ああ今なら定められた。ということが、ここ最近よく起こる。例えば朝、おはようと言ったときの視線の振り幅。昼食時、成歩堂の腹から鳴る音にオレが笑い声をあげた時の場の空気。夕方、橙に染まる背中。そして夜。
「じゃあ、また明日」
その一言に行き着くまでの沈黙。牛鍋屋を後にし、満腹になった胃を抱えて歩く夜道での、少しの躊躇だ。そういう時にオレの脳内では一筋の思考が過る。ああ今なら定められた。この心地よく、しかしぼやけた境界線に位置する曖昧な関係を。言葉一つで捉える事が不可能ではなかった。そう考えつつ、何時も釣竿を片手に魚を目で逃している。歯痒い些末はいつもオレの中にひそりと横たわっていた。それは恐らく向こうも感じているのではないか。……それもただの憶測に過ぎなかった。出会ってからのこの一年間、絶え間なく視界の端に映る線。どうにも厄介だ。

部屋の戸を叩く音がひとつする。読んでいた本を閉じ文机に置いた後に尻を浮かせた。戸を開けると、そこには予想通り相棒の姿がある。入れと促すと、成歩堂は眉を下げながら静かに部屋に踏み入った。
「悪いな、押し掛けちまって」
「今更遠慮するな。それで、何処に手こずっている?」
置いていた座布団に腰を下ろすよう促しながら、肩に掛けた鞄を指差す。成歩堂は素直にそこに腰を下ろした後、困ったように眉を下げた。
「今日の範囲全部……」
「……それは骨が折れるな」
「……これを聞いても断らないのが凄いよな、おまえ」
もはや申し訳なさを通り越して感心しているらしい。口角を緩める様を前に、オレもまた口を歪めた。さて、何処から手をつけるべきか。
「今日の英語学について教えてほしい」と頼み込まれたのは昼時の事だった。蕎麦を啜りながら頼むと懇願され、ひとまず啜るのをやめろと言いながらもオレはその頼みを了承したのだ。確かに今日の講義はかなり難解で、オレでさえノートを取りながら理解を同時に噛み砕くことはなかなか困難だった。さらにこの男、今日は朝から少しばかり上の空だったので、講義で聞き逃している部分なども恐らくあるのだろう。まあ自分にとっても復習となるのでちょうど良い。そう考えつつ、鞄から学術書と大学ノートを取り出した成歩堂に倣いオレも本を手に取った。

万年筆が静かに動く。成歩堂は自分のノートとオレのそれを見比べながら黙々と学術書の文字を追っていた。
「亜双義、ここは?」
「ああ、ここは……」
「……成る程。ありがとう」
成歩堂という男は物事の吸収力が恐らく万人よりも良い。オレの言葉も素直に受け入れていて、別段理解に悩む様子は見せなかった。やはりこの男なら司法についての知識なども易々と身につけてしまうのではないだろうか、などとつい考えてしまう。少しずつ知識を仕込んでいけば、共に法曹界を歩むことも或いは不可能ではないのかもしれない。そんな事を思考していた、その時だった。
不意に、互いの手が触れあう。ああごめん、と成歩堂は口にし直ぐさま手を退けた。それだけならば、本当に些末な出来事だった。しかしそれだけでは終わらない。ふと上げた視線が絡まり、一本の線を作った。これはいつもの違和だ。凝縮された感情を視線に乗せ、互いにぶつけ合うだけの行為。見詰め合ったままオレと男は静止している。……最初は一月に一回程度だった。それがいつしか週に一度になり、近頃などほぼ毎日だ。毎日こうして互いの間に横たわる線を見詰め、定めるか定めまいかと思案する。もう既に回路は擦り切れ、理は焼けているというのに、飽きもせず。
「……ここも、教えてもらっていいか」
ふい、と視線が逸らされた。成歩堂は机の上に目を戻し、学術書を指差す。少し声が上擦っていた。まつげが小さく震えている。オレは、すぐには返事をしなかった。
また終わるのか。こうしてまた定めずに、足踏みをしたままで。こうして曖昧にやり過ごすのか。果たしてそれは正しいのだろうか。……恐らく正しいのだろう、とは思う。親友、そして相棒というこの関係をオレは存外気に入っている。きっと成歩堂にとってもそれは同じだろう。ならば、無理に関係をねじ曲げる必要も無いのではないか。いつものようにこれで終われば、それで。
……と考えるとでも思っているのだろうか、この男は。ああ確かに考えていた。考えていた、が。気づいてしまった。「親友」の耳が赤く染まっているのだ。瞬間、まどろっこしい、という感情が奥底で大きく揺らいだ。二人きりの部屋の中、目前の男の耳は赤い。成歩堂龍ノ介、人には限界というものがある。一年だ。一年間得も言われぬ圧に耐え、体はすでに多量の熱を持て余していた。……そうだ、この衝動だ。これを止める術も理屈ももう有りはしないのだ。嗚呼、どうしようもない程に!
ぶちりと理性を引きちぎり、その肩を半ば乱暴に掴んだ。ただでさえ丸い瞳が驚きからかより丸みを帯びる。ゆるく開いた唇に、自らのそれを思い切り押しつけた。その肩が大きく揺れる。いったん唇を離すと、状況が掴めていないのか成歩堂はぱちくりと瞬きをするのみだった。仕方がないので、はっきりと言葉にして告げてやる。
「成歩堂、潮時だ。一線を越えるぞ」
「……え、ちょっ、亜双」
義、と言い切る前に腕を掴み、そのまま床に引きずり倒してやった。いてて、と呟きながら後頭部をさすっているその顔の横に手をつき、静かに見下ろす。オレの視線を浴びる男は、上を見ようとはしなかった。目線を床にずらし、畳の目でも数えているのだろうか。
「亜双義、これは、……違うだろ」
「違わん。オレはきっと随分前から、キサマをこういう目で見ていた」
「……」
言葉がない、というようすだった。何を言おうか逡巡し口をうすく開け、しかしすぐに閉じる。頬などもはや西瓜の身のように真っ赤だ。成歩堂、と名を呼べば、びくりと体が揺れ動く。胸の奥がうずりと蠢き、爪先が痺れた。そうだ、この、抑え続けてきた感覚。単純かつ明快にも程があるではないか。こんなもの、ただの欲情に決まっている。
「キサマはどうなんだ、成歩堂」
「……ぼくが、何」
「キサマはこの一年間、オレにどんな感情を抱いていた」
「……そんなの、友情しか」
「成歩堂」
ここでの嘘は罪悪だ。罪を負いたければ好きにすればいいが、忠告はしておくぞ。そう言って目を射抜く。根拠など馬か鹿にでも食わせてやればいい。ともかくここでの嘘は、罪悪だ。成歩堂もどうやらその意図のない意図を察したようだった。外していた目線が、おのずと合わせられる。爪で畳を掻く音が鼓膜にこびりついた。
「……そりゃ、ぼくだって」
下がった眉と遠慮がちにひきつる頬、首筋には汗が煌めいている。それを見逃すまいと見詰めながら、伸ばされる腕を享受する。唇に親指が触れ、そのまま形をなぞられた。
「……唇はどんな感触だろうとか、うなじはどういう匂いだろうとか、……どんな味だろうとか。いろいろ……」
考えはしていたけど、と呟く。その後間を置いて顔を耳まで赤らめた。馬鹿正直な男め。そういうところを、どうしても物にしたくなる。
「なら、今確かめろ。オレもじっくり一年分、隅々まで確かめてやる」
その手首をゆるりと掴み、唇に触れている親指の腹に甘く歯を立てる。瞳の奥で揺らいだのは波か、もしくは色か。正解はもう既に分かっている。もう一度軽く痛みが走る程度に噛んでやれば、成歩堂の瞼が震えた。眉をひそめ、半ば諦めの如く目を細める。吐息混じりにその口がゆらゆらと言葉を紡いだ。
「な……何だったんだ、この一年……」
「……良く言えば、あれだ。『お預け期間』というやつだろう」
「いやいやいや……」
まだ何事か言おうと口が開くので、言葉の先は唇で吸い取ってやった。一年分を取り戻すのだ、一秒も無駄には出来ない。ふと視界の端に線を探したが、もう何処にもそれらしきものは見えなくなっていた。
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