手と共に触れた眼差しは何を内に秘めていた? 亜双義に差した朱は本当に酒の力のみがはたらいただけだったのだろうか。……九月。亜双義は振り向くとそこにいて、声もかけずにぼくのことをただ黙って見ていた。あの言葉から、もうすでにぼくらの間だけで許される無駄が築かれていたのではないか。「またな」という、あの言葉から。……ああ、もしかするとすでにおまえは、すでにぼくは。
亜双義の唇がうすく開かれる。おそらく今どんな事を亜双義が口にしたとしても、「うん」だとか「ぼくも」だとか、そういう返事をしてしまいそうだった。その言葉を聞き逃すまいと聴覚に神経が集中する。
しかし、ぼくの耳が亜双義の言葉を拾うことはなかった。代わりに聞こえたのは「わん」という元気な鳴き声。裏山あたりの野良犬だろうか、亜双義が何かを言おうとした瞬間、まるで被せるようにそれは鳴いたのだった。その後も犬は続けざまに吠えている。わんわん、わんわんと。鳴き声が止む気配はない。しばらくして、やがて亜双義は耐えかねたという風に可笑しそうに笑い出した。
「ずいぶん元気な犬だな。キサマの仲間じゃないか?」
「……まだ引っ張るのか、それ」
ぼくもいびつに笑い返す。二人分の控えめな笑い声が夜道にしんしんと降り積もっていく。しばらくそうしていたあと、またしても沈黙が訪れた。ぼくはじっと自らの足元を見つめている。靴の先が溶けた雪で濡れていた。亜双義は、どんな顔をしているのだろう。今顔を上げたら、果たしてぼくらはどうなるのか。ぼくは言葉を待った。待ってしまった。
「帰ろうか」
やけに優しい声がひとつ、紡がれた。ぼくは顔を上げる。亜双義は目元を緩め、ただ微笑んでいた。帰ろうか、と発した目前の喉。そうか。……取り逃してしまった。
「ああ」
帰ろう。そう短く返すと、亜双義はどこか遠い目をしてぼくに踵を向けた。さくさくと、小気味良く雪を踏みしめる音を響かせる。ぼくは緩慢にその後を着いて歩き、夜空を見上げた。不格好に欠けた月は、ただ役目のようにぼくらを照らすのみだった。




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