深い青に捕らわれていた思考回路の中に、騒がしい赤がちらついた。掠め取られた視線の先には杏子の姿があって、あたしをじいっと見つめている。なんでここにいるの、そう言葉を零すと共に泡を吐き出した。宙を優雅に遊泳するそれはまるで魚だ。杏子は結んだ口元をふっと解いて、長いまつげをそっと伏せた。

「人魚姫ごっこは楽しかったか」

中学生にもなって、子供っぽいことすんなよな。呟かれたそれもまた泡となって宙をさ迷う。あたしのために鳴り響くクラシックの真似事をした不協和音が、とたんにヴァイオリンのみの演奏へと切り替わった。コンサートホールがヴァイオリンの音色に支配される。視線の槍で網膜を貫かれるうちに、なんとなく、杏子がここにいる理由がわかってしまった。きっと最後まで絵本のようなハッピーエンドを望んだんだろう。愛と正義の勝利を祈った結果、杏子はここにいるんだろう。バカだなあと呆れ半分で口にすれば言葉が波紋になった。波紋はホール内にゆっくりゆっくり広がっていく。それをちらりと見て目元を緩める杏子はなんだかとてもきれいだった。

「さやか」

あまりに優しくあたしの名前を呼ぶものだから、少し驚いた。それと同時に、杏子らしくないなあ、とも思った。今まで優しく名前を呼ぶなんてこと、してくれなかったじゃない。いいや、もしかしたら気づいていなかっただけかもしれないけれど。ああ、あたしも相当のバカだったんだなあ。ひとりぼっちを熱演していたただの大バカ者だった。

「なによ、杏子」

お返しに名前を呼んでやると、照れたような笑顔を浮かべる。そういえば名前を呼んだのはこれが初めてだったっけなあ。ふと考えて、対立ばかりしていた頃を懐かしく思った。もういがみ合うのも疲れたね。
杏子が空間に靴音を響かせる。そうして少しずつあたしのほうへと足を進ませる。やがて目の前でぴたりと歩を止め、ゆったり泡を吐いた。

「おつかれさま」
「そっちこそ」

世話かけちゃってごめんね、ありがとう。ぽつりとそう言った。ひとみの海から溢れ出した雫は塩味だ。
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