震えるほど寒い夜だった。星のひとつも見えない真っ暗闇に差し込んだ光はぼくの網膜を刺すように照らす。眩しさに目を細めると、狭い視界の先に黒い影が映った。誰か、という疑問は愚問だ。明順応したぼくの目には、いつも通り亜双義の姿が現れる。ぼくは、率直に問いを口にした。
「……もう朝になったのか?」
「いや、まだ夜だ」
そうだよな。つい先刻夕飯を共に食べたばかりだもの。後はもうぼくは眠りにつくだけだ。なら、何故この洋箪笥は開けられたのか。亜双義を見つめながら言葉を待つ。亜双義はただぼくと視線を交わらせ、口を引き結んでいた。瞳に影がある。睫毛。涼しげな目元。ああやっぱり格好良いな、と感心にも似た感情を抱く。
時間が止まったかのような錯覚をしてしまう。亜双義はずいぶん長い間喋らない。言葉を選んでいるのだろうか。だとしたら、ぼくはどんな話をされようとしているのだ。そう思ったが今の亜双義の雰囲気は別段険しくも恐ろしくも感じられないので、そこまで深刻な話ではないのだろうかとも思える。むしろどちらかというと何だか優しげな、気の抜けたようなようすの。思考していると、亜双義がついに言葉を発した。キサマが、と。
「此処を開けてキサマが眠っていたら、口づけをしてやろうと思っていた」
今度こそ本当に、時間が止まった。ぼくはまばたきも忘れて、亜双義をじっと見つめる。そうすることしか出来なかった。亜双義は、ぼくを静かに見下ろしている。やはりその空気には柔らかさが纏われていて、ぼくの言葉を待っているだとか、そういう風には感じられなかった。その明るさに当てられながら、ぼくは焦燥と思考を同時に抱える。口付けをしてやろうと、と亜双義は言った。冗談だと笑い飛ばす気はどうやらもうないらしい。けれどぼくがいま冗談だろうと笑えば、もしかすると効力を無くす言葉かもしれなかった。それくらいにこの夜はきっと、優しい。果たして今ぼくは何を言うべきか。……いや、何が言いたいか。
「亜双義」
考えもまとまらないままに、ぼくはその名前を呼んだ。亜双義は特に気を揺らす様子もなく、「なんだ」とだけぼくに返す。口の中でいろいろな感情が弾けた。手のひらを爪で押さえつける。
「……ぼく」
「ああ」
「今から、眠ろうと思うんだけど」
いったい何を言っているんだろう。ふわふわと、頭の中に浮遊感が生まれている。亜双義の瞳が先刻より大きく開かれた。纏う雰囲気に微量の変化が訪れる。ぼくの唇は乾いていた。
「だから、後を頼んでもいいかな」
亜双義の目元がちいさく揺れたのを、ぼくははっきりと認識した。視線と視線はぶつかり合ったまま逸れることもない。夜のような黒の先に光のような白をゆるやかに見出だしながら、ゆっくりと瞼を下ろした。視界が暗転し、ぼくと亜双義の間に静寂が横たわる。
「……分かった」
少しだけ掠れた声はその一言だけを返した。ぼくはゆっくりと唾を飲む。喉の鳴る音は部屋によく響いた。またしても、時が止まる。一秒、二秒、……二十秒目で数えるのを止めた。あ、服の擦れる音が、聞こえる。
「………」
亜双義の息遣いをずいぶん近くに感じた。微かな呼吸を全身が感じ取る。それはやがて、顔のあたりに確かな存在感として近づいていた。ぼくは手のひらに立てていた爪をより深く埋める。
「成歩堂」
どうしてだか忍ぶように名を呼ばれた。けれど、返事はできなかった。ぼくの唇には厚く柔らかい感触が降り落ちる。その瞬間、胸の内側がパチリと弾けるように疼いた。それはだんだん甘い痒みを帯びて、全身へと広がっていく。亜双義はぼくの後頭部へと手を伸ばし、まるで慈しむかのように撫でる。その指先、ああまさか、ーー震えているのか!
胸の痒みはより増し、ぼくは思わず瞼を強く閉じ直した。亜双義の息の軌道をたどってしまう。余した両手は、耐えきれずその頬へと導かれた。……困ってしまうほど、熱い。
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