※殺人等の描写あり
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英国から訪れた客員教授を殺したとされているぼくにも、案外温情は働いてくれたものだ。すぐさま死刑かと思っていたぼくにはまだ命の猶予が与えられた。この牢獄に身を置いている間は、とりあえず、生きてはいられるのだ。ぼくは生存している。
陽が傾き小さな窓から橙色が差し始めたとき、扉の小窓が覗かれた。夕食だ、と冷徹な声が差し込まれる。横たえていた体を起き上がらせたとほぼ同時に重い木の扉が開き、畳の上に食事の乗った盆を置かれた。参十分後に回収に来る、と告げて看守は扉を閉める。細く入り込んでいた頼り気のない光も共に閉ざされた。白米と味噌汁と魚、箸が一膳。深い茶色の盆に大人しく乗っている。しばらくの間ぼうっとそれを見つめた。美味しそうだけれど、何故だか食べたいとは思えない。でも食べなければならないのだ。腹は確かに空くし、ぼくに自由はなかった。盆を引き寄せ、箸を手に取る。胃に流れ込むのはまるで鉛だ。
夕食を終えた後、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。気づけば窓の外は真っ暗に塗り潰され、幕を引いたかのように黒くそこに貼りついていた。濃い灰色の雲が黒にふてぶてしく横たわり、星はひとつも見えはしない。薄い掛け布団を取り払って上体を起こす。周りの静けさを聴くに今はきっと深夜だろう。明日は朝から作業があるというのに、ずいぶん変な時間に起きてしまった。このまま寝る気にもならないので、おそらく今日は朝まで起きるだろう。ああ、本の一つでもあれば時間が潰せるのに。……なんて呑気な思考もまだ出来る。ぼくは大丈夫だ。 頷きながら畳の目を掻く。
ちょうどその時、ふと高い音のようなものが聞こえた。少し間を置いてから、今度は低い音が響く。いや、音というより、人の声だろうか?金切り声と断末魔。そう多くは聴いたことがないけれど、もし聴いたとすればこういう声だろうな、という風なものだった。音は止むことなく次々に発せられている。もし本当に人の声だとすればただ事ではないことは確かだった。いったい外で何が起こっているのか?確かめたくても、自分では外に出ることができない。代わりに神経を研ぎ澄ませて聴覚を集中させると、高音と低音の狭間に靴音のようなものが聴こえた。最初は遠くに聴こえたその音は、だんだんとはっきり近づいてくる。手のひらに汗が滲み、思わず唾を飲んだ。
最早間近にまで迫った靴音は、急にぴたりと止んだ。しばらくの静寂があたりに響く。扉の前にいる。何がいるのかはわからないけれど、確実にいる。やがて鎖のようなものがけたたましく擦れる音と、舌打ちのような短い音が聴こえる。何秒かそんなものが聴こえた後に、派手な音を立てて何か大きな物が床に落ちた。振動が伝わる。きっと落ちたのはこの部屋に掛けてあった錠だ。とすれば、次に起こることといえば決まっている。ぼくは立ち上がった。
瞬間、予想通りに扉が開いた。一瞬真っ暗な廊下に目が馴れず、そこに誰がいたのか理解することが出来なかった。いや、ただ脳が理解することを拒んだのかもしれない。闇にそよめく赤い何か。どうしたって見たことがある。
「成歩堂」
その声で全ては決定的になった。今ぼくの目の前に、親友の亜双義一真が立っている。抜き身の刀を携えて、真っ暗闇の中心で微笑んでいた。その瞳、赤黒く光っている、ように見える。
「久しぶりだな」
一文字ずつがやけに緩慢に聞こえた。視線が一閃、ぼくの網膜を貫く。ようやく慣れ始めた目は亜双義にこびりついた赤をどこまでも捉えた。血とはどうして分かってしまうんだろう。色も匂いも、どちらも強烈に脳髄に染み込んでくる。学生服の上からでは色が目立たないのでよくわからないが、誇りであるはずの腕章や刀身、そして頬にべったりと赤は付着している。刀に至っては滴りつづける程の量だった。何を斬った。何を斬った。……何人を斬った?
「とは言っても、あの裁判からそうは経っていないか。だがオレにとってはまるで永遠だった。ここに来るまで、ずいぶん待たせてしまったな、相棒」
そう言って目を細める。亜双義の態度は普段とまるで変わらない。では明日の英語学で、と言って席を立ったあの時や、勝訴の暁には牛鍋を奢ってもらおうと言っていたあの時と何ら変化のない快活な笑顔。けれど色も匂いも状況も何もかもが違う。あまりにもちぐはぐで、頭の中がぐちゃぐちゃと絡まっていく。震え始める足をなんとか理性で支えながら、死にそうな程口にしたくない言葉を丸めて口から放り投げた。
「殺したのか?」
「うん?」
「ここの、刑務所の人達を」
自分でも驚くくらいに声ががくがくと宙を漂う。怖い。怖いんだ。何も聞きたくはない。けれど見てしまった。瞳に焼き付いて離れない赤が、ぼくの神経を確実に凌辱していく。嫌だ、嫌だ亜双義。せめてどうか何も言わないでくれ。知る限りすべての神さまに熱心に祈る。おかしくなりそうなほど、体の内側で何かがふわふわと叫んだ。
「ああ。そうだ」
血塗れの刀を一振りし廊下に点々と血を飛び散らせる。そのまま流れるように刀身を鞘に収め、鯉口をかちりと鳴らした。腰に手を当て、「殺した」と一言を紡ぐ。
自分の胸の中心から何かが転がり落ちたような感覚があった。それは床の上で壊れ、もうきっと回収することさえできない。堪えていた足の緊張がついに解け、ぼくは床に尻をついた。感情の波がみるみるうちに引いていく。冷や汗が止まり、動悸が治まり始めた。ぼくを見下ろすその表情は綻んでいる。一分の思考も掻き消えた脳がほつれ、ぼくの口からは乾ききった笑い声が漏れた。嗚呼ぼくのせいか。そう呟く。
「……何を言う、相棒」
「誰のせいでもない。人のせいではない。キサマを陥れた腐りきった司法に諸悪が依存しているだけだ。……オレはそれを斬り伏せられなかった」
あえて言うならば、オレのせいだ。そう口にして、少しだけ眉を下げる。ああ、倫理。すべて消え失せたわけではない。きっと、狂っているわけでもない。亜双義はどうなろうと亜双義一真なのだ。ただただ、 絶望してしまったのかな。そう思った。ならどうしたってぼくのせいだ。ぼくが絶望させてしまった。……ぼくが負った罪は、おまえに依存した。
嗚呼、倫敦。女王陛下の統べる大帝都。最先端にして最高峰の司法が花開く、まさに希望の世界。おまえの夢と使命が、その場所には確かに存在したのだろう。しかしそれも今、こんな矮小な男の手により、潰え途絶え葬られていく。あまりに馬鹿らしくてもう涙も出やしなかった。なあ、亜双義、……。
「ここから人力車に三十分程揺られたあと少し歩けば、地獄に着く」
亜双義は扉の外を指差し、ぼくをじっと見据えながら淡々とそう言った。地獄。ああ、確かこのあたりに海があったな。よく死体があがる海だと看守が言っていた気がする。随分近い場所にあるもんだ、地獄というのも。
ぼくは逡巡した。本当に、逡巡した。……けれどもはや迷いはなかった。だってどうすればいい、もう終わりは定められたのに。これ以上どうすることも出来ない。そろそろと合わせた視線の先の親友は、ああ、美しいな。ただ一つの意志も乱さず、そこにある。ぼくは深く息を吸い、そして吐いた。
「行こうか」
そう呟いてぼくはゆっくりと立ち上がった。もう足もまったく震えていなくて、問題なく立ち上がることが出来た。亜双義の目が一瞬、ほんの一時だけ揺らいで光り、星が弾けた。その後弾けた星屑を押し潰すように目を細め、ぼくに手を差し伸べる。手のひらにべったりと付いた赤さえぼくのためだ。温度を感触を確かめるようにそこに手を滑らせ、隙間をなくすように握る。どちらからともなくぼくらは踏み出し、紅葉にも似た景色の中を歩みだした。誰のものか知らない臓物を踏みしめて、赤から藍色へと向かう。海は久々だと笑う隣の相棒は幾分か楽しそうだった。さらば晴天、ぼくは厚く鈍い雲のなかへ帰ろう。
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