おそらく今日は厄日だ。大学の階段を駆け足で降りた結果勢いよく踏み外すし、目下には何と亜双義がいるし。上から落ちてくるぼくにぎょっとした亜双義の顔は認識できたけれど、そこから先の認識は揺れる視界に阻まれてしまった。男二人が倒れる際の衝撃を覚悟してとっさに目を瞑る。しかし待っていた程の衝撃は生まれず、倒れはしたもののどこかを強打したような感覚は覚えなかった。けれどやはり床に思い切りついた右の手のひらはじいんと痺れている。いてて、と呟いたあと、左手の下にある硬い感触と腰に回された手に気が付いた。あ、亜双義。もしかして、ぼくの下敷きになっているのでは――。
慌てて上体を起こし目を開く。「ごめん、亜双義!」そう言おうと口を開いた瞬間、ぼくはすぐさま閉口するはめになった。
ぼくの左の手のひらが、亜双義の"さすぺんだー"の隙間に滑り込んでいる。ふつう、胸板、シャツ、紐のところが、胸板、シャツ、ぼくの左手、紐。そういう順番になってしまっているのだ。しかもこの手のひらの下、突起があるのがわかる。 控えめに存在を主張しているその取っ掛かりに瞬く間に全神経が集中した。
「怪我はないか」
はっとした。亜双義の言葉に、ひと時我に返る。ぼくに怪我はひとつもない。おそらく亜双義がとっさにぼくを庇ってくれたのだろう。
「ぼくは大丈夫だけど、おまえは……?」
「安心しろ。オレもこの通り怪我はない」
そう言って微笑んでいる。安心の感情が「よかった」と素直に声に漏れた。
「ゴメン、亜双義。まさかこんなことになるとは……」
「まあ確かに、足元をよく見ろとは言いたくなるな。何か急ぎの用でもあったのか?」
「……モウレツにおなかが減ったから、急いでかき氷を食べに行こうと思って」
「……キサマらしいな」
今度の笑顔は呆れたときのそれだった。わかるとも、現にぼく本人も呆れているのだから。
「それよりキサマ、さっさと退け。重い」
言われて、現在の体勢を思い出す。慌てて謝りながら体を離した。……かったのは山々なのだけれど。そう、左手だ。亜双義の突起に覆い被さっているこの手。掛かる紐がまた(そんなワケないのだが)「離れるな」と言っているように感じられて、ぼくの動きはまたしても止められた。服越しでも体温が伝わってくる。布一枚下にあるのだ、ぼくが先日さんざん摘まんで引っ張って転がして舐め回したあれが、あの突起が。……いや待て、正気の沙汰じゃないぞ。いくら人気がない時間帯、普段から人通りの少ない一角だからといって、大学の廊下でぼくは何を考えているんだ。人気のない、人通りの少ない、………。
「おい、成歩堂」
「うん、すぐ退く……」
何か言われて何か返した気がする。もはや自分の言葉すら耳に入らない。
……少しだけ、少しだけこの手を横にずらしたら、どうなるのかしら。ぼくがいつも撫でまわしてこねくりまわしているが故、其処に関する亜双義の感度も初めよりはずいぶん上がった。最近では吸ったりするたび体をびくりと震わせて甘い吐息を漏らすのだ。好奇心とそれ以外の何がしかが立ち上がってくる。反応するだろうか。擦れた布に瞳が揺れるだろうか。……あとで斬られるかもしれない。そう考えつつも、ぼくの好奇心を止める理性は一時空の彼方へ吹き飛んでしまった。
左手を強めに擦るように素早く右へ滑らせる。突起が指のひとつひとつに引っかかる感触があった、その瞬間。
「っ、」
亜双義が眉をきゅっと寄せ、悩ましげな息を吐いた。途端に脳に強い衝撃が走る。顔に一気に熱が回った。なんということだ。反応、してしまった。はっとしたように目を開いて手の甲を口に当てる亜双義の顔はほのかに朱色に染まっている。それはあまりに扇情的な仕草で、ぼくの胸は今まで以上に高鳴った。というかよくよく考えればこの体勢だって、意識してしまえばまるで押し倒しているようだと思えてしまう。床に散った髪が乱れて、汗ばんだ首筋がきらきらと光っていた。今は真夏だ、そりゃあ汗ぐらいかいて当然なのだ。けれど今これを目にしてしまうと、どうしたって違う場景を連想してしまう。
「おい」
下からの声にはっとする。地を這うようなそれに今度はこっちの額から冷えているほうの汗が吹き出た。視線を胸から上げると、そこには今すぐにでもぼくを斬り伏せそうに殺気立った表情があった。心臓が凍りつく。
「わざとだな?」
「い、いや……」
「わざとだろう」
「……出来心で……」
つい。あまりにも冷やかな視線に負けて正直にそう言うと、亜双義はまたしても嘆息をひとつこぼす。
「今すぐ退けば見逃してやろう」
腰の刀に手を触れたままそう紡がれた。身の危険を感じたぼくは全力で謝りながらすぐさま手を"さすぺんだー"から引き抜き、両手を上げる。
その時、亜双義の胸に反動でべちんと紐が当たる。
「ッ!」
途端、先刻より大きくその体が跳ねた。瞳は強く揺れ、かすかに声が漏れる。どういう原理なのか鉢巻がピンと張った。ぼくの思考は固まる。今回ばかりはわざとではない、本当に。決してそういうことをしようとしてこうなったのではない。……罪悪感とともに体から湧き上がってしまうこの感情は、もはや仕方がないのだ。しばらく動きの止まった亜双義は、やがて小刻みに震え出す。恐る恐るその表情を窺うと、顔がリンゴのような赤に染まっていた。あ、かわいい……。
「……キサマ!タダで済むと思うな!」
即座に響いた怒鳴り声はぼくの耳をつんざいた。ばっ、と上半身を起き上げた亜双義がそのまま鯉口を切る気配を感じとり、反射的に体を離し距離を取る。しかしその怒りはおさまらないようで、亜双義は真っ赤な顔のまま刀を抜いてぼくを追いかけてきた。
「わ、わざとじゃない、本当に!わざとじゃないんだ!」
「うるさい!そこに直れ!」
必死に伝えようとも、もはやぼくのために貸す耳はないらしい。鬼神のごとく溢れ出る殺意から逃げまどいながら、ぼくは場違いにも先程の亜双義の表情や声を脳内で幾度も反芻してしまっていた。ああ、今夜も触ってもいいだろうか。……なんて、今の思考を悟られたら本当に真っ二つにされそうだ。
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