鋏を新調したから切れ味を試したいのだけど、自分の爪はまだ伸びていないのでよかったらおまえの爪を切らせてくれないか。下宿にやって来た亜双義に駄目元でそう頼んでみると、意外にも「構わんが」という返事を頂くことが出来た。手の爪はこの前切ってしまったらしくそこまで伸びていなかったので、足の爪を切らせてもらうことにする。畳に座る親友にじゃあ足をこちらに出してくれと頼むと、何故か苦々しい顔をされた。
「……引き受けておいて何だが。キサマ、ちゃんと出来るのか?」
「で、出来るよ。任せてくれ」
「失敗してくれるなよ」
そう言いながら亜双義は靴下を脱ぎ、こっちに素足を向けてくれた。ぼくは片方の手に鋏を握り、もう片方に亜双義の足を乗せる。四角く角張った爪は確かに先端の白が少し長い。どれくらいまで切ればいいかしらと考えながら爪先を指で軽くなぞった。途端、斜めに揃った足の指たちがぴくりと動く。
「おい、擽るな。真面目にやれ」
まったく、と嘆息される。べつに擽ったつもりはないのだけど。けれど普段人に触られないところを触られるというのは、まあ通常より感覚が敏感になってしまうのだろうとは思う。ともかく、これ以上怒られる前に早く切ってしまおう。
まずは親指に刃を宛がう。「気を付けろよ」と声をかけられながら、浅めに切り込んだ。ぱちん、と小気味よい音がして、爪が跳ねる。
「痛くなかったか?」
「ああ。問題ない」
その言葉にひとまず安堵した。また刃の間に爪を挟み、ぱちん、ぱちんと形を整える。そうこうしているうちに、なんとか無事に親指の爪がそれなりの良い形に整った。良かった。思いながら短く息を吐いた後、次の人差し指に照準を当てた。また爪に鋏を宛てがい、ぱちん、ぱちんと。その音はやがて一定の音楽となって、場をゆるく支配していく。
「……なんだ、上手いじゃないか」
それまで黙っていた亜双義がぽつりとそう呟いた。なんとなく顔を上げると、口元を綻ばせながら温かい眼差しを向ける表情と目が合う。少しほっとした。
「ちゃんと出来るって言っただろ」
「ああ、そうだな。なかなかに心地が良いものだ」
「それは何より」
少し得意気な気持ちになりながら、また足に視線を戻す。中指の爪に鋏を入れ、次は薬指と小指。少し小さいので慎重に切り進める。ぱちん、ぱちん。集中する。瞳をできるだけ精緻に据える。
ぱちん。小指の部分が切り揃った。
「……ふう」
なんとか片足の爪切りを終える。爪はより完璧な四角へ近づいた。鋏の切れ味は良いし、何より我ながらなかなかきれいに揃えられたな、と微量の達成感と感心から掌の上のそこをまじまじと見つめる。
「終わったのか?」
すっかりくつろいでいた様子の亜双義に声をかけられ、足に視線を向けたまま、ああ、と返事をした。
「終わったよ」
「そうか。ではもう片方も頼む」
「うん」
わかった。と返事を返す。しかしぼくの目は未だ固定されたままでいた。骨ばった指、大きなくるぶしと少し硬い足裏。それらの一番先端である部分を切り揃えたのは、ぼくだ。整った形の爪は肌色によく映えて、角張る足の指にじっと据わっている。何故か唐突に、今日は朝飯を食べ損ねたことを思い出した。
「……成歩堂。早く離せ」
切っている最中は集中していてあまり意識していなかったけれど、こっちが切りやすいように少しだけ曲げられていたあの指先や、こちらにすべてを委ねてくるその重さがなんだか今にして胸を擽る。桜色の爪。故郷の近所にある和菓子屋が春になると店に出す、あの桜餅のようなきれいな色だ。ぼんやり考えている間に、ぼくの本能は自然と表へ飛び出してしまったらしい。
ぼくはつい、目前の足の指を口に含んでしまったのだった。
「なッ……」
絶句したような亜双義の声をどこか遠くで聞きながら、爪の表面を舌で舐めてみる。もちろん甘くはなかったが、塩漬けにされたあの程よく塩辛い葉に似た風味は見出だした。軽く吸ってみたあと、指の腹を甘く噛む。すると、びくりと揺れた。それがなんだか面白くて、今度は親指と人差し指の隙間に舌を挟んでみる。押し広げて、くぼみを舐った。
そこで、腹に強い衝撃が走る。不意の事にまったく抗えず、小さく呻いたあとに体を畳に勢いよく寝転ばせた。困惑しながら状況を確認すると、亜双義が足を突きだした状態でぼくをぎりりと睨んでいた。あ、蹴られたのか。
「きしゃ、……キサマ!何をする!」
亜双義は眉をつり上げてぼくを怒鳴る。噛んだ、なんて今指摘したら確実に斬り捨てられるであろう雰囲気だった。まずい、何が弁明しなければ。けれど自分自身完全に本能で動いてしまった節があるので、弁明も何もマシな言葉のひとつすら満足に思いつきやしない。困り果てた末に混乱を極めたぼくは、とりあえず頭に浮かんだ素直な感想を口に出すことしかできなかった。
「あの、……しょっぱい味がした」
「そんな事は一言も訊いていない!」
だろうな。胸中で冷静に呟く。亜双義は警戒するように足を引っ込めてしまったし、ぼくの思考は結局まとまらない。とりあえず謝らなければと思い、「ごめん」と謝罪の言葉を口にした。亜双義はぼくをじっと睨んだあと、やがて大きなため息をひとつつく。
「……美味そうにでも見えたか、オレの足は」
「あ……うん」
一概に言えばそれだけではない気がするけれど、確かにそう思っていたので素直に頷いた。亜双義は苦笑を浮かべ、また息を吐く。
「キサマにならいつか本当に食われかねんな」
言われてしまい、ぼくも「ははは」と苦笑を返す。これでまたいらぬ食い意地を見せつけてしまった。呆れ返った視線が目に痛い。けれど、確かに。亜双義なら食べてしまえそうだな。と、頭の片隅で言葉がうごめいた。どれだけ食い意地が張っているんだと怒られそうだけれど、美味しそうだ、亜双義は。いや、実際美味いのだ。硬いけれど柔らかい。しょっぱいけれどどこか甘い。ああそういえば昨夜も、首筋を噛んだ時ーー。
「……いや、もう何度も食われているか」
現に、昨夜も。と、まるでぼくの思考を読んだかのように亜双義は口元を歪めて呟いた。その口が昨日何をくわえていたかを連想してしまい、顔に一気に熱が集中する。亜双義はぼくを見据え、その熱を自らの瞳の中へとうつした。引っ込められていた足がまたこちらへ向く。ゆっくりとぼくへ伸びるそれは、やがてぼくの顎の形を爪先でそっとなぞった。
「なんなら、今日もキサマの食い意地を満たしてやろうか?」
それは明らかに、そういう意味だ。言われた途端にぼくの腹は空になる。目の前の男を親友としてではなく、「食らう物」として認識する。瞬間、理性が擦りきれた。
「亜双っ……」
本能のままその体に覆い被さろうとした時、またしても腹に一撃が入る。しかし今度は先刻よりかは優しいもので、攻撃を与えるというよりはぼくの動きを制止するためのものだった。
「……キサマは犬か。こっちの爪がまだだろう」
そう言われ、目先に爪を切り終えていないほうの足を突き出される。ああ、そういえば、まだ片方しか切っていないのだ。もうすっかり忘れていた。とは言えぼくの体の熱はもうすっかり臨戦態勢のそれに入ってしまったところである。今すぐにでもどうにかしてしまいたい、その存在がすぐ目の前にいるというのに。自分が引き出したくせに、亜双義はぼくの熱に視線で「一度引っ込めろ」と囁きかけてくる。……ぼくは嘆息した。ああ本能よ、どうか今は耐え忍んでくれ。
「意地が悪いぞ亜双義……」
「……ふ。てきとうに済ませるなよ」
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